~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

14.究竟(くきょう)の光(1)

「また貴様かっ!」
タナトスは歯軋(はぎし)りした。
もちろん、彼は、その声に覚えがあった。
『久しいな、魔界の君主よ』
邪悪そのものといった感じの笑みを浮かべ、別人と化したニュクスは答える。
彼女は、今や、完全にテネブレに支配され、その眼もまた、深い洞窟の暗さを(たた)えていた。

「貴様、性懲(しょうこ)りもなく! ニュクスの体から出て行け!」
カッとなり、殴りかかりそうになったタナトスは、どうにか自制し、腕を振るだけに留めた。
『左様に声を(あら)らげたとて、詮方(せんかた)ないぞ、サタナエル。
せっかく、この我が、闇ではなく光の紅龍へと変化する歌を授けてやろうと、わざわざ出て参ったと申すに』
「光の紅龍だ?
……貴様、また、そんな口から出任せを……」
彼は顔をしかめた。

「左様、タナトス様、こやつの申すことなど、一言(いちごん)たりとも信用なさってはいけませぬぞ!
人の心の隙間につけ込み、堕落、あるいは狂わせて死に至らしめる……魔法医ギルド代々の覚書にも、左様な例が多数、出て参りまする。
この怪物は、甘言(かんげん)(ろう)するのが、習い(しょう)となっておるのでございますからな!」
エッカルトが二人の間に割り込み、“黯黒の眸”をなじる。

以前のタナトスなら、魔法医に言われるまでもなく、さらに強力な呪文でテネブレを封じ込めていたことだろう。
しかし、今の彼はそうする気にはなれず、言った。
「口出し無用だ、エッカルト。
テネブレ、とりあえず話は聞いてやる。貴様も俺の妃の一部分なのだし、無下(むげ)にはせん」

『ならば、まずは我を解放してもらおうか。今のままでは、親密な語らいも、し難い。
おぬしも不快であろう、愛する女の口から、かような声が聞こえて来るというのは……くくく』
ニュクスに取り()いたテネブレは、歪んだ笑みを唇に貼り付けたまま、胸に手を当てた。
たしかに、それは、かなり違和感のある光景ではあった。
美しい女性の口から、外見にまったくそぐわない、しわがれた不気味な声が響いて来るのだから。

「いけませぬ、タナトス様! こやつ、何を企んでおるのか、分かりませぬぞ!」
エッカルトは、必死に君主を止めようとする。
「貴様も心配性だな、話を聞くだけだぞ。その後で判断すればいい。
無論、厳重に結界の中に入れて、だがな。
どうだ? テネブレ、不服か」
魔界王が確認すると、闇の化身は首を縦に振った。
『差し支えない。耳を傾けてもらえるのであれば』

「よし」
タナトスもうなずき、早速、貴石の化身の周囲に魔法陣を描いた。
それから、解呪の文言(もんごん)を口にする。
「──汝、封じられし者よ、“黯黒の眸”が化身、テネブレ。
我が真名、サタナエルの名に(おい)て、汝の封印を解く!
──エクストリコ!」

直後、黒い煙が立ち昇り、見慣れた禍々(まがまが)しい姿が、淡く青白く光る魔法陣の中央に立ち現れた。
暗黒に覆われた瞳、曲がりくねった二本の角、乱れた黒髪……漆黒のローブをまとい、五本の足指にはすべて、尖った鉤爪(かぎづめ)がついている。
「おお……久方ぶりの灯りは、熱いな……」
鋭い爪が生えた両の掌を燭台に向けてかざし、テネブレは、しみじみとつぶやく。
「それで、光の紅龍とは何だ、さっさと説明しろ」
“黯黒の眸”の感慨などお構いなしに、タナトスは急かした。

暗い視線を彼に注ぐと、貴石の化身は話し始めた。
「……サタナエルよ、おぬしは幽室で見たであろう、紅龍を呼び出す書の表紙の文言を。
紅龍は、他の龍とは異なり、光と闇、両方の性質を帯びておる。
それゆえ、変化の呪文も二種あるのだ」
テネブレは、指を二本、立てて見せた。
「以前、我が授けたは闇の呪文……ゆえに、ルキフェルは狂い、世界は滅亡の危機に陥った……のだがな」

