~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

13.父親の名は(3)

部屋を出たサマエルは、お気に入りの青いシャツと黒いズボンをまとい、人界に向かった。
使い魔タィフィンの歓迎を受けた後、ダイアデムを連れて自室に落ち着いた彼は、輝かしい銀髪を振り、ため息をついた。
「ああ……何だか、ひどく疲れたよ。ここも、随分久しぶりに感じる……」
「んじゃあ、寝ちまったらどうだ?」
ダイアデムは、彼のベッドを指差す。

サマエルは笑みを返した。
「ついさっきまで、一月以上も眠っていたというのに、かい?」
「はん、そーだっけな。
……あ、フェレスがお前と話したいってさ。いいか?」
「もちろん。出ておいで、フェレス」
サマエルが同意すると、少年の姿が輝く。

「ああ、サマエル! わたくし、心配で、心配で……! よかったわ、戻って来てくれて!」
現れるなり、赤紫の髪の女性は彼に抱きつき、キスの雨を降らせた。
「済まない、フェレス」
サマエルは、彼女を固く抱きしめた。
「わたくしこそ、何の役にも立たなくて……」
フェレスは涙ぐんだ。

その涙を優しくぬぐい、彼は穏やかに言った。
「そんなことはないよ、フェレス。
あのとき、一緒に歌ってくれただろう? だから、こうして戻って来れたのだよ、現実世界に」
「本当?」
すがるように、彼女はサマエルを見上げる。
「もちろんだとも。……それより、私に付いて来てよかったのかい?」
「え?」
フェレスは、不思議そうに小首をかしげた。

「私は……魔界を裏切ったのだよ。
お前……“焔の眸”は、よりよい王を選び、代々王家に仕えて来た……そうやって、長い年月をかけて大事に育てて来た、お前にとっては我が子も同然の魔族達……そんな彼らを裏切り、味方をしないと決めた私などに……」
彼は再びうなだれた。

「何か訳があるのでしょう?
あなたはいつもそう。一人で抱え込まないで、理由を教えて。
わたくし達に隠し事はしないって、約束したわよね?」
フェレスは夫の顔を覗き込む。

うつむいたまま、サマエルは答えた。
「……済まない。癖になっているのだよ、今まで何もかも、独りで切り抜けて来たから……。
戦に加わらないと決めた理由は……そうだね、一言で言うなら、『私が紅龍だから』、かな……」

フェレスは、赤紫の眼を見開いた。
「え、どういうこと?」
「四色の龍が揃えば、魔界は天界に勝てる、そう予言では言われているね」
つぶやくように彼は続け、フェレスはうなずく。
「ええ、そうね」

「だが、他の三頭はいざ知らず、私……“紅龍”は、世界の破壊者なのだよ。
お前はいなかったから知らないだろうが、以前変身したとき、私は理性を失い、破壊神の権化(ごんげ)と化した……。
ライラのお陰で正気に戻れたけれど、それは偶然に過ぎない。
単純なタナトスは、予言を一途に信じているようだが……もし仮に、ウィリディスを取り戻すことが出来たとしても、私が狂ってしまったら、どうなるだろうね……?
そう……神族を皆殺しにした後、魔族をも襲い始めるのだよ……?
さらには……せっかく奪回した故郷を破壊し……それだけに留まらず、魔界、そして人界さえも……」
サマエルは身震いし、頭を抱えた。

「同族殺し……ああ、でも、私は、魔族でさえないかも知れない……半分は人族、では、もう半分は……?
私は一体、何なのだろうね……情けない、自分が何なのかも分からないなんて……」
「あなたは魔族よ、さっきエッカルトも言っていたでしょう?」
優しい妻の言葉……だが、今ばかりは、胸に突き刺さるような気がした。

