~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

12.龍の死闘(1)

(……む? 終わったのか? 痛みがなくなったぞ。体も軽い)
苦痛から解放されたタナトスは、力がみなぎって来る感じがして、急いで自分の体を見回した。
五本の指には、黒光りする鋭い(かぎ)爪がずらりと並び、体には、黒曜石のように黒光りする(うろこ)が生えている。

(ふん。どうやらうまくいったようだな)
彼は、漆黒の体の中で唯一紅い眼を光らせて、一人うなずくと、コウモリに似た背中の翼を羽ばたかせてみる。
変身は完全に成功し、火閃銀龍の足元にも及ばないとはいえ、彼は、人型だったときのおよそ五倍もの大きさの、黒い龍となっていた。

“タ、タナトス伯父上……”
心細げな念話に振り返ると、そこにはもう一頭、龍がいた。
彼よりも一回り小ぶりで、全身、鮮やかな朱色の鱗に覆われた龍だった。
“おう、リオンか。貴様も、変化(へんげ)はうまくいったようだな”
“はい、そうみたいですけど……こ、声が出ないんです、どうしちゃったんだろう……”

朱龍となったリオンは、朱色の爪の生えた手で喉を押さえた。
じれったげに、地面にたたきつける尾も朱色。
背中でばたつかせているコウモリ状の翼だけが、すべてが朱色をした体の中で、黒色をしている。
その巨体に似合わぬ、つぶらな朱色の眼が、うるんでいるように見えた。

タナトスも、普段通りに話そうとして口を開いたが、声は出なかった。
“なるほど、会話は無理らしいな。
まあ、そんなことはどうでもいい、シュネの助太刀に行くぞ!”
彼は、今も闘い続けている二頭の龍を指差した。
“は、はい!”

「サタナエルよ、(けん)龍への変化、見事なり!」
そのとき、黒豹が彼の肩に飛び乗って来た。
漆黒の毛並みが、龍の体色に溶け込み、同化する。
その中で、金色に輝く瞳だけが、“黯黒の眸”の存在を知らせていた。

“カーラ、お前は『焔の眸』と共に結界を張り、サマエルを守れ。
俺達の攻撃が、直接あいつに当たってしまっては、元も子もないからな”
「心得た」
こうして、黔龍となったタナトスは、弟を救うべく朱龍リオンを従え、碧龍シュネの加勢に向かった。

たった一頭で、必死に戦っていたシュネは、彼らの帰還に気づく余裕もなかった。
“シュネ、来たよ、ぼくだ、リオンだ! タナトス伯父上もいるよ!”
その声に、彼女は振り返り、緑色の眼を見張った。
“えっ、も、もしかして……リオン、兄さん? と、タナトス、さん……?”
朱色と黒、二頭の龍を、彼女は指差す。
美しい緑色の龍となっていたシュネの鱗は、所々、真紅の血に染まっていた。

“待たせたな、一人でよく頑張った。
──フィックス!
さ、これでよかろう”
タナトスは彼女をねぎらい、傷を回復させた。

“あ、ありがとうございます……よかった、戻って来てくれて”
ほっとしたシュネは、思わず涙ぐみ、慌てて眼をぬぐった。
“泣くのはまだ早いぞ、次はサマエルだ。
何としても、ヤツを現実世界に連れ戻すのだ!”
“は、はい、そ、そうです、ね”

そして、タナトスは、弟を捕らえている火閃銀龍に向けて黒い前足を突きつけ、宣戦布告をした。
“さあ、火閃銀龍! 弟を返してもらいに来たぞ!
こうして龍となったからには、貴様を倒すことなど造作ないわ!”
(なれ)ごときの虫(けら)が、(あれ)を倒すと……? 笑止な。
そもそも、ルキフェルは、救済なぞ欲してはおらぬ。
()の者は、おのれ自身の所望(しょもう)により、()が物となる道を選んだゆえにな”
火閃銀龍はせせら笑い、挑発するように、紅い頭を一際高く上空へと突き上げた。