「ふん……光の呪文の方を使えば、破滅を回避出来ると分かっていたのなら、なぜ、最初から、それを教えなかった?
いや、そもそも、あの書は、選ばれた者以外は開くことが出来ず、無論、読めるはずもない。
なのに、なぜ、貴様は呪文を知っていたのだ、テネブレ!」
タナトスは、“黯黒の眸”に指を突きつけた。
「そ、それは……そ、そう、忘れたか、サタナエル。
も、申したではないか、アナテ女神が、わ、我に、授けたのだと……」

しどろもどろに答えるテネブレに、魔界王は詰め寄っていく。
「ああ、たしかに聞いた。あのときは疑問にも思わなかったが、よく考えれば妙なことだ。
サマエルはカオス神殿の神官、女神自身が直接伝える機会など、いくらでもあったはずではないか!
──さあ、洗いざらい吐いてしまえ、テネブレ!
貴様、一体何を隠している!」

魔界の至宝の片割れは、肩を落とし、語り始めた。
「やむを得まい……かくなる上は、もはや隠匿(いんとく)は出来ぬ、包み隠さず述べるとしよう……。
有体(ありてい)に申せばな。かつて我は、おぬしらと同じ、魔界王家の系譜(けいふ)に連なる者……王子と呼ばれておったのだよ」
「き、貴様が王子だっただとぉ……!?」
タナトスは眼を()いた。

エッカルトは、焦ったように手を振り回し、話に割り込んだ。
「いやいや、お待ち下され、タナトス様。
それはあり得ませぬ、到底、(まこと)のこととは思えませぬぞ。
わたくしは、以前、王家の系図を詳細に調べたことがございます。
されど、“テネブレ”などという名の王子はおりませなんだ、これは確実でございますぞ!」

「ああ、それは知っている、俺も、好奇心で家系図を(あさ)ったことがあるからな」
こともなげにタナトスは言い、確認するように問いかけた。
「だが、時折、大罪を犯したりして名を削られる王族もいる、貴様もそうだと言うつもりか、テネブレよ?」

“黯黒の眸”は否定の身振りをし、親指で自分の胸を示した。
「いや、そもそも“テネブレ”と申すは我が名でなく、また、これ自体、第二形態であり、我が真なる風姿(ふうし)ではないのだ」
「真の名、姿ではない、だと……!?
しかし、カーラは、もう別な化身はおらんと言っていたぞ、俺に嘘をついていたのか!」
タナトスは険しい顔つきになった。

“黯黒の眸”は慌てて抗弁した。
「いや、偽りなどでは決してない。()の豹は、『おぬしが望まぬ限りは』と申したはず……。
また、第二形態へと変化したとしても、中身までは変わらぬであろう?
おぬしだとて、(けん)龍へと変化した折、別の人格とはならなんだであろうが?
……たしかに、第二形態の方が、好戦的になる傾向があるやも知れぬが、な。
それに、本来、三代目の紅龍となるは、我だったはずなのだ」

「何だと、貴様が本来の紅龍……!?
それで、禁呪の書も読むことが出来たと言うのか、しかし……」
タナトスは、半信半疑な顔色だった。
エッカルトの眼差しからも、疑いの色が消えない。
「左様、仮にその話が真実だと致しても、何ゆえ、サマエル様に光の呪文を伝えなかったのやら。
その理由が明確にならぬうちは、今の話にも、信憑(しんぴょう)性があるとは申せませぬぞ」

すると、テネブレは、額に手を当てて大きく息をつき、眼を閉じた。
「……おぬしらには、決して理解出来まいよ……。
遥かな昔、我は幽室に監禁され、あげく命を絶たれた……その恨みと憎しみの残滓(ざんし)が、未だ我が心を(むしば)んでおる……。
ルキフェルが、我を、“歪んでいる”と称したのは、それがためでもあろうな……」
「ほう? 幽閉された王族が、自分を(おとしい)れた者達への恨みを込めて、禁呪の書を(のこ)したと聞いたことがあるが、その説話が本当だったとは驚きだな」
タナトスは肩をすくめた。

