~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

15.光の紅龍(1)

不意に、ベッドの中でサマエルは顔を上げた。
「どうしたの?」
驚いて、フェレスが尋ねる。
「いや……呼ばれたような気がして。
まさか、ね。まあ、タナトスのことだ、私の悪口を並べ立てているのかも……」
考え込みかける彼の首に腕を回し、フェレスは甘くささやく。
「ねぇ……続けて」
「そうだね。もう私には関係ないし」
彼は妻に口づけた。

そうやって夢中で愛し合ううち、四日ほどが経った。
「これ、もう一度、受け取って下さる……?」
ようやく一息入れたとき、フェレスが差し出したのは、ウズラの卵ほどの大きさをした宝石だった。
紅い液体を水に落としたときにできるようなマーブル模様が、透明な石の中に浮かび上がっている。

「もちろんだとも、ありがとう。
もう一度これを手にすることができるとは、私は何と果報者なのだろう……」
うやうやしく貴石を受け取った彼は、掌の上に乗せてじっくりと眺めた。
これはウィルゴと呼ばれる石で、授けられた者を強力に守護する力がある。
以前、フェレスが創り出した彼との愛の結晶は、“焔の眸”を復活させるために使用され、失われていた。

「いつ見ても美しいね、フェレス」
そう言って彼が顔を上げたとき、妻の眼は閉じられていた。
「……フェレス? どうしたの?」
揺すってみたが、彼女はぐっすり眠り込んでいて、眼を覚ます気配もない。
睡眠を必要としない宝石の精霊にしては、珍しいことと言えた。

「疲れたのか……無理させ過ぎたな」
彼は照れ笑いを浮かべた。
いくら彼女が生身ではなく、精力もサッキュバス並に強いからといって、やはり、夢魔の王子である彼には(かな)わないのだろう。
それでも、一人の相手とこれほど続けて愛し合ったのは初めてだったので、彼はとても満足していた。

今まで女性を相手にするときは、極度に気を遣わなければならなかった……狂わせてしまわないように。
イシュタルだけには、その心配はなかったものの、独占することは許されなかった。
実父かどうか定かではないが、自分の父親ということになっている男の、彼女は愛人だったのだから。

「お休み、フェレス。キミはとても美しいよ」
光の中で輝いて見える妻に口づけ、ウィルゴを宝石箱にしまおうとして、彼はもう少し、そばに置いておきたくなった。
サイドテーブルに白いヴェルベットの布を敷き、貴石にキスして乗せる。
そして、彼女の隣で眼を閉じた。

目覚めると、ベッドの横は空だった。
太陽の位置がほぼ同じということは、丸一日眠っていたのだろう。
フェレスの姿を求めて周囲を見回したとき、外から、少年のはしゃぐ声が聞こえて来た。
「あははは、ケルベロス、そら、そらっ!」

サマエルはガウンを羽織り、バルコニーに出てみた。
明るい初夏の日差しを受けて、中庭でじゃれ合っていたのは、浅黒い肌を持つ黒髪の少年と、銀色の毛並みをした魔狼だった。
「あれは……ゼーンか?」
彼は額に手をかざし、つぶやく。
一人と一頭は彼には気づかず、歓声を上げて、噴水の水をかけ合っている。

ゼーンが全裸だと気づいたサマエルは息を呑み、その心には、どす黒い感情が湧き上がって来た。
それに突き動かされるままに、彼は中庭へ出、ずかずかと魔狼に近づく。
「ケルベロス。これはどういうことだ!」
その声は冷たく尖っていた。
ケルベロスは、頭を低くし、尾を胴体の下に入れ、(おび)えたように後ずさる。
“オ、オ館様……”

「サマエル様?」
不思議そうなゼーンを無視して、サマエルは狼の首根っこを押さえつけた。
「……お前は、いつ、私の妻に、馴れ馴れしくするほど、偉く、なったのだ?」
“オ、オ館様、ゴ勘弁ヲ……”
眼を白黒させ、狼は苦しげに許しを()う。