「う、がはっ……!」
いきなり重力がかかったために、サマエルは、さらなる苦痛に顔を歪め、口からは血しぶきが吐き出された。
「や、やめてくれ、火閃銀龍! これ以上、サマエル様を苦しめるのは!」
サマエルの腕に抱かれたゼーンが、叫ぶ。
「火閃銀龍、覚悟!」
次の瞬間、飛び移って来たカーラが思い切り紅い頭に噛みついたが、火閃銀龍は、虫に刺されたほども感じていない様子で、無視した。

“黙れ、生け(にえ)となるよう、サマエルを()きつけたのは、貴様だろうが!”
タナトスは、伝説の龍に指を突きつけた。
“大体、二言目には死ぬ死ぬと言っているが、その実、サマエルこそが一番死を恐れ、生にしがみついているのだ!
本当に死にたいわけではないわ!”
魔界の王は吼え、伝説の龍目がけて、飛びかかっていった。

“ぼくも行きます!”
“あ、あたしも!”
同時にリオンとシュネもまた、火閃銀龍に向かっていく。
三人がかりなら、例え倒せなくとも、サマエルを救い出すことは出来るかも知れないという思いは、共通していた。
たしかに、龍へ変身したお陰で、防御力がかなり増強されて、火閃銀龍の攻撃を直接受けても、さほど痛手をこうむることがなくなっている。
さらには、攻撃力も格段に上昇したことが、彼らの自信を後押しした。

“よし、いけるぞ! 貴様ら、手を休めるな!”
タナトスは手ごたえを感じ、二頭の龍達に声をかける。
“はい! 疲れてるだろうけど、頑張って、シュネ!”
“ええ、大丈夫!”
リオンとシュネも彼に応え、さらに攻撃を加えていく。

だが、生き物ではない火閃銀龍は、疲れというものをまったく知らず、それに引き換え、龍への変化を遂げたばかりのタナトス達は、力の制御がよく分かっていないためもあってか、疲労が目立ち、徐々に押され始めて行く。

どれほどの時が経ったのだろうか、サマエルの内部世界では、時間の観念は消失してしまっていたが、果てしなく続く戦いに終止符を打つように、火閃銀龍は宣言した。
“まったくもって、陋劣(ろうれつ)なる(やから)めが!
されど、もはや虫螻を追い退()けるも()いたわ、かくなる上は、吾が究竟(きゅうきょう)の呪文を喰らわせてくれよう!
(たと)(これ)にて、ルキフェルが死に至ろうとも、心の臓さえ喰らえば、力の大方は()が物と為すことが出来ようほどにな!”

“何だとぉ、死んだサマエルの心臓を食らうだと!?”
タナトスは、おのれ自身の心臓に鋭い牙を立てられたような痛みを感じて、思わず胸に手を当てた。
“サマエル父さんを!? 何てひどいヤツだ!”
“そんなことさせないわ!”
朱龍と碧龍も怒りを(あらわ)にする。

“おお、吼えるわ、吼えるわ。幾匹の土龍(もぐら)が何と(さえず)ろうと、吾が力の足許にも及ぶまい。
さても、吾が『メグワ』を受けて安泰でいられる者なぞ、おらぬであろうぞ”
火閃銀龍は、三つの首をカッと開け、高圧的な口ぶりで言ってのけた。

「何と! ルキフェルの内で、あれを使う気か!」
サマエルを守ろうと結界を張っていた黒豹が、全身の毛を逆立てる。
「そんな……そんな……メグワなんて」
共に結界を張っていたゼーンは、はらはらと涙をこぼし、顔を手で覆った。

彼らの狼狽(ろうばい)振りに、ただならぬものを感じたタナトスは、急ぎ尋ねた。
“カーラ、メグワとは何だ、それほど強力な呪文なのか!?”
「当時は、邪術(じゃじゅつ)とも呼ばれておった……超古代の()むべき遺産とも言えよう。
あれを知る者は、もはや、存在してはおるまいと思っておったが。
こやつが、本気であれを使う気ならば、残念ながら、我らに勝機はない。
この場を去るが得策……やも知れぬな」
鼻にしわを寄せ、カーラは答えた。

“何だと、敵に後ろを見せろと言うのか、この俺に! 
しかも、サマエルを置いて、だと!”
黒い龍は地団太を踏んだ。
「左様。ルキフェルは諦めよ、サタナエル……」
カーラは、がっくりと肩を落とす。

