11.龍の唄(4)
タナトスは、サマエルの部屋で目覚めていた。
弟の内部に入っていたのは、彼の精神だけだった。
意識をはっきりさせるようと頭を振ったところに、うめき声が聞こえ、彼は飛び起きた。
「ううう……苦し……ああ……」
弟が、ベッドでもだえ苦しんでいた。
白銀の髪は乱れ、いつも以上に蒼白な顔の痛々しい傷やあざが、見る間に数を増していく。
額には玉の汗、噛み破ったと
タナトスは、額の汗をそっとぬぐうと弟に口づけ、精気を少し送り込んでやった。
「待っていろ、サマエル。必ず目覚めさせてやるからな。
──ムーヴ!」
そして、次の瞬間、彼は宝物庫の地下、“禁呪の
一説には、ここに幽閉された王族が、自分を
以前は王族の許しがあれば誰でも入れたが、ベルフェゴールの謀反を受け、ベルゼブルが、歴代の王しか入室出来ないようにしてしまっていため、タナトスみずから書を取りに来るしかなかったのだ。
部屋には窓一つなく、さらには扉自体が存在しないため、底冷えする室内は闇に閉ざされて、かび臭さが鼻を突く。
それでも、辛うじて見分けられる、部屋の壁一面に備えつけられた本棚には、かつてびっしりと禁呪の書が収められていたと言う。
だが、今はすべての棚がほこりにまみれてがらんとし、どこに残りの書があるのか、まったく分からない。
「……ち、こんなことなら、書のありかぐらい、親父に聞いて来ればよかったな」
舌打ちするも、最近のベルゼブル前王は体が弱り、眠ってばかりいるようになっており、緊急事態だからといって、すぐに起こして話が出来るかどうかは分からなかった。
あれほど嫌って来た父親だったが、王としてはきちんと勤めを果たして来たのだし、それに、ごく小さな頃……母親が生きていた当時には、彼にも優しく、時には頭をなでてくれたり、笑いかけてもくれていたことを、彼は記憶していた。
そのため、せめていつもの口喧嘩ができる程度には元気にしてやりたい、とは思っていたのだ。
それはさておき、こう暗くては本を探すどころではない。
灯りをつけようと、彼はぱちんと指を鳴らす。
目の前に小さな鬼火が現れた瞬間、それとは別のかすかな光が、棚の片隅に、ぽっと燃え上がったことに彼は気づいた。
「あれは!」
彼はそこを目がけて駆け出し、暗い光を発する一冊の本を、ひったくるように棚から取った。
「“龍の唄”。たしかにこれだな。……む?」
彼は、金箔で打ち出された題名の下に並ぶ、小さな文字に眼を留めた。
それは、遥かな昔、魔族がまだフェレス族だった時代の、もはや使われなくなった文字であり、今は魔界王家のみに伝わる物だった。
彼はそれを読み上げてみた。
「“
恐れを知らず、
……俺は封じられてなどおらんが、やはり、これは俺の書だろうな」
すると、書物は彼のつぶやきに応えるように輝き、手から浮き上がって自然に開き、呪文のページを開くと降りて来た。
「こ、こんなに簡単に、封印が解けるもの……なのか?」
タナトスは面食らい、そこに書かれている呪文を、うさん臭そうに指でなぞった。
「まあいい、変身するのは戻ってからだ。
あとは、これか。リオンの書……ならばいいが」
自分の書の隣にあった本を、彼は取り出す。
彼が触れても、書物は何の反応も見せない。
その表紙にも、彼のと同様“龍の唄”とあり、下にはやはり小さな字で、何事か書いてあった。
「“水多き星、恵み滴る緑陰に、安らかに眠る対の
声に出して読んでみても、何も起きない。
そこで、彼は本を開こうとしたが、糊付けされているかのように、びくともしなかった。
「開かんな。
……ふん、どうやら、“資格ある者”がこれを読まねば、封印は解けんものらしい。まあ、無闇に解けても困るからな。
さてと……む、そういえば」
ずしりと重い、かさばる二つの書を抱え、移動呪文を唱えようとしてタナトスは、禁呪の書が、もう一冊あったはずだということを思い出した。
鬼火を掲げ、さらにあちこち探してみると、同じ段の少し離れたところに、本が横倒しになっていた。
(……残るは、これか? だが、今回は関係なかろう)
そう思ったものの、一応、題名だけでも見ておこうと、彼は息を吹きかけて厚く積もったほこりを払ってみた。
「何っ、これも“龍の唄”だと!?」
慌てて彼は、その本を取ろうとしたが、無理だった。
今手にしている二冊とは違い、倒れている書物はぼろぼろで、持ったが最後、崩れて
この本がサマエルのものだとしたら、崩壊しかけているのは、すでに封印が解けたためか、それとも、弟が死にかけているためなのだろうか。
どちらにせよ、この書は、もう役目を終えつつある。
そうタナトスには思えた。
そして、これにも、題名の下に何か書いてあった。
彼は鬼火を近づけて、消えかかった文字を読もうとした。
「むう、かすれて見にくいな。れい、めい……? ああ、
“黎明の龍は……光と闇とを包含し……ゆえに……
心地に負けじと……”後は読めんな。
しかし、二つの名とは何のことだ? 魔族はすべて、通称と真の名を持っているはず。
サマエルだけが特別と言うのではあるまいに」
彼は首をかしげたが、今は時間がなかった。
「ともかく急がねば。謎解きはまた後だ」
タナトスは、二冊の書を抱え直し、後ろ髪を引かれる思いで呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