サマエルは勢いよく顔を上げ、高ぶる感情のままに言い返してしまった。
「分かるものか、あんな証言!
口裏合わせなんて、いくらでも出来る、それこそ、当てになるわけがない!」
「落ち着いて、サマエル。わたくし、もう一度調べてみるわ、あなたが魔族だという証拠……あなたが完全に納得できる(あかし)を、今度こそ見つけてみせるから。
それにね、予言の通りなら、変身しても狂わないで済むんじゃないかしら。
きっとそうよ、ね?」
フェレスは、常になく興奮している彼をなだめようとする。

サマエルは、妻の眼を真っ直ぐに見た。
「それは甘いよ。実際、狂ってしまったらどうするのだ?
暴れ出して、どうやっても、正気に戻せなかったら?」
そして、自分の眉間(みけん)を指差す。
「イシュタル叔母上を呼び出して、ここを射抜いてもらうのかい?」
「……!」
フェレスは、思わず口に手を当てた。

サマエルは、暗い表情で話を続けた。
「前もって試すことは出来ない……かといって、ぶっつけ本番で、戦の現場で変身してみるというのも、リスクが高過ぎる……。
大体、父親が不明な今、叔母上と私が、本当に血縁なのかも怪しいものだ……。
他の親族の女性と言えばシュネだが、トラウマを持つ彼女が、私を殺すのはまず無理だろう。
もし……叔母上もシュネも、私を滅することが出来ないとなれば、当然、誰も紅龍を止められない。
私は暴走し続け、宇宙を破壊尽くしてしまうだろう……。
私……紅龍は、宇宙を強制的に初期化する装置のようなものだ……。
そして、一旦始動したら最後、実行の取り消しは決して出来ない……ああ」
彼は、自分の想像に耐えられなくなり、顔を覆った。

「だから、魔族を見捨てても、戦いを避けようと思ったのね?
宇宙全部を壊してしまうよりは、ましだから……?」
フェレスは優しく、彼の背中をさすった。
「……ああ。
私が戦いに加わらなくとも、万に一つの確率で、魔界が勝つ可能性もあるだろう?
その暁には、きっと……タナトスが意気揚々と、私を裏切り者として処刑に来るだろうけれどね」
「たとえ勝っても、タナトスは、そんなことはしないと思うけど」
フェレスの言葉は、彼の耳には届いていないようだった。

「そして、魔族が滅んでしまったら……その恨みつらみや怨念は、カオスの闇に力を与え、さらに私を苦しめることとなるだろう……。
私は……なるべく長くそれに耐え、この宇宙の終焉(しゅうえん)を、一日でも先延ばしするよう努力しなければならない……それはきっと、耐えがたい苦痛だろうな……日夜、寝ても覚めても、頭の中で、裏切り者と責めさいなまれるのだ……。
だからこそ、何度も死のうとしたのに……タナトスにも殺してもらおうとしたのに……!
そうすれば、何もかもうまくいくはずだったのだ、私も魔族も救われて……!
あああ、私にはもう、狂う自由すらもない……!」
とうとう彼は、ベッドに身を投げてしまった。

「サマエル、落ち着いて……」
「本当に馬鹿だ、タナトスは。
こんな私と、本来あいつが守ってしかるべき、何十万もの同胞達を天秤(てんびん)にかけたあげく、虫けら同然の私の方を選ぶなんて……!」
彼は拳で、布団を殴った。
「それだけ、タナトスは、あなたを愛してるってことね」
夫の気持ちを静めようと、フェレスは優しく言う。

だが、サマエルは、激しく頭を左右に振った。
「あいつの愛なんか、いらない!
タナトスは、ずっと私を嫌い、憎み……殺すことに喜びを感じてさえいてくれればよかったのだ!
さっき抱かれたとき、心が流れ込んで来ていたよ、あいつは、心の底から私を……!
なのに、その愛は私を苦しめ、傷つける……タナトスはもう、私を殺してはくれない……うう……」
サマエルは枕に顔を(うず)め、肩を震わせる。

