13.父親の名は(1)
「わ、わたくしが、サマエル様の!?
め、滅相もございませぬ、さ、左様なこと、あ、あるわけが……」
滝のような汗を流しながら、腕を振り回し、エッカルトは否定する。
「そうだよ、タナトス。エッカルトが私の父親だなんて、誰が言った?」
サマエルは、あきれたように頭を振った。
「しかし、貴様、こいつに、真実を告白しろと迫ったではないか」
タナトスは、魔法医を指差す。
「あれはね、悪い夢だから忘れなさいと、子供の私に暗示をかけたのがエッカルトだった、それを白状するようにと言ったのさ。
私が子供に戻ったとき話したことを、覚えていないのか?」
「……むう、言ったか、そんなこと?」
額に手を当てて考えているうち、タナトスは、火閃銀龍に捕えられていた弟が、いきなり少年の姿へ変わったときのことを思い出した。
あの時、サマエルは、たしかにこう言っていた。
『わ、分かんない、んだ。僕、忘れちゃった、から……。
誰かが言ったんだ……悪い夢だから、忘れなさいって……。
だから、僕、忘れてたんだけど、少しずつ思い出して……』と。
「ふん、そうだったな。
……それはともかく、貴様の父親というのは結局、一体誰なのだ?」
彼が再び尋ねたとき。
「まーた、お前らもめてんのかよ、こりねーな」
突如、ドアが開き、紅毛の少年が顔を出した。
タナトスは顔をしかめた。
「何だ、貴様、ガキ共といたのではないのか」
「あー、あいつら寝ちまったんだ、腹一杯食ったらさ。疲れてたんだろな。
んで、ベッドに放り込んで戻って来たのさ、オレ達」
ダイアデムが示す先には、黒髪の女性のほっそりした姿もあった。
「す、済まぬ、タナトス……邪魔ならば戻る……」
ニュクスは、消え入りそうな声を出した。
「気にするな、ニュクス。入って来い。
お前達も、知っておいた方がいいかも知れんしな」
「何をだよ……って、何で、エッカルトまでいるんだ?」
部屋に入りながら、ダイアデムは可愛らしく小首をかしげた。
タナトスは、サマエルを指差した。
「こいつの父親の話だ。前々から、父親が違うと疑念を抱かれていただろう、それで……」
そのとき、エッカルトが口を挟んだ。
「お言葉でございますが、タナトス様。
あの
わたくしはそう確信致しておりまする。左様なことはあり得ませぬ」
「ずいぶん自信があるのだね、エッカルト。根拠は何かな?」
サマエルが尋ねた。
「それはですな……」
「待て。まず、その男が誰なのか言え。続きはそれからだ」
タナトスは、医師の言葉をさえぎった。
「ならば、私が初めから話そう。
その方が、皆にも分かりやすいのではないか?」
サマエルが言った。
「では、さっさと話せ」
タナトスは腕組みをした。
「あれは、お前に首を絞められたあげく、初めて相手をさせられた晩のことだったな……その直後、私は別の男にも暴行されてしまってね」
「なにぃ!?」
「何だとぉ!?」
サマエルは淡々と話し出したが、いきなりの展開に、タナトスだけでなく、ダイアデムも顔色を変えた。
ニュクスは黙って小首をかしげ、エッカルトの顔は紙のように白くなる。
彼らの驚きをよそに、弟王子の表情は、薄笑いが張り付いた仮面さながらに動かなかった。
「これが、そもそもの始まりで、私が精神に異常を来たした最大の理由……。
カオスの力は、それを後押ししたに過ぎない。
モトが闇を
「あの夜……俺と別れた後、一体何があったというのだ……?」
タナトスは、彼にしては珍しい、おずおずとした口調で訊いた。
「そう……あの後、すすり泣きながら自室に戻る途中、人っ子一人いないと思えた回廊で、あの男に行き合ったのだ……。
あいつは、私の涙と破れた服を見ると、何が起こったか、瞬時に察知した。
そして、甘い言葉で、私を空き部屋に誘い込んだのだ。
しかし、初めの優しい顔は偽りで、すぐにヤツは正体を現した……またもや私は、力尽くで……」
辛い記憶をたどるにつれて、闇の名残りがサマエルの紅い瞳を覆っていき、その色を、夕暮れの紫へと変化させてゆく。
「その後、どうやって自分の部屋に帰り着いたのか、まるで覚えていないが……運の悪いことに、その翌日は、十年に一度の大礼式だった……。
当時の私は、再生能力すら人族並だったから、何をするにも体に激痛が走り……その上、儀式用の正装は、子供一人で着られるものではなかったのに、魔法が使えない上、女官達は誰も手伝ってはくれず……。
歯を食いしばり、やっとの思いで着用したものの、遅刻してしまった……。
顔も体もアザだらけ、縛られた跡はあるしで、私がどういう目に遭ったのか、一目瞭然だったと思うのだけれど、ベルゼブル陛下は……。
そう……お前達も聞いただろう、吐き捨てるように一言、『魔界の王子たる資格もない』と……。
それが限界だった。張りつめていた糸がぷつんと切れたように、目の前が暗く……」
不意に、サマエルは言葉を切った。
慣例として一切式典に出席しない“黯黒の眸”以外の全員が、その情景を思い出していた。
息を整えていた第二王子は、彼らの沈黙に促されるように、再び話し始めた。
「……そして、気づいた時は、医務室のベッドに寝かされていたのだが。
