~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

14.究竟(くきょう)の光(2)

「辛かったのだな、テネブレ。
この際だ、お前が今まで溜め込んで来た思いを、今ここで、俺にすべてぶつけてみろ」
思いもよらぬ優しい言葉をかけられた貴石の化身は、面食らったように、涙で濡れた顔を上げた。
「サタナエル……?」

「俺は、お前のことを、何も知らなかった……いや、知ろうともしなかった。
ガキの頃、親父や家臣共に聞かされた話をただ鵜呑(うの)みにし、お前自身から直接聞くことを(おこた)っていた……済まなかったな」
魔法陣の前に片膝をつき、タナトスは、髪が床につくほど深々と(こうべ)を垂れた。

「や、やめよ、サタナエル。
()(おもて)を上げよ、魔界の君主たる者が、左様な真似を……!
今日(こんにち)まで重ねて来た、数多(あまた)悪行(あくぎょう)を思えば、おぬしの父バアル・ゼブルを始め、皆が、我を()しざまにののしるは、至極(しごく)もっともな道理……あっ」
タナトスに向かって差し伸べられた“黯黒の眸”の手は、結界に弾かれてしまった。

「大丈夫か!」
さっと結界に腕を差し入れ、タナトスは傷ついた化身の手を取った。
「いや、何のこれしき……それにつけても、かような話、耳に入れたとて何の益もない。
おぬしが、不快な心持ちになるのみぞ……!」
テネブレはもがいたが、彼は手を離そうとはしなかった。

出自(しゅつじ)はともあれ、“黯黒の眸”は、“焔の眸”と双璧(そうへき)を成す魔界の至宝。
言うなれば、魔族の守護神たるべき存在だ。
なのに、テネブレ、お前だけが禍津日神(まがつひのかみ)でもあるかのごとく振舞うようになってしまったのはなぜなのだ?
その理由を知り、お前の罪をきちんと清算して、妻に迎えたいのだ!」
魔界の王は、化身の手をにぎったまま、眼を見つめて宣言した。
ニュクスとのやりとり、また“焔の眸”の忠告から、彼は、“黯黒の眸”に自分の意思を伝えるには、明瞭さが必要不可欠だということを学んだのだった。

「か、かような邪悪な者までを、お妃にと()る!?
い、いけませぬ、タナトス様、ご再考を!」
仰天した魔法医は、思わず大声を上げる。
「黙れ、今度何かほざいたら、殺すぞ」
タナトスは家臣を睨み、低い声で脅しつけ、エッカルトは仕方なく口をつぐんだ。

「……この、我をも、妻に、と……!? (けだもの)や女、だけでなく……!?」
信じられない様子で、彼を凝視していたテネブレの暗い瞳から、再び涙がぼろぼろとこぼれ始める。
「おお……おお……我は……あのまま、見捨てられると思うておった……!
かつて……闇に封じ込められ……飢えて衰え死んだ、あのときと同じく……」

「済まん、勘違いさせてしまったな。
大事の前ゆえ、念のためにと、一時的に封じていただけだったのだが。
俺はな、天界との戦に勝利してから、じっくり時間をかけて話し合おうと思っていたのだ。
そうすれば、お前とも必ず分かり合えるだろうと。
くそ親父や、家臣共のことは気にせんでいい、どうせ口だけだし、俺が責任を持って説得する、大船に乗った気でいろ」
タナトスは、“黯黒の眸”に微笑みかける。
口を開きかけたエッカルトは、君主の険しい視線に会って、言葉を飲み込むしかなかった。

“黯黒の眸”の化身は、居住まいを正した。
「……相分かった。左様に申してくれるのであれば、語るとしよう。
我が、幽囚(ゆうしゅう)の身と成り果て、あげく息絶える羽目に陥ったその経緯(いきさつ)を……。
生まれし時より、我は次代の王として期待され、ケテル、すなわち“王冠”と名づけられた。
絵に描いたような幸福とは、あのようなことを申すのであろうな。
日々、光と笑いに満ちあふれた暮らし……それが永遠に続くものと思うておった、されど……」
テネブレは不意に言葉を切り、天を仰いだ。