「サマエル……」
「愛などいらない、(いつく)しみも、優しさも。
私は無価値な存在なのだから……ああ、生まれてなど、来たくなかった!」
枕に顔を押し付けたまま、くぐもった声で、彼は言った。
いっそのこと、号泣出来たら、少しは楽になれたかも知れないが、彼は泣くことも出来ないのだった。

苦悶する彼の耳元で、フェレスはささやいた。
「……じゃあ、わたくし達の愛もいらないのかしら?」
「そ、そんな! お前がいなかったら、私は……!」
思わず顔を上げたサマエルは、紅い中に金の炎が悲しげに揺れる、妻の瞳を覗き込んでいた。
「あなたが欲しいのは、生き物の愛でしょう? 母親の、父親の、兄の。
……わたくしじゃなくてね」

サマエルは、飛び起きて妻の手を取った。
「違う! お前がいなかったら、とっくに狂ってしまっていたよ、私は!
それに、私はもう、“物”しか愛せなくなっている気がする。
生物は短命過ぎるから……いくら愛を注いでも、すぐに私の前から消えて行ってしまうから。
そのたびに、私は、胸をかきむしられる思いをして来たのだよ……」

「……ジルのこと?」
彼女の言葉は、疑問と言うより単なる確認のようだったが、サマエルは眼を伏せた。
「それだけでは……いや、済まない、前の妻の話など……」
フェレスは(かぶり)を振った。
「気にしなくていいわ。それは、シンハも感じていたことだもの。
どれほど愛したとしても、生き物は必ず死ぬわ……思い出だけを残して……。
すべてをありありと……昨日のことのように覚えているのに、当の相手は消えてしまっている……。
ねえ、あなた達は死んだ後、どこへ行ってしまうの?」
“焔の眸”の化身は、目頭を押さえた。

「フェレス……」
「まあ、その代わり、波長の合わない王を立てなければならないときでも、数万年間我慢すればいいって、シンハは割り切っていたみたいだったけれど、ね」
眼をうるませたながらも、彼女は肩をすくめ、微笑んだ。

サマエルも笑みを返した。
「……お前達には、そういう心配はまったくないね」
「あなたにもね。だから、わたくし達、喜んであなたに付いて来たのよ。
ああ、これからは、ずっと一緒にいられるのね。
そうよ、これでもう、あなたは、儀式を受けて死んでしまうこともないんだわ、うれしい!」
言うなりフェレスは、勢いよく彼に口づけ、二人はベッドに倒れ込んだ。

「もういい! こんなときに、いちゃつきおって!」
自分のことは完全に棚に上げ、タナトスは眼を怒らせて叫び、小蛇の頭を思い切り引っぱたいた。
転げ落ちそうになった紫の蛇はどうにか踏み止まり、机の端で悲しげに彼を見た。
『我ヲ燃ヤセ、王ヨ。本体ニ成リ代ワリ、我ガ、一条ノ煙トナッテ、空ニ昇ル』

「うるさい、貴様の処遇は俺が決める、口出しするな!」
実のところ、用が終わればそうするつもりだったのだが、天邪鬼(あまのじゃく)なタナトスは、言われた途端にやる気が失せた。
「されど、サマエルの言うことにも一理あるぞ。のう、蛇よ」
ニュクスが、かばうように手を差し出す。

「左様ですぞ、もし……」
『──くわっくわっくわっ!』
エッカルトが話し始めるのと時を同じくして、木がきしるような、奇妙な笑いが室内に響き渡った。
「……!?」
魔法医は面食らい、タナトスも慌てて周囲を見回す。
「誰だ!?」

『くくく、たしかに今のままでは、ルキフェルの申す通り、“紅龍”はすべてを破壊し尽くすであろうよ』
「何だと……まさか……」
魔界の王は自分の眼と耳を疑った。
その不気味な声は、最愛の妃の口から発せられていたのだ。