私の顔を覗き込んでいたのは、魔法医ではなく、あの男だった……。
あいつは、医師の不在をいいことに、意識のない私の衣服を剥ぎ取り裸にして、散々楽しんでいたのだ……!」
ついに、平静を装う仮面は外れ、サマエルは両手で顔を覆った。
「お、おい、大丈夫か?」
タナトスは弟を気遣う。
「……ああ、平気だよ」
サマエルは微笑み、続けた。
「そのとき、ヤツは言ったのだ……お前の父親はベルゼブルではなく、本当は自分だ、と。
だから、これは父親としての愛情表現だ、ともね……。
奈落の底に突き落とされたような絶望の中……男のなすがまま、ひたすら慰み者にされる時が過ぎていき……。
これは夢だ、いつも見る悪夢なのだと、必死に自分に言い聞かせていた……。
やがて、エッカルトが戻って来てヤツを追い払い、傷を癒してくれ、陛下に報らせようと言ったが、私はそれを止めた……。
だって、私は、あの方の子ではないのだからと……。
それを聞いたお前は、泣きじゃくる私の頭に、手を置いたね……」
第二王子は、真っ直ぐに魔法医を見た。
額の汗をぬぐい、エッカルトは、意を決したようにうなずいた。
「左様、たしかに、このわたくしが、あなた様に暗示をかけたのです。
あなた様のお父上は、ベルゼブル陛下に違いございませぬ。お忘れなされ、これはすべて悪い夢でございます、と……。
タナトス様とのことは存じ上げませなんだが、あの御仁の非道な振る舞い、そして真っ赤な嘘が、あなた様を心身共に傷つけ、追い詰め……放置致せばおそらく、狂ってしまわれたことでしょうから」
「いっそのこと、狂ってしまえばよかった……。
そうすれば、ベルゼブル陛下も、私をどこかに幽閉して扉を塗りこめ、そのまま忘れて下さったかも知れない……。
私は、誰からも忘れられた存在として、地の底深く、今も安らかに眠っていられたのだろうに……」
悲しげに、サマエルはうつむいた。
「そ、そんで、誰なんだよ、そのくそ野郎は!
タナトスは反省してっからまだいいけど、オレのもんに一度ならず手ぇ出しやがって!
今から行って、そいつ八つ裂きにしてやる!」
耐えられなくなったダイアデムは、ついに声を上げた。
どうせなら、すべてを吐き出させた方がいいだろうと、それまで黙って聞いていたのだが。
愛する者を酷い目に遭わせた男に対する怒りが、紅い眼を熱く燃え上がらせ、金の炎は今にも火の粉を噴いて、飛び散るかとさえ思われた。
その熱さが
「ありがとう、ダイアデム。でも、その必要はないよ、そいつはもう、死んでいるからね。
知らぬこととは言え、シンハが仇を討ってくれていたのだよ」
ダイアデムは眼を丸くした。
「えっ、シンハが、そいつを……?
あ……じゃ、じゃあ、お前にンなコトしやがったのは、ベルフェゴールの野郎だったんだな!?」
「ちぃっ! あの出来損ないの
タナトスは拳を固め、すでに死んでしまっている男を殴る真似をした。
「あの頃から、陛下とお前を亡き者にし、私を
そのため、私を手なずけようとしたが、リリスと同じようにはいかなかった、というところか」
サマエルは肩をすくめた。
「わたくしが、しっかりと釘を刺しておきましたからな。
これ以上、サマエル様に手出しをなさる気なら、反逆の意思ありとして、ベルゼブル陛下に事の次第をすべて報告致しますぞと。
それで、しばらく、鳴りを潜めておったのでしょうが……」
エッカルトは、首を左右に振った。
「畜生、あのくそ野郎! そうと知ってりゃ、もっと念入りに、
ダイアデムは華奢な手を握り締め、ギリギリと歯がみした。
「そんなことをしたら、もっとライラに恨まれてしまったと思うが」
サマエルは言った。
ベルフェゴールは、当時ファイディー国王だったライラの弟、アンドラスに
紅毛の少年は、唇を突き出した。
「ふん、ンなコト慣れっこさ。オレはどーせ、女に憎まれる運命なんだ。
あ、それであん時、お前にしちゃ珍しく、ベルフェゴールを自分で殺ろうとしたんか?」
「そうだね。なぜか、自分で手を下したくて仕方がなかった。
原形を留めないほど粉砕して、冥土の道連れにしてやる気でいたよ」
サマエルは、
「……止めといてよかったぜ」
ダイアデムはつぶやく。
「それはそうと、タナトス、たしかに初めての時は辛かった……だが、父上を始め城中の者が皆、私を、いない者同然に扱う中、お前だけが私を真正面から見、触れて来た。
私は、抱きしめられてキスされたことも、ほとんどなかったから、憎しみから私をもてあそんだのだと分かっていても、少しうれしかった……触れてもらえたのが、ね。
お前は、私が女性を渡り歩くと文句を言うけれど、それも、抱いてくれる者がいなかったせい……自分から誰かを抱くしかなかったのだよ」
そこまで言うと、サマエルは、兄に向かって微笑みかけた。
「伯父などより、お前の方が遙かに優しかったな。終わった後、傷を治してくれたものね。
殴ったりしたときの傷は放っておくのに、どうして、あの時は癒してくれたのだい?」
恨みも憎しみも感じられない、ただ、ほんの少しの好奇心と、もう一つの感情に縁取られた、彼の透明な笑みは、タナトスを沈黙させた。
サマエルは、それ以上追求しなかった。