“黯黒の眸”は、(かぶり)を振った。
「いや、我が、書を記したわけではない。
物心ついた頃には、すでに禁呪の書は存在しており、我は王子として、何不自由なく暮らしておった……幽室に封じ込められた、あのときまでは……。
飢えと渇きに苦しめられ、死を迎える間際、“龍の唄”の書が、輝きながら現れたのだ……。
どうにか封印を解くことは出来た、そして、呪文を唱えれば生き延びることが出来る、それも分かっておった。
されど、その結果、待っておるのは世界の破滅……迷った末に、我はおのれの死を選んだ……」

エッカルトは眉をしかめた。
「これはまた、殊勝(しゅしょう)なことを。
耳触りのよい言葉など、口に出すだけならいくらでも出来ようぞ、“黯黒の眸”」
貴石の化身は、じろりと彼を見た。
「偽りと思うのならば、幽室に(おもむ)いてみるがよい、魔法医よ。
壁には、我が、死に物狂いでかきむしった痕と、剥がれた爪より流れ出た血が、未だ残されておるはずだ……歴然と、な」

そして、テネブレは、タナトスに視線を移し、哀願するように言った。
「のう、サタナエル。女神アナテに誓って、光の呪文を知ったは、ごく最近のことなのだ。
負の感情に(とら)われた者には、例え紅龍の資格があろうとも、光の呪文は読めぬのだと、女神は申された……アナテ神殿にて託宣(たくせん)を受ければ、我が言葉が真実であると証明されよう」

「ふん、そこまで言うのなら信じてやるか。後で確認すればいいのだしな。
それよりも、なぜ、貴様は幽閉されたのだ?」
タナトスの問いかけに、貴石の化身は、ぎくりと身を固くした。
「い、いや、それは……」
うろたえるその様子を見たエッカルトは、肩をすくめた。
「訊くまでもございませぬ、どうせ、罪を犯したゆえでございましょうぞ、タナトス様。
おそらく、生前も今同様の……」

「──違う!」
彼の言葉を、テネブレは激しくさえぎった。
「我は罠にはめられ、幽室に閉じ込められたのだ!
おのれの父親によってな!」
「何と!?」
魔法医は眼を見開く。

「我が何をした……何をしたと言うのだ、ただ、第二次性長期に至り、肉体が醜く変貌(へんぼう)()げた、それだけのことで……!」
“黯黒の眸”は頭を抱え、がくりと床に膝をついた。
「おい、どうした……」
「我に触れるな!」
結界を超えて差し伸べられたタナトスの手を、化身は払いのけた。
この結界は、内側からは出ることが出来ないが、外からなら、何であろうと抵抗なく通過可能だった。

「忘れもせぬ、一万五千歳の誕生日のあくる朝、全身の違和感で目覚めると、我は……我が肉体は、すでに変容しておった……この世の者とは思われぬほどに……。
頭の中が真っ白になり、我が周囲の世界もまた、一変した……。
変わり果てた我が身を眼にして、母は気を失い、父は……」
震える手を、テネブレは目蓋にあてがい、その眼からは涙がこぼれ落ちた。
それは、床で黒曜石へと変化する。

魔界の王は、以前にも、同様の情景を見たことを思い出した。
それは、ゼーンの涙……当時は名前すらなかった、“焔の眸”の傷つけられた化身と同じだったのだ。

(俺とサマエルは、アストロツイン……運命を分け合う者。
本当に、俺達の人生が同調しているのなら、テネブレの心を癒してやれば、俺のそばにいるようになるのか?
“焔の眸”が、あいつに寄り添っているように……)

くきょう【究竟】

仏語。物事の最後に行きつくところ。無上。終極。
「きゅうきょう」という読み方のとき、意味は「物事をきわめた、最高のところ。究極」

あららげる【荒らげる】

声や態度などを荒くする。荒々しくする。 ◆ 近年「声をあらげる」とすることもあるが、誤り。

せんかたない【為ん方無い/詮方無い】

詮は当て字。なすべき方法が見つからない。どうしようもない。しかたない。

無下(むげ)にする

捨てて顧みないでいる。すげなくする。だいなしにする。むだにする。

しゅしょう【殊勝】

1 とりわけすぐれているさま。格別。
2 心がけや行動などが感心なさま。けなげであるさま。

いんとく【隠匿】

包み隠すこと。秘密にすること。かくまうこと。