14.究竟 の光(1)
「また貴様かっ!」
タナトスは
もちろん、彼は、その声に覚えがあった。
『久しいな、魔界の君主よ』
邪悪そのものといった感じの笑みを浮かべ、別人と化したニュクスは答える。
彼女は、今や、完全にテネブレに支配され、その眼もまた、深い洞窟の暗さを
「貴様、
カッとなり、殴りかかりそうになったタナトスは、どうにか自制し、腕を振るだけに留めた。
『左様に声を
せっかく、この我が、闇ではなく光の紅龍へと変化する歌を授けてやろうと、わざわざ出て参ったと申すに』
「光の紅龍だ?
……貴様、また、そんな口から出任せを……」
彼は顔をしかめた。
「左様、タナトス様、こやつの申すことなど、
人の心の隙間につけ込み、堕落、あるいは狂わせて死に至らしめる……魔法医ギルド代々の覚書にも、左様な例が多数、出て参りまする。
この怪物は、
エッカルトが二人の間に割り込み、“黯黒の眸”をなじる。
以前のタナトスなら、魔法医に言われるまでもなく、さらに強力な呪文でテネブレを封じ込めていたことだろう。
しかし、今の彼はそうする気にはなれず、言った。
「口出し無用だ、エッカルト。
テネブレ、とりあえず話は聞いてやる。貴様も俺の妃の一部分なのだし、
『ならば、まずは我を解放してもらおうか。今のままでは、親密な語らいも、し難い。
おぬしも不快であろう、愛する女の口から、かような声が聞こえて来るというのは……くくく』
ニュクスに取り
たしかに、それは、かなり違和感のある光景ではあった。
美しい女性の口から、外見にまったくそぐわない、しわがれた不気味な声が響いて来るのだから。
「いけませぬ、タナトス様! こやつ、何を企んでおるのか、分かりませぬぞ!」
エッカルトは、必死に君主を止めようとする。
「貴様も心配性だな、話を聞くだけだぞ。その後で判断すればいい。
無論、厳重に結界の中に入れて、だがな。
どうだ? テネブレ、不服か」
魔界王が確認すると、闇の化身は首を縦に振った。
『差し支えない。耳を傾けてもらえるのであれば』
「よし」
タナトスもうなずき、早速、貴石の化身の周囲に魔法陣を描いた。
それから、解呪の
「──汝、封じられし者よ、“黯黒の眸”が化身、テネブレ。
我が真名、サタナエルの名に
──エクストリコ!」
直後、黒い煙が立ち昇り、見慣れた
暗黒に覆われた瞳、曲がりくねった二本の角、乱れた黒髪……漆黒のローブをまとい、五本の足指にはすべて、尖った
「おお……久方ぶりの灯りは、熱いな……」
鋭い爪が生えた両の掌を燭台に向けてかざし、テネブレは、しみじみとつぶやく。
「それで、光の紅龍とは何だ、さっさと説明しろ」
“黯黒の眸”の感慨などお構いなしに、タナトスは急かした。
暗い視線を彼に注ぐと、貴石の化身は話し始めた。
「……サタナエルよ、おぬしは幽室で見たであろう、紅龍を呼び出す書の表紙の文言を。
紅龍は、他の龍とは異なり、光と闇、両方の性質を帯びておる。
それゆえ、変化の呪文も二種あるのだ」
テネブレは、指を二本、立てて見せた。
「以前、我が授けたは闇の呪文……ゆえに、ルキフェルは狂い、世界は滅亡の危機に陥った……のだがな」
「ふん……光の呪文の方を使えば、破滅を回避出来ると分かっていたのなら、なぜ、最初から、それを教えなかった?
いや、そもそも、あの書は、選ばれた者以外は開くことが出来ず、無論、読めるはずもない。
なのに、なぜ、貴様は呪文を知っていたのだ、テネブレ!」
タナトスは、“黯黒の眸”に指を突きつけた。
「そ、それは……そ、そう、忘れたか、サタナエル。
も、申したではないか、アナテ女神が、わ、我に、授けたのだと……」
しどろもどろに答えるテネブレに、魔界王は詰め寄っていく。
「ああ、たしかに聞いた。あのときは疑問にも思わなかったが、よく考えれば妙なことだ。
サマエルはカオス神殿の神官、女神自身が直接伝える機会など、いくらでもあったはずではないか!
──さあ、洗いざらい吐いてしまえ、テネブレ!
貴様、一体何を隠している!」
魔界の至宝の片割れは、肩を落とし、語り始めた。
「やむを得まい……かくなる上は、もはや
「き、貴様が王子だっただとぉ……!?」
タナトスは眼を
エッカルトは、焦ったように手を振り回し、話に割り込んだ。
「いやいや、お待ち下され、タナトス様。
それはあり得ませぬ、到底、
わたくしは、以前、王家の系図を詳細に調べたことがございます。
されど、“テネブレ”などという名の王子はおりませなんだ、これは確実でございますぞ!」
「ああ、それは知っている、俺も、好奇心で家系図を
こともなげにタナトスは言い、確認するように問いかけた。
「だが、時折、大罪を犯したりして名を削られる王族もいる、貴様もそうだと言うつもりか、テネブレよ?」
“黯黒の眸”は否定の身振りをし、親指で自分の胸を示した。
「いや、そもそも“テネブレ”と申すは我が名でなく、また、これ自体、第二形態であり、我が真なる
「真の名、姿ではない、だと……!?
