12.龍の死闘(1)
(……む? 終わったのか? 痛みがなくなったぞ。体も軽い)
苦痛から解放されたタナトスは、力がみなぎって来る感じがして、急いで自分の体を見回した。
五本の指には、黒光りする鋭い
(ふん。どうやらうまくいったようだな)
彼は、漆黒の体の中で唯一紅い眼を光らせて、一人うなずくと、コウモリに似た背中の翼を羽ばたかせてみる。
変身は完全に成功し、火閃銀龍の足元にも及ばないとはいえ、彼は、人型だったときのおよそ五倍もの大きさの、黒い龍となっていた。
“タ、タナトス伯父上……”
心細げな念話に振り返ると、そこにはもう一頭、龍がいた。
彼よりも一回り小ぶりで、全身、鮮やかな朱色の鱗に覆われた龍だった。
“おう、リオンか。貴様も、
“はい、そうみたいですけど……こ、声が出ないんです、どうしちゃったんだろう……”
朱龍となったリオンは、朱色の爪の生えた手で喉を押さえた。
じれったげに、地面にたたきつける尾も朱色。
背中でばたつかせているコウモリ状の翼だけが、すべてが朱色をした体の中で、黒色をしている。
その巨体に似合わぬ、つぶらな朱色の眼が、うるんでいるように見えた。
タナトスも、普段通りに話そうとして口を開いたが、声は出なかった。
“なるほど、会話は無理らしいな。
まあ、そんなことはどうでもいい、シュネの助太刀に行くぞ!”
彼は、今も闘い続けている二頭の龍を指差した。
“は、はい!”
「サタナエルよ、
そのとき、黒豹が彼の肩に飛び乗って来た。
漆黒の毛並みが、龍の体色に溶け込み、同化する。
その中で、金色に輝く瞳だけが、“黯黒の眸”の存在を知らせていた。
“カーラ、お前は『焔の眸』と共に結界を張り、サマエルを守れ。
俺達の攻撃が、直接あいつに当たってしまっては、元も子もないからな”
「心得た」
こうして、黔龍となったタナトスは、弟を救うべく朱龍リオンを従え、碧龍シュネの加勢に向かった。
たった一頭で、必死に戦っていたシュネは、彼らの帰還に気づく余裕もなかった。
“シュネ、来たよ、ぼくだ、リオンだ! タナトス伯父上もいるよ!”
その声に、彼女は振り返り、緑色の眼を見張った。
“えっ、も、もしかして……リオン、兄さん? と、タナトス、さん……?”
朱色と黒、二頭の龍を、彼女は指差す。
美しい緑色の龍となっていたシュネの鱗は、所々、真紅の血に染まっていた。
“待たせたな、一人でよく頑張った。
──フィックス!
さ、これでよかろう”
タナトスは彼女をねぎらい、傷を回復させた。
“あ、ありがとうございます……よかった、戻って来てくれて”
ほっとしたシュネは、思わず涙ぐみ、慌てて眼をぬぐった。
“泣くのはまだ早いぞ、次はサマエルだ。
何としても、ヤツを現実世界に連れ戻すのだ!”
“は、はい、そ、そうです、ね”
そして、タナトスは、弟を捕らえている火閃銀龍に向けて黒い前足を突きつけ、宣戦布告をした。
“さあ、火閃銀龍! 弟を返してもらいに来たぞ!
こうして龍となったからには、貴様を倒すことなど造作ないわ!”
“
そもそも、ルキフェルは、救済なぞ欲してはおらぬ。
火閃銀龍はせせら笑い、挑発するように、紅い頭を一際高く上空へと突き上げた。
「う、がはっ……!」
いきなり重力がかかったために、サマエルは、さらなる苦痛に顔を歪め、口からは血しぶきが吐き出された。
「や、やめてくれ、火閃銀龍! これ以上、サマエル様を苦しめるのは!」
サマエルの腕に抱かれたゼーンが、叫ぶ。
「火閃銀龍、覚悟!」
次の瞬間、飛び移って来たカーラが思い切り紅い頭に噛みついたが、火閃銀龍は、虫に刺されたほども感じていない様子で、無視した。
“黙れ、生け
タナトスは、伝説の龍に指を突きつけた。
“大体、二言目には死ぬ死ぬと言っているが、その実、サマエルこそが一番死を恐れ、生にしがみついているのだ!
本当に死にたいわけではないわ!”
魔界の王は吼え、伝説の龍目がけて、飛びかかっていった。
“ぼくも行きます!”
“あ、あたしも!”
同時にリオンとシュネもまた、火閃銀龍に向かっていく。
三人がかりなら、例え倒せなくとも、サマエルを救い出すことは出来るかも知れないという思いは、共通していた。
たしかに、龍へ変身したお陰で、防御力がかなり増強されて、火閃銀龍の攻撃を直接受けても、さほど痛手をこうむることがなくなっている。
さらには、攻撃力も格段に上昇したことが、彼らの自信を後押しした。
“よし、いけるぞ! 貴様ら、手を休めるな!”
タナトスは手ごたえを感じ、二頭の龍達に声をかける。
“はい! 疲れてるだろうけど、頑張って、シュネ!”
“ええ、大丈夫!”
リオンとシュネも彼に応え、さらに攻撃を加えていく。
だが、生き物ではない火閃銀龍は、疲れというものをまったく知らず、それに引き換え、龍への変化を遂げたばかりのタナトス達は、力の制御がよく分かっていないためもあってか、疲労が目立ち、徐々に押され始めて行く。
どれほどの時が経ったのだろうか、サマエルの内部世界では、時間の観念は消失してしまっていたが、果てしなく続く戦いに終止符を打つように、火閃銀龍は宣言した。
“まったくもって、
されど、もはや虫螻を追い
“何だとぉ、死んだサマエルの心臓を食らうだと!?”