サマエルの部屋に戻ってみると、行くときは気づかなかったが、ベッドのそばに倒れているシュネの腕には、彼が取って来たものとそっくりな禁呪の書が抱えられていた。
タイトルの下には、やはり文字が書かれいる。
“緑滴る
「ふん……子守唄、か」
タナトスはつぶやき、横たわるリオンの手に、書物を持たせた。
「これでいい。今頃、これが現れているはずだ」
そして、彼は自分の本を手に、元いたところで横になり、再び弟の精神内部に入るため、眼を閉じた。
眼を開けると、彼は龍同士の、壮絶な戦いの真っ只中にいた。
シュネは、巨大な……といっても、伝説の龍の前では、かなり小ぶりに見える、緑色の龍へと変身を遂げ、必死に火閃銀龍と闘っている。
「わあっ、こ、これ、何!?」
直後、彼のすぐそばにいたリオンが、いきなり手の中に現れた禁呪の書に、驚きの声を上げた。
「それが貴様の書だ。表紙の下の文字が読めるか?」
タナトスが声をかけると、リオンは真剣に表紙を眺め、それから否定の身振りをした。
「駄目です、全然読めません……。
魔法文字は母さんから習ってたんですけど、これは見たこともないや……」
「“水多き星、恵み滴る緑陰に、安らかに眠る対の
「え? ええっと……水多き? えと、何でしたっけ、緑……?」
リオンは首をひねり、口ごもる。
「違う、よく聞け、たわけ者!」
タナトスは、苛立たしげに文章を繰り返してやる。
「あ、す、済みません」
恐縮しながらリオンが復唱した途端、禁呪の書が朱色に輝き、勢いよく開いた。
「ひゃっ!?」
驚くリオンの手を離れ、本は自動的にページを繰っていき、目的の呪文の場所が来ると、静かに降りて来た。
「それを唱えてみろ、変身出来るはずだ。
俺も書を見つけた、三頭でかかれば、何とかなるだろう」
タナトスは、自分の本を持ち上げてみせる。
「は、はい。ええと……あ、今度は読めます。
何でだろう、さっきは全然、分かんなかったのに……封印が解けたからかな。
へぇ、やっぱりシュネのときと同じ、ぼくの名前もあるや」
ほっとしたようにリオンは言い、呪文を唱え始めた。
「──狂気を司る月よ、夜を支配する者よ、我は汝に帰依し、その力を以て闇を支配せん!
我が真の名は、シナバリン・マステマ、その名の許に、“朱龍の封印”を解く!
──カプト・ドラコニス!」
刹那、リオンの体を、朱色の光が包み込む。
「な、何、うわ、うわあっ!?」
変身するのだと分かっていたはずなのに、彼はパニックに陥り、本を放り投げた。
「落ち着くがいい、シナバリン。ベリリアスの変化を見ておったのであろう」
そのとき、黒豹が彼のそばに降り立ち、声をかけて来た。
「おう、カーラ、首尾はどうだ」
タナトスが尋ねると、“黯黒の眸”は、頭を横に振った。
「碧龍一頭では、やはり歯が立たぬ。
「そうか。だがもう大丈夫だ、まずはこいつが龍になる」
彼はリオンを指差す。
「う、うわ、か、体が、すごく、あ、熱いです、体が……全部、バラバラになっちゃいそうだ……!
うううっ!」
歯を食いしばるリオンの肉体は、そう話す間にも、みしみしと音を立てて、変わっていくのだった。
「ふん、体組成が変化しているのだ、それくらいの苦痛、あってしかるべきだろう。
貴様も魔界の王族の端くれ、耐えられんでどうする。
どれ、俺も唱えてみるか」
タナトスは本を開いた。
禁呪の書はうれしそうに輝きながら、ぱらぱらと羊皮紙を繰り、変身の呪文を彼に示した。
「……よし。
──夜を
我が真の名は、サタナエル・アサンスクリタ、その名の許に、“
──グヴァ・チネス!」
シュネとリオンの呪文が似通っているのに対して、これは少し違っているなと思う間もなく、タナトスの体も変化を始めた。
「……くっ、こ、これは……」
魔界の王は、歯を食いしばった。
リオンが言った通り、彼もまた体中が痛み、内臓がすべてばらけてしまいそうな苦痛に襲われ始めた。
それでも、彼は、最近、弟から半ば強制的にカオスの力を分け与えられたりして、体の苦痛にはかなり慣れて来ていた。
さらには、これに成功すれば、ついに、念願の第二形態を手に入れられるのだ。
魔族ならば、ほとんど誰もが持っているはずなのに、人間との混血だったがゆえか、魔界王となった今でも、タナトスは変化が出来ずにいた。
今回得られるのが“龍”ともなれば、魔界を
ゆうしつ【幽室】
[1] 奥深くもの静かな部屋。[2] 牢獄。
じゃくめつ【寂滅】
1 仏語。煩悩(ぼんのう)の境地を離れ、悟りの境地に入ること。涅槃(ねはん)。2 消滅すること。死ぬこと。
りりょう【驪竜】
黒色の竜。りりゅう。
おうてい【奥底】
1 奥深い所。2 心中の秘密。
ているい【涕涙】
なみだ。また、なみだを流すこと。
れいめい【黎明】
[1] 夜が明けて朝になろうとする頃。明け方。よあけ。
[2] 物事が盛んに始まろうとする時。新しい文化などが起ころうとする時。
たまゆら【玉響】
少しの間。ほんのしばらく。
「玉響(たまかぎる)きのふの夕見しものを今日の朝(あした)に恋ふべきものか」〈万葉集・二三九一〉
この「玉響」を「たまゆらに」とよんだところからできた語。
玉がゆらぎ触れ合うことのかすかなところから、「しばし」「かすか」の意味に用いられた。