「おやめ下さい、サマエル様、ケルベロスは悪くありません、僕がいけないんです!
彼は門の外で待つって言ったのに、僕が無理に引っ張って来たから……」
ゼーンが慌てて、彼に取りすがった。
「お前が?」
サマエルは手を止めた。

「はい。フェレスも他の皆も、サマエル様もぐっすり寝てたし、今だけなら、“僕”になってもいいかな、って思って……。
化身になってからは、お外になんか出たことなかったし、お日様を浴びてみたくってお庭に出たら、ケルベロスが来て……そしたら昔、飼犬と遊んでた記憶が(よみがえ)って、つい騒いじゃって……。
僕もう出て来ません、ずっと石の中にいます……お休みの邪魔して、本当に済みませんでした」
宝石の化身は深々と頭を下げ、うなだれたまま、部屋に戻りかける。

「待ちなさい、ゼーン。済まない、私としたことが、つい感情的になってしまった。
……ケルベロスも、許しておくれ」
我に返ったサマエルは、魔狼を解放した。
“イ、イエ……我ノ方コソ、分モワキマエズ、申シ訳ゴザイマセン……”
ケルベロスは、乱暴に取り押さえられたことよりも、いつもは優しい主人の激しい怒りに衝撃を受け、身を震わせていた。

「本当に済まない……楽しそうなお前達を見ていたら、急に……。
私は、あんな風に外で誰かとたわむれたこともなく、ましてや家族団らんなど望むべくもなかったから、(ねた)ましくてね……」
魔界の王子は、伏目がちに言った。
「えっ、妬ましい!?」
ゼーンは眼を丸くした。

「そう。子供の頃、ベルゼブル陛下とイシュタル叔母上、タナトスがごくたまにだが、談笑している場面に出くわすと、途端に、陛下はそっぽを向かれるし、叔母上は何だかばつが悪そうで、タナトスは私を睨んで来るといった具合でね。
……気づかれないうちに、そっと立ち去るようになったよ……。
だから、今のことは忘れておくれ、ゼーン、ケルベロスも」
サマエルは微笑み、狼の頭を優しくなでた。
魔狼は悲しげに鼻を鳴らし、主人の頬をなめる。

「サマエル様……」
複雑な表情で彼を見ていたゼーンは、ややあって決意したようにうなずいた。
「じゃあ、これから一杯、団らんをしましょう。
僕らとケルベロス、タィフィン、それにリオンにシュネ……皆あなたの家族ですから」
サマエルは、かすかにうなずく。
「ああ、これからすればいいのだね……」

「そうですよ、じゃあ、今日は水遊びをしましょう!
やってみたかったんでしょう、ね?」
ゼーンは、にっこりした。
「えっ、水遊び!?」
今度はサマエルが驚く番だった。

「じゃ、行きますよ、そらっ!」
少年は叫び、いきなり彼に水をかけた。
「な、ゼーン、つ、冷たいよ、や、やめ……」
サマエルは思わず手で顔をかばうが、化身はお構いなしに、水をすくっては彼に浴びせる。
さらにゼーンは、まだうずくまっていた魔狼の背中をたたいた。
「ほら、ケルベロスも。遊ぼ、ほら、立って。遊ぼってば!」

「ガウッ!」
気を取り直して起き上がったケルベロスは、自棄(やけ)気味で勢いをつけ、思い切り噴水に飛び込んで、二人に頭から水しぶきを浴びせた。
「わあっ!」
「ああ……これはひどいな」
魔狼を叱ろうとしたサマエルは、同じように全身から雫を垂らしたゼーンと眼が合うと、思わず笑い出してしまった。
「ははっ、ゼーン、お前、濡れねずみだよ」
「あはは、サマエル様もですよ!」

「よぉし、今度は私からお返しだ! それ!」
サマエルは、濡れて絡みつくガウンを脱ぎ捨て、少年と、噴水から上がって来た魔狼とに、水をかけ始めた。
「わっ、僕じゃないのにー!」
ゼーンは頭を抱えて逃げ惑い、ケルベロスは楽しげに尾を振りながら、主人達の周りを駆け回る。
そうやってしばらくの間、二人と一頭は夢中になって遊んだ。
特にサマエルは、生まれて初めてといっていいこの体験を、心から楽しんでいた。

