13.父親の名は(2)
「ところで、エッカルト、おぬしは何ゆえ、それほどの確信を込めて、サマエルの父親がベルフェゴールでない、と言い切れるのだ?」
沈黙を破って問いかけたのは、ニュクスだった。
ダイアデムがそれに便乗した。
「そうだそうだ! 理由言えよ、エッカルト!
オレやシンハが、いくら頑張っても、サマエルの
「何、おぬしにも分からぬと……?」
“黯黒の眸”は眼を丸くした。
紅毛の少年は眉を寄せ、鼻をうごめかせた。
「ああ。分かってりゃ、とっくにこいつの悩みを取り除いてやってるさ。
タナトスもだけど、人族との混血ってのは、ただでさえ嗅ぎ分けんのが難しーし、しかもアイシスも……どうやら、祖先に神族がいるらしくってよ、匂いもめっちゃ混じっちまってて。
サマエルが、誰の血引いてんだかは、どうしても、分かんなかったんだ……」
「母上が神族の血を……だと?
なるほど、だから、俺達には聖魔法が効かなかったわけか?
ふん……それも知っていた顔だな、まあいい、こうなったら、何もかも綺麗に白状しろ、エッカルト」
タナトスは、家臣に向けてぞんざいに手を振る。
「……は」
魔法医は君主に頭を下げ、口を開いた。
「では、まず、王妃殿下が、神族の血を引いておられたことについて、でございますが。
このことは、ご婚姻以前に、ベルゼブル陛下もご存知でございましたので、何も問題はございませぬ」
「ふん、知っていたのか。……で?」
タナトスは、顎をしゃくって話を促す。
「は……実は、わたくしには、年の離れた双子の妹達がおりまして。
その妹達が、王妃様ご存命の頃、専属の侍女でございました……それが、ベルフェゴール殿が、サマエル様の父君ではない理由の根拠なのでございますよ」
タナトスは顔をしかめた。
「何だ、そんなことか。そやつらが、母上は浮気はしていなかったと申し立てたのだな?
侍女と言っても、母上と常に一緒にいられたわけもあるまいし、それに、口裏を合わせることもできるだろうが。
第一、俺は、双子の侍女など、母上のそばで見た覚えがないぞ」
「それは当然でございます、妹達は、気配を消す術に
ベルゼブル陛下直々の御命により、妃殿下にもお知らせせず、常時姿を消して、交代で見張に立っておりましたのです。
夜は危険度が増すとの理由で、ことさら厳重に、決してお独りにさせぬように致しておりました。
そして、サマエル様が陛下のお種でないなどという噂が、まことしやかに、ささやかれるようになりました際、わたくしは陛下のお許しを得て、妹達の記憶を読み取ってみました。
その結果、王妃様は潔白であらせられました」
魔法医はきっぱりと言い切った。
「つまり、私は、実の父親にとことん
食事も与えられず、最後には生け贄にと……どの道、救われないねぇ、私は……」
悲しげに、サマエルは首を横に振った。
「そ、それは……」
エッカルトは言葉に詰まった。
「ふん、あのくそ豚の種でなかったことだけでも感謝しておくがいい、サマエル」
タナトスはそっけなく言った。
「まあいいさ、これで決心がついたよ」
そんな兄をじろりと見て、サマエルは答えた。
「決心? 何のだ?」
「お前は私に、散々生きろと言っていたな。
だから、私は生きようと思う。ただし、魔界で、ではなく、人界でだ。
そして、私は、相手が誰であろうと戦いたくない。
それゆえ、今度の戦い、すなわち天界との戦争には、私は参加しない」
意外な台詞に、タナトスはあっけに取られた。
「何……!? し、しかし、それでは、四龍の予言が……」
「予言など知ったことか。大体、その予言自体、あいまいというか、揺れ動いているではないか。
それに、いつまでも迷信にしがみついているのは愚かしい、そう言ったのは、お前だろう、タナトス」
サマエルは、兄の胸を小突いた。
その手を払いのけ、タナトスは声を荒げた。
「昔俺が言ったことなど、この際どうでもいい!
貴様がおらねば、魔界は天界に勝てんのだぞ!」
「お前に生きろと言われて気づいたよ。
なぜ、私が、魔界……魔族のために犠牲にならなければならないのだ?
まったく守ってもくれなかった連中のために、火閃銀龍に食われてまで。
──馬鹿馬鹿しい。
私は魔界を出る。そして、もう二度と戻って来るつもりはない、戦が始まっても。
魔界など滅びてしまえばいい……誰も彼も皆、死んでしまえばいいのだ」
冷ややかに、サマエルは言い捨てた。
「貴様……」
今までの弟なら決して言わなかったであろう台詞に、さすがのタナトスも言葉を失う。
「皆を生かすために、私は死ななければならないと思っていた。
ならば、私を生かすためには皆が死ねばいい……逆転の発想だ、素晴らしいだろう?
そこをどけ、タナトス。私は人界へ帰り、妻と共に静かに暮らすことにする」
紅い眼の中に闇の炎を宿らせてそう宣言し、サマエルは、紅毛の少年に手を差し伸べた。
「さ、おいで、“焔の眸”。それとも、こんな男とは共にいられないか?」
「い、行くよ、もちろん! お前がいれば、オレは、どこにだって!」
ダイアデムは、夫に飛びついた。
「さて、これで永遠におさらば致しますよ、タナトス兄上。
……それとも、裏切り者として、この場で私を処刑しますか?