「一万五千歳の誕生日のあくる日、だったな?」
タナトスが優しく促す。
化身は視線を彼に戻し、気が重そうに続けた。
「左様……我が肉体は……筆舌(ひつぜつ)()くし難き、とある変容を遂げており……我が精神は……暗い奈落の底へと突き落とされるに至ったのだ……」
「ふむ。一体、どんな姿になったというのだ?」

タナトスは軽い好奇心から尋ねたのだが、テネブレの顔色は紙のように白くなり、わなわなと唇を震わせた。
「そ、それは、口が裂けても言えぬ。
万が一にも、おぬしが眼にしたならば、我をも妻になどと、二度と口にする気にもなれぬであろうよ……」
悲しげにうなだれる化身を見た彼は、それ以上の追究をやめた。
「それで、その姿が気に入らず、父親はお前を殺そうとしたのか。
薄情なものだ……初見は多少気味が悪くとも、見慣れればどうにでもなると思うがな」

“黯黒の眸”の顎に手を添え、その禍々しい顔を覗き込んだ刹那、彼は、はっと息を呑んだ。
この化身は常に、黒いローブで全身を覆っている。
そのため、こうやって、顔を身近でまじまじと見たのは初めてと言ってもいいくらいだったのだが、本来テネブレの眼球があるべきところには、ただ暗黒の空洞がぽかりと口を開けているのみだった。

「……そうか、俺は勘違いしていた、お前の眼球には白目がなく、すべて黒いのだと……。
お前、眼が見えておらんのだな?」
魔界の王の問いかけに、化身はうなずいた。

「我が眼窩(がんか)には眼球が存在せず、よって、通常の視力と呼ばれるものもない。
周囲の気配を読み取り、透視するゆえ不要なのだ。
く、加えて……わ、我が真の風姿は……お、おぬしが想像致しておるよりも、遥かに醜く……み、見慣れるはずも、ないほど……。
う……こ、この世のものとは、と、とても、思えぬ……ううっ、くうっ」
声を詰まらせながらもどうにか話し続けていたテネブレは、しまいに嗚咽(おえつ)し始めてしまった。

「おい、泣くな、落ち着け」
タナトスはそっと、化身の背中をさする。
そのとき、彼らの後ろで、エッカルトがつぶやいた。
「ケテル王子……光の申し子と呼ばれたお方、ですな」
「知っているのか、貴様」
魔界王が振り向くと、魔法医はうなずいた。
「王家の歴史を紐解(ひもと)いた折、“悲劇の王子”との記述を眼に致しました。
……されど“黯黒の眸”ならば、どの王子の名を(かた)るも容易、ではございますな」

わざとらしく付け加えられた台詞に激昂(げっこう)したテネブレは、自分の胸をたたいた。
「誰が騙りか! 真実、この我が、当の王子だ!」
タナトスも眼を怒らせ、結界から腕を引き抜くと、魔法医の胸倉をつかんだ。
「貴様、死にたいか、いい加減にしろ!」

君主に揺さぶられながらも、エッカルトは言いやめようとはしなかった。
「タ、タナトス様、お眼をお覚まし下され……あ、あなた様のお体は、もはや、あなた様お一人のもの、では、ございませぬ……!
か、かような(やから)にたぶらかされ、と、取り返しのつかぬことになりでもしたら、い、一大事で、ございまするぞ……!
た……たった一匹の、化け物のために、魔界の未来が、閉ざされてしまう、左様なことだけは、ぜ、絶対に、避けねば……!」

「黙れ、黙れ、黙れ!」
聞く耳を持とうとしない彼に、魔法医は念話に切り替え、話しかけて来た。
“お静まり下され、タナトス様。
この者を故意に怒らせ、真実を語らせるよい機会と心得ます、将来に禍根(かこん)を残さぬためにも、どうか、わたくしの進言をお聞き入れ下さいませ……”
「うるさい! 貴様や家臣共が何と言おうと、俺はもう決めたのだ!」

いくら(さと)しても耳を貸そうとはしない君主に、エッカルトは、意を決したように心の声を強めた。
“それでは申し上げまするが!
わたくしの弟と息子は、()のトリニティーとの戦にて、戦死致しました、先の戦は、何者の差し(がね)でございましたでしょうな!?”
「……!」
タナトスはぎくりとし、動きを止めた。