タナトスは、おのれ自身の心臓に鋭い牙を立てられたような痛みを感じて、思わず胸に手を当てた。
“サマエル父さんを!? 何てひどいヤツだ!”
“そんなことさせないわ!”
朱龍と碧龍も怒りを
“おお、吼えるわ、吼えるわ。幾匹の
さても、吾が『メグワ』を受けて安泰でいられる者なぞ、おらぬであろうぞ”
火閃銀龍は、三つの首をカッと開け、高圧的な口ぶりで言ってのけた。
「何と! ルキフェルの内で、あれを使う気か!」
サマエルを守ろうと結界を張っていた黒豹が、全身の毛を逆立てる。
「そんな……そんな……メグワなんて」
共に結界を張っていたゼーンは、はらはらと涙をこぼし、顔を手で覆った。
彼らの
“カーラ、メグワとは何だ、それほど強力な呪文なのか!?”
「当時は、
あれを知る者は、もはや、存在してはおるまいと思っておったが。
こやつが、本気であれを使う気ならば、残念ながら、我らに勝機はない。
この場を去るが得策……やも知れぬな」
鼻にしわを寄せ、カーラは答えた。
“何だと、敵に後ろを見せろと言うのか、この俺に!
しかも、サマエルを置いて、だと!”
黒い龍は地団太を踏んだ。
「左様。ルキフェルは諦めよ、サタナエル……」
カーラは、がっくりと肩を落とす。
「そう、仕方ない、です、皆さんのお命が大事です、から。
ありがとうございました……皆さん、そして“黯黒の眸”。
会ったばかりの方も……さようなら。お元気で……。
ゼーンは深々と頭を下げて、別れの言葉を口にする。
“くそっ、諦めるな、俺はまだ負けておらんぞ!”
タナトスは、自分の胸をたたく。
そんな彼に向け、からかうように火閃銀龍が言った。
“くく、左様、左様。
“こ、この……くそ龍が! くたばれ!”
“
“何ぃ……!?”
“落ち着いて下さい、タナトスさん。
今は、子供みたいな言い合いなんか、してる場合じゃないでしょ”
“そうですよ、叔父上、どうします……?”
リオンは、不安気な顔で問いかける。
“誰が逃げるか!
メグワだか
タナトスは言い切り、攻撃を続けようとした。
その刹那、火閃銀龍が唱えた。
“──
途端に伝説の龍の体から、無数の植物のつるが伸びていき、タナトス達に絡みつき始めた。
“くっ、何だこれは! 千切れん!”
“駄目です、切れない!”
タナトスとリオンは、もがくものの、つるを切ることは出来ない。
“待ってて、こんなの、燃やしちゃえばいい!”
一人逃れたシュネは火炎を吐くが、くすぶるばかりで、一向に火はつかない。
「草木の……やはり、ルキフェルを殺すのは最終手段と言うわけか。
すべての力を取り込みたいのだろうな、あやつも」
ほっとしたように、カーラがつぶやく。
「でも、危険です。あのつるは、彼らの生命力を吸い尽くすまで離れませんよ……あ!」
ゼーンは、自分が捕らえられたかのように身を震わせる。
逃げ回っていたシュネが、ついに捕まってしまったのだ。
“嫌、放してよ、苦し……!”
いくら暴れても、つるは碧龍を解放しない。
「ルキフェルよ、おぬしは、火閃銀龍の弱点を知っておるのであろう?
このままでは、サタナエルもおぬしの子孫も、全員死んでしまう……教えてくれ、この通りだ」
“黯黒の眸”の化身は、サマエルに頭を下げた。
「え、サマエル様が、弱点を……?」
ゼーンは眼を丸くした。
「わ、私は、何も、知らない、よ……」
苦しい息の下、薄く眼を開けて、サマエルは否定した。
「いや、おぬしは知っておるはずだ。
頼む、我に出来ることなら何でもするゆえ、彼を……サタナエルを……」
カーラは必死に、サマエルに哀願した。
その金色の虹彩から、黒い貴石が煌き落ちる。
「サマエル様、教えて下さい。
ほら、あの方は……まだあんなに若く、美しい女性なのに、もう、死んでしまわなくてはいけないのですか?」
“焔の眸”は、碧龍を指差した。
「それにあなたは、僕に、ゼーン……“生きる”という名をつけて下さいました。
本当は、僕……僕、死にたくないんです、あなたも死なせたくありません。
サマエル様と一緒に、生きていたいんです……!」
ゼーンは顔を覆い、再び泣き始めた。
指の間から、紅い宝石が、いくつもいくつもこぼれ落ちていく。
ろうれつ【陋劣】
いやしく劣っている・こと(さま)。下劣。
厭(あ)いる
飽きる。
きゅうきょう【究竟】
物事をきわめた、最高のところ。究極。くきょう。くっきょう。
邪術(じゃじゅつ)
sorcery。文化人類学的には、合法・非合法を問わず、意図して相手に危害を加える術。黒魔術と同義。
一般的には、呪術、妖術などと区別されない。
ちくでん【逐電】
古くは「ちくてん」。稲妻(いなずま)を追う、の意
[1] 逃げて姿をかくすこと。
[2] 行動がきわめて速いこと。急ぐこと。