散々生きろ生きろとうるさく仰っていた、お優しいあなたが……くくく」
第二王子は妻を胸に抱き、歪んだ笑みを浮かべて、兄である魔界王を見つめた。
「サマエル! せっかくタナトスが、命がけでお前を助けたと言うに、裏切るとは!」
悲痛な声を上げるニュクスを、サマエルは暗い目つきで見返す。
「……“黯黒の眸”。私の気持ちなど、お前には分からないよ。
なぜ、私が二つの貴石のうち、お前ではなく“焔の眸”を選んだか、それも分からないのだろう?」
「それは……たしかに分からぬが」
「お前は言ったな、闇をくれると。一緒に闇に堕ちようと。
だが、私が欲しかったのは闇ではなく、光だ。
どんなに弱い光でもよかったのに……それをくれたのは、お前ではなく、シンハだったよ。
私にとっての光は、魔界には存在しないのだ。戻って来るたび、そう思う。
ここにあるのは、悲しみと憎しみと狂気だけ。
だから、私は魔界では生きられない……少なくとも正常な状態では、ね」
そして、彼は、扉に歩み寄っていく。
「待て、サマエル」
再びニュクスが声をかけるが、第二王子は振り向きもしなかった。
「お前は私の伴侶ではない。妻にしなくてよかったと、今さらながら思うよ。
私が言うのも何だが、お前は……そう、どこか歪んでいる……。
その歪みが、私をさらに狂わせてしまうのだ」
サマエルは、ドアノブに手をかける。
扉が開いた瞬間、貴石の片割れが、部屋の中に残された者達に向かって、小さく手を振った。
二人は出て行き、その後ろで、ドアが静かに閉まった。
「……止めずともよいのか?」
“黯黒の眸”の化身は、心配そうに主を見たが、タナトスは黙って首を横に振った。
「さ、されど……紅龍がおらずば、魔界の勝利は危うかろう。
……せっかく四頭の龍が揃ったと言うのに……」
おろおろとニュクスが言葉を継ぐ。
それが耳に入った様子もなく、扉を見つめ、タナトスはつぶやいた。
「信じられん……初めてだ。サマエルが、自分から『生きたい』と言うなど……」
「……生きる希望を持ってくれたのは、たしかに喜ばしいが」
言いながら、主の顔を覗き込んだニュクスは、仰天した。
「タナトス、おぬし、泣いておるのか!?」
「泣いてなどおらん。これは汗だ」
タナトスはそっけなく言い、顔を背けて眼をこすった。
それまで黙っていた魔法医が、いたわるように口を挟む。
「まあ、落ち着きなされ、“黯黒の眸”殿。
サマエル様に冷静さを取り戻して頂くためにも、少々お時間を差し上げてはいかがですかな。
タナトス様も、そうお考えなのでございましょう? 弟君が、本気で魔界を裏切ることなどないと?」
「……
頭が冷えれば、戻って来てくれるのであろうか……」
“黯黒の眸”はうなだれてしまった。
タナトスは我に返り、彼女の肩に手を置いた。
「いや、お前のせいではない。気にするな、さっきのは単なる八つ当たりだ。
それに、あいつは嘘つきだからな。あきれたことに、自分自身にさえ嘘をつくのだぞ、ヤツは」
「されど、タナトス……」
切なげなニュクスの表情に、タナトスは周囲を見回した。
「おう、ちょうどいいものがあった」
彼は、ついさっきまで弟が寝ていたベッドの枕元から、一本の髪の毛を拾い上げ、ふっと息を吹き込んだ。
それは光を発しながら徐々に膨らみ、しまいに親指ほどの太さの蛇へと変化して、掌の上でとぐろを巻いた。
サマエルの髪の右生え際に、紫に輝く一房があるが、この蛇は、そこから抜け落ちた髪で創られたらしく、同じ色をしていた。
「おい、蛇。貴様の本体は、一体何を考えているのだ?
どうせまた、ろくでもないことを企んでいるのだろう、吐け」
タナトスに命じられた小蛇は、サマエルそっくりの鮮紅色の眼を開け、鎌首を持ち上げて彼と目線を合わせた。
そして、これもまた弟によく似た仕草で小首をかしげ、何か考えているかのように、二股に分かれた濃い紫の舌を出し入れしていた。
のんびりした仕草にタナトスは苛立ち、小蛇の首をつかんだ。
「早く吐け、吐かんと、こうだぞ!」
「これタナトス、そんな乱暴をしたら、答えようにも答えられぬぞ」
ニュクスが、彼の腕に手を添える。
「む……そうだな」
タナトスは渋々、手を離した。
『話シタトシテモ、結局ソウヤッテ、我ガ命ヲ絶ツノデアロウ、無慈悲ナル魔界ノ王ヨ』
解放された小蛇は苦しげに息をつき、恨めしげに彼を見上げた。
タナトスに代わって、ニュクスが優しく声をかける。
「左様なことはせぬ、ぞんざいには扱わぬゆえ、おぬしの本体の真意を我らに教えてはくれぬか、蛇よ。
我らは、サマエルのことを心配している、彼の力になりたいのだ……のう、タナトス、そうであろう?」
「ああ、まあな」
仕方なく、タナトスもそう言った。
薄紫の鱗が美しい蛇は、小首をかしげて再度思考を巡らした。
タナトスがまたもや苛々し始めたとき、蛇は彼の手を逃れてするりと机の上に降りた。
「貴様、逃げるか!」
捕らえようとする彼の手を巧みによけて、蛇は舌をひらひらさせた。
『逃ゲル気ハナイ、ココガ最適ノ場所ユエ移ッタマデ。
サア、見ルガイイ。チョウド今、我ガ本体ト“焔ノ眸”ハ、人界ノ屋敷ニ戻ッタトコロダ。
彼ラノ会話ヲ聞ケバ、オノズトソノ真意ハ知レルデアロウ』
蛇の両眼から、二つの丸い光が壁に向かって投影された。
光の中に映し出されたのは、蛇が言った通りの情景だった。