人界の王セリンが、版図(はんと)を広げる野望に駆られ、魔界に対し一方的に宣戦布告して来た……トリニティーとの戦争の発端は、当初はそう思われていた。
だが実際は、テネブレがセリンを操り、引き起こしたものだった。
それが判明して以降、元々低かった“黯黒の眸”の評判は、完全に地に落ちたと言ってよかった。

「……お分かりでございまするか?
“黯黒の眸”……(いな)、正確にはこのテネブレ……のことを、よく思わぬ者はわたくしだけではございませぬ。
彼らを得心(とくしん)させるためにも、しっかりと見極めねばなりませぬぞ、この者の言葉が、真実か否かを」
主君の眼を見つめながら、エッカルトは今度は声に出し、きっぱりと言ってのけた。
「くっ……」
当事者である家臣にここまで言われてしまうと、さすがのタナトスも黙るしかなかった。

その様子を見ていたテネブレは、唇を噛んだ。
「……化け物、か。たしかに、我は、二目と見られぬ、おぞましき怪物だ。
それほどに、我が言質(げんち)を取ることを望むならば、とくと見るがよい、実の父に、存在の抹消を決意させるほど嫌悪を(もよお)させた、我が第一形態を!」
化身は叫び、体が(まばゆ)い光に包まれた。

直後、魔法陣の中に現れたのは、第二形態でいたときと同じ、黒のローブ姿だった。
ただし、背はかなり小柄になり、タナトスよりも頭一つ分ほど、低くなっている。
固唾(かたず)を呑んで見守る二人の前で、“黯黒の眸”は、ゆっくりとフードを外し、その顔を(あらわ)にした。
一瞬の間を置き、タナトスが、拍子抜けしたようにつぶやく。
「……何だ、さほど妙なところなど、ないではないか……?」

遥かな昔、魔族の王子だったと自称するこの化身……その第一形態の容貌は、醜いどころか、サマエルにも負けず劣らず美しかったのだ。
女性のようにも見えるほっそりとした顔立ち、染み一つない純白の肌、肩にかかる巻き毛もまた真っ白で、背中の翼だけが黒かった。
見た目の年齢は人間で言えば十五、六歳くらいだが、幼いようでいて、老成した感じも受けるのは、計り知れない年月を経て来た(あかし)だろうか。

中でも特徴的なのは、その眼だった。
フェレス族ゆかりの猫眼(びょうがん)自体は、現在の魔族にも受け継がれているため、さほど珍しいものではない。
この化身は、左右の瞳の色が違い、右眼が金、左が青みがかった銀色をしていたのだ。

醜貌(しゅうぼう)が聞いてあきれる。やはり虚言(きょげん)であったな」
エッカルトは、我に返ると首を横に振った。
「顔面は生来(せいらい)のもの、変化したのは肉体のみだ」
魔法医に鋭い視線を注ぎ、ケテルは胸に手を当てる。
その声も、テネブレでいたときとはまったく異なり、少女のように澄んだ美声だった。

「……さあ、見るがいい、これが……」
かつての王子は大きく息を吸い、震える手で闇色のローブをつかむ。
「我が真の姿だ!」
そうして、剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。

まがつひのかみ【禍津日神】

災害・凶事などを引き起こす神。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から帰ってみそぎをしたとき、その汚れから生まれ出た神という。

ゆうしゅう【幽囚】

捕らえられて牢などにとじこめられること。また、その人。囚人。

筆舌(ひつぜつ)に尽くし難(がた)い

文章や言葉で十分に表現しきれない。物事の程度が甚(はなは)だしいことをいう。

がんか【眼窩】

眼球の入っている、頭蓋骨の深い大きなくぼみ。がんわ。

おえつ【嗚咽】

声をつまらせて泣くこと。むせび泣き。

かたる【騙る】

《「語る」と同語源。もっともらしく、巧みに話しかけるところから》
1 金品をだましとる。
2 地位・名前などを偽る。詐称(さしょう)する。

かたり【騙り】

人をだまして金品を巻き上げること。また、その人。詐欺。詐欺師。

げんち【言質】

《「ち」は人質や抵当の意》のちの証拠となる言葉。ことばじち。「げんしち」「げんしつ」は誤読から生じた慣用読み。