しかし、カーラは、もう別な化身はおらんと言っていたぞ、俺に嘘をついていたのか!」
タナトスは険しい顔つきになった。
“黯黒の眸”は慌てて抗弁した。
「いや、偽りなどでは決してない。
また、第二形態へと変化したとしても、中身までは変わらぬであろう?
おぬしだとて、
……たしかに、第二形態の方が、好戦的になる傾向があるやも知れぬが、な。
それに、本来、三代目の紅龍となるは、我だったはずなのだ」
「何だと、貴様が本来の紅龍……!?
それで、禁呪の書も読むことが出来たと言うのか、しかし……」
タナトスは、半信半疑な顔色だった。
エッカルトの眼差しからも、疑いの色が消えない。
「左様、仮にその話が真実だと致しても、何ゆえ、サマエル様に光の呪文を伝えなかったのやら。
その理由が明確にならぬうちは、今の話にも、
すると、テネブレは、額に手を当てて大きく息をつき、眼を閉じた。
「……おぬしらには、決して理解出来まいよ……。
遥かな昔、我は幽室に監禁され、あげく命を絶たれた……その恨みと憎しみの
ルキフェルが、我を、“歪んでいる”と称したのは、それがためでもあろうな……」
「ほう? 幽閉された王族が、自分を
タナトスは肩をすくめた。
“黯黒の眸”は、
「いや、我が、書を記したわけではない。
物心ついた頃には、すでに禁呪の書は存在しており、我は王子として、何不自由なく暮らしておった……幽室に封じ込められた、あのときまでは……。
飢えと渇きに苦しめられ、死を迎える間際、“龍の唄”の書が、輝きながら現れたのだ……。
どうにか封印を解くことは出来た、そして、呪文を唱えれば生き延びることが出来る、それも分かっておった。
されど、その結果、待っておるのは世界の破滅……迷った末に、我はおのれの死を選んだ……」
エッカルトは眉をしかめた。
「これはまた、
耳触りのよい言葉など、口に出すだけならいくらでも出来ようぞ、“黯黒の眸”」
貴石の化身は、じろりと彼を見た。
「偽りと思うのならば、幽室に
壁には、我が、死に物狂いでかきむしった痕と、剥がれた爪より流れ出た血が、未だ残されておるはずだ……歴然と、な」
そして、テネブレは、タナトスに視線を移し、哀願するように言った。
「のう、サタナエル。女神アナテに誓って、光の呪文を知ったは、ごく最近のことなのだ。
負の感情に
「ふん、そこまで言うのなら信じてやるか。後で確認すればいいのだしな。
それよりも、なぜ、貴様は幽閉されたのだ?」
タナトスの問いかけに、貴石の化身は、ぎくりと身を固くした。
「い、いや、それは……」
うろたえるその様子を見たエッカルトは、肩をすくめた。
「訊くまでもございませぬ、どうせ、罪を犯したゆえでございましょうぞ、タナトス様。
おそらく、生前も今同様の……」
「──違う!」
彼の言葉を、テネブレは激しくさえぎった。
「我は罠にはめられ、幽室に閉じ込められたのだ!
おのれの父親によってな!」
「何と!?」
魔法医は眼を見開く。
「我が何をした……何をしたと言うのだ、ただ、第二次性長期に至り、肉体が醜く
“黯黒の眸”は頭を抱え、がくりと床に膝をついた。
「おい、どうした……」
「我に触れるな!」
結界を超えて差し伸べられたタナトスの手を、化身は払いのけた。
この結界は、内側からは出ることが出来ないが、外からなら、何であろうと抵抗なく通過可能だった。
「忘れもせぬ、一万五千歳の誕生日のあくる朝、全身の違和感で目覚めると、我は……我が肉体は、すでに変容しておった……この世の者とは思われぬほどに……。
頭の中が真っ白になり、我が周囲の世界もまた、一変した……。
変わり果てた我が身を眼にして、母は気を失い、父は……」
震える手を、テネブレは目蓋にあてがい、その眼からは涙がこぼれ落ちた。
それは、床で黒曜石へと変化する。
魔界の王は、以前にも、同様の情景を見たことを思い出した。
それは、ゼーンの涙……当時は名前すらなかった、“焔の眸”の傷つけられた化身と同じだったのだ。
(俺とサマエルは、アストロツイン……運命を分け合う者。
本当に、俺達の人生が同調しているのなら、テネブレの心を癒してやれば、俺のそばにいるようになるのか?
“焔の眸”が、あいつに寄り添っているように……)
くきょう【究竟】
仏語。物事の最後に行きつくところ。無上。終極。
「きゅうきょう」という読み方のとき、意味は「物事をきわめた、最高のところ。究極」
あららげる【荒らげる】
声や態度などを荒くする。荒々しくする。
◆ 近年「声をあらげる」とすることもあるが、誤り。
せんかたない【為ん方無い/詮方無い】
詮は当て字。なすべき方法が見つからない。どうしようもない。しかたない。
無下(むげ)にする
捨てて顧みないでいる。すげなくする。だいなしにする。むだにする。
しゅしょう【殊勝】
1 とりわけすぐれているさま。格別。
2 心がけや行動などが感心なさま。けなげであるさま。
いんとく【隠匿】
包み隠すこと。秘密にすること。かくまうこと。