「そう、仕方ない、です、皆さんのお命が大事です、から。
ありがとうございました……皆さん、そして“黯黒の眸”。
会ったばかりの方も……さようなら。お元気で……。
ゼーンは深々と頭を下げて、別れの言葉を口にする。

“くそっ、諦めるな、俺はまだ負けておらんぞ!”
タナトスは、自分の胸をたたく。
そんな彼に向け、からかうように火閃銀龍が言った。
“くく、左様、左様。逐電(ちくでん)致すのならば、今の内ぞ、止めはせぬ”
“こ、この……くそ龍が! くたばれ!”
()の台詞、(ことごと)く、(なれ)に返してくれよう、黒き土龍(もぐら)よ”

“何ぃ……!?”
激昂(げっこう)しかけたタナトスに、シュネが声をかけた。
“落ち着いて下さい、タナトスさん。
今は、子供みたいな言い合いなんか、してる場合じゃないでしょ”
“そうですよ、叔父上、どうします……?”
リオンは、不安気な顔で問いかける。
“誰が逃げるか!
メグワだか馬糞(まぐそ)だか知らんが、ハッタリだ、そんなもの!”
タナトスは言い切り、攻撃を続けようとした。

その刹那、火閃銀龍が唱えた。
“──(あれ)に根を張る、大地の力よ、草木(そうもく)のメグワ!”
途端に伝説の龍の体から、無数の植物のつるが伸びていき、タナトス達に絡みつき始めた。
“くっ、何だこれは! 千切れん!”
“駄目です、切れない!”
タナトスとリオンは、もがくものの、つるを切ることは出来ない。
“待ってて、こんなの、燃やしちゃえばいい!”
一人逃れたシュネは火炎を吐くが、くすぶるばかりで、一向に火はつかない。

「草木の……やはり、ルキフェルを殺すのは最終手段と言うわけか。
すべての力を取り込みたいのだろうな、あやつも」
ほっとしたように、カーラがつぶやく。
「でも、危険です。あのつるは、彼らの生命力を吸い尽くすまで離れませんよ……あ!」
ゼーンは、自分が捕らえられたかのように身を震わせる。
逃げ回っていたシュネが、ついに捕まってしまったのだ。
“嫌、放してよ、苦し……!”
いくら暴れても、つるは碧龍を解放しない。

「ルキフェルよ、おぬしは、火閃銀龍の弱点を知っておるのであろう?
このままでは、サタナエルもおぬしの子孫も、全員死んでしまう……教えてくれ、この通りだ」
“黯黒の眸”の化身は、サマエルに頭を下げた。
「え、サマエル様が、弱点を……?」
ゼーンは眼を丸くした。

「わ、私は、何も、知らない、よ……」
苦しい息の下、薄く眼を開けて、サマエルは否定した。
「いや、おぬしは知っておるはずだ。
頼む、我に出来ることなら何でもするゆえ、彼を……サタナエルを……」
カーラは必死に、サマエルに哀願した。
その金色の虹彩から、黒い貴石が煌き落ちる。

「サマエル様、教えて下さい。
ほら、あの方は……まだあんなに若く、美しい女性なのに、もう、死んでしまわなくてはいけないのですか?」
“焔の眸”は、碧龍を指差した。

「それにあなたは、僕に、ゼーン……“生きる”という名をつけて下さいました。
本当は、僕……僕、死にたくないんです、あなたも死なせたくありません。
サマエル様と一緒に、生きていたいんです……!」
ゼーンは顔を覆い、再び泣き始めた。
指の間から、紅い宝石が、いくつもいくつもこぼれ落ちていく。

ろうれつ【陋劣】

いやしく劣っている・こと(さま)。下劣。

厭(あ)いる

飽きる。

きゅうきょう【究竟】

物事をきわめた、最高のところ。究極。くきょう。くっきょう。

邪術(じゃじゅつ)

sorcery。文化人類学的には、合法・非合法を問わず、意図して相手に危害を加える術。黒魔術と同義。
一般的には、呪術、妖術などと区別されない。

ちくでん【逐電】

古くは「ちくてん」。稲妻(いなずま)を追う、の意
[1] 逃げて姿をかくすこと。
[2] 行動がきわめて速いこと。急ぐこと。