11.龍の唄(3)
一方その頃、タナトスは。
張った結界は早々に破られてしまい、彼は再び黒豹の背に乗って、弾幕にも似た火閃銀龍の攻撃を、かわし続ける羽目になっていた。
それも無理からぬことだった。
相手は、宇宙を破滅に導くという紅龍、それすらも
それでも、タナトスが龍に変身出来たなら、万に一つの確率で、勝てる可能性もあったかも知れない。
しかし、魔族の第二形態すら持っていない、今の彼に出来るのは、ひたすら逃げ回ることだけだった。
「くそ、くそ、くそ……っ! こんなにも……こんなにも、俺は無力なのか!?
たった一人の弟を助けることすら、俺には出来んというのか!」
彼は屈辱と歯がゆさに頬を紅潮させ、火閃銀龍の口中にて、今や息も絶え絶えに、死を待つのみとなっている弟を見上げる。
“サタナエルよ”
そんな折、“黯黒の眸”が背中の彼に、念話を送って来た。
火閃銀龍の攻撃による爆発がもたらす、すさまじい音や爆風のさなかでは、これほど近くにいても通常の会話は難しかったのだ。
“ああ、済まんな、カーラ。だが、今回ばかりは、さすがに俺も……”
“いや、たった今、『焔の眸』の心を捉えることが出来たのでな。
龍と唄に関する『禁呪の書』があれば、この場をどうにか収められるのだが、と考えているようだ。
当然だが、我が兄弟も、伴侶を死なせたくはないのだろう”
軽々と光線を避けながら、カーラは、ゼーンの方へあごをしゃくった。
サマエルに抱きしめられた黒髪の少年は、血の気が失せた顔に涙を浮かべ、しきりに首を左右に振っている。
“……禁呪の書か。たしかに、まだ三冊あったはずだが、書名など知らんぞ”
顔をしかめて、タナトスは答えた。
封じられていた書の一つを使い、ベルフェゴール叔父が、サマエルを操って謀反を起こそうとしたことは、まだ記憶に新しかった。
直後、彼の父、当時の魔界王ベルゼブルは、魔界に残る他の書を処分しようとしたが、封印された状態では破壊出来ず、さらには、解呪の法も発見出来なかったことから、結局、そのままにされていたのだ。
“それよりも、本当に、そんな書一つで、この修羅場を切り抜けられるというのか?
モトもだが、唄やら書物やらで、こんな巨大な龍相手にどうせよと……”
タナトスは、火閃銀龍を仰ぎ見る。
今日はもう、何度そうしたか分からないほどだったが、やはり見ずにはいられなかったのだ。
“……分からぬ。兄弟の心は
魔界の王の問いに答える黒豹の思念もまた、困惑気味だった。
“では、直接聞いてみるがいい”
すると、カーラは、否定の念を返して来た。
“いや、それはやめた方がよかろう。
『焔の眸』は、ただちに心を閉ざすであろうし、よしんばそうせずとも、火閃銀龍が我らの会話に気づき、再び
今は、漏れ聞こえる心の声から、密かに有用な情報を拾い集める方が、よいと思われるが”
“ち、まだるっこしいが、仕方ないか。
俺までが、この場を離れるわけにはいかんしな”
タナトスが渋々同意したとき、火閃銀龍の攻撃がぴたりとやんだ。
いきなり訪れた静寂の中、驚いたような龍の思念が、空間に
“まこと、
「……む、何だ、どうしたのだ?」
タナトスが急いで顔を上げると、龍は首をすべて紅い頭に寄せており、そのためサマエルの姿は隠れていたが、火閃銀龍に答える弟の静かな声は、彼の耳にも届いた。
「無論だ、偉大なる龍よ。
もう
今すぐ私を殺せ。一つの口で私の頭を、一つで喉笛を、そして最後の一つで心臓を食い破って、私を死に至らしめるがいい。
そうすれば私の全身を飲み込むより早く、お前は、私の夢から解放される。
“紅龍”の力を手に入れ、お前は
「な、何をほざいているのだ、あのたわけは!」
タナトスは、我知らず青ざめていた。
自分だけでなく、子孫達までもが、必死になってサマエルを助けようとしているのに。
どうして、弟は、これほど死に急ぐのか。
彼には、まったく理解できなかった。
「ともかく、行くしかあるまい!
──ムーヴ!」
タナトスは呪文を唱え、黒豹に乗ったまま、サマエルのそばへ移動する。
「火閃銀龍、貴様にサマエルは食わせんぞ!」
彼はカーラから飛び降り、弟に迫る牙を防ぐ楯となろうとするも、それまでも太刀打ちできずにいたものを、いきなり対抗出来るようになるわけもなく。
「うわっ!」
あえなく火閃銀龍に跳ね飛ばされて、地に
「サタナエル!」
「──くっ、俺は大丈夫だ! それよりカーラ、サマエルを守れ!」
空中で向きを変え、降りて来ようとする黒豹を、タナトスは手を振って追い返す。
“なれど、我には荷が勝ち過ぎる……”
主の命令に従いたくとも、彼より攻撃力の劣る“黯黒の眸”の化身が、偉大な龍に
“
火閃銀龍は気勢を上げ、首を振り回し続けていた。
「気をつけろ、カーラ! 待っていろ、今行く!」
タナトスが、今度は自分で飛び上がろうと翼を広げたときだった。
彼の目の前の空間が、明るく輝き始めたのだ。
白い輝きは徐々に強くなり、やがて二つの人影となる。
「……ふん、ようやく戻って来たか」
翼をたたんだ彼のつぶやきには、抑え切れない安堵の念が含まれていた。
光が消え、現れた二人は、言わずと知れたシュネとリオンだった。
「あ、ここって、元のところよね?」
シュネは、きょろきょろ辺りを見回し、リオンは彼女に笑みを向けた。
「うん、火閃銀龍もいるしね。ともかく、無事に戻れてよかった」
「ホントね」
彼らは、ほっとして、固く握り合っていた手を離した。
タナトスは、そんな二人を急かした。
「待たせおって。さあ、さっさと子守唄を歌え、貴様ら」
「は、はい、ええっと……」
シュネは、祖父にもらった本を抱きしめ、過去で母が歌っていた子守唄を歌い出した。
「……緑滴る
母なる星の御胸に……」
すると、書物が再び、緑の光を発し始めた。
「え、ま、また!?」
驚くシュネの手を離れて、本は宙に浮き上がり、ばっと開いた。
「ふ、封印が解けた!?」
眼を見張るリオンの胸倉をつかみ、タナトスは詰め寄った。
「あれは禁呪の書か!? あんなものを、一体どこから持