やがて日が(かげ)り始めた。
初夏といっても高い山の上のこと、夕方になると風は冷たい。
ケルベロスがくしゃみをすると、そろそろ潮時だと、サマエルは気づいた。
「さて、今日はとても楽しかったが、もう日が沈む。そろそろ終わりにして屋敷に入ろう。
ケルベロス、お前もどうだい?」

ぶるぶると体を揺らして水を切っていた魔狼は、動きを止め、答えた。
“イエ、妻ガ待ッテオリマスノデ、モウ戻リマス”
「そうか、引き止めるのは野暮だね、ぜひまたおいで」
「じゃあね、ケルベロス。また遊ぼう」
ゼーンは手を振る。
“ハイ。オ館様、並ビニ奥方様。本日ハ、楽シイ時ヲ過ゴサセテ頂キ、アリガトウゴザイマシタ”
ケルベロスはうやうやしく頭を下げ、帰路に着いた。

「ああー、お庭が水浸しだ、済みません、どうしよう……!」
周囲の惨状に改めて気づいたゼーンが頭を抱えると、サマエルは微笑んだ。
「気にすることはないよ。
──ホルトゥス!」
彼の呪文で、あっという間に庭園は元の姿を取り戻した。

「さあ、これでいい。中に戻ろう、寒いだろう?」
「いえ、僕はもう、生き物じゃないので。サマエル様こそ、お寒いのじゃないですか?」
そっと彼の体に触れた途端、ゼーンは声を上げた。
「わ、冷たい! 早く温めないと、お風邪を召しますよ!」

「大丈夫だよ、私は蛇だから、常にこんな感じでね。温かくなるのは、入浴したとき……くらいかな」
ベッドで……と続けそうになって、彼はやめた。
だが、まるでそれが聞こえたかのように、ゼーンは顔を赤らめた。
「あ、あの、サマエル様……ぼ、僕を、その……だ、抱いてくれませんか?」

「え?」
虚を突かれ、彼は少年を見た。
「わ、分かってます、サマエル様が、女性をお好みだってことは。
でも、一度だけでいいんです、お願いします! あとはこんなこと、ねだったりしませんから……!」
熱い思いを揺らぐ炎の瞳に込めて、ゼーンは彼を見返す。

サマエルは苦笑した。
「いや、取り立てて、こだわっているわけではないのだがね。
男に無理矢理、という場合が多かったものだから。
そういえば、少年を相手にしたことはなかったな。
ダイアデムは、キスくらいはしてくれるけれど、それ以上のことは……。
やはり私は、嫌われているのだろうね……」
彼は眼を伏せた。

「そ、そんなことないと思いますけど。だって彼は、いつもサマエル様のことばかり……」
「ああ、ゼーン。その、“様”というのはやめてくれるかい?
私達は夫婦なのだよ。そうしてくれたら……」
「よろしいんですか!?」
少年の瞳の奥の炎が、ぱっと燃え上がった。
「もちろん。お前も私の妻だ」
サマエルは答え、ゼーンを引き寄せ口づける。
横たわると、芝生は太陽の熱を含んでまだ温かかった。



「ウィルゴ……って呼んでいいんでしょうか、これ。
僕、創るの初めてで……受け取って頂けますか?」
終わった後に、ゼーンはおずおずと手を差し出す。
掌の上で輝いていたのは、漆黒の中に様々な遊色(ゆうしょく)が踊っている、卵形の貴石だった。

「ありがとう。美しいね。女性だけが創ると思っていたが。
フェレスのとはやはり違う……ブラックオパールに近いかな?
見ていると、情熱がかき立てられるよ」
「えっ? あ」
宝石を手にしたサマエルは、少年を抱き上げ、ベッドに向かった。

遊色効果(ゆうしょくこうか、play of color)

宝石などが虹のような多色の色彩を示す現象。
物質に光が入ってきた際に、物質内部の結晶構造や粒子配列によって光が分光され、多色の乱反射が生じる事で引き起こされる。
遊色効果を示す鉱物の代表例がオパールである。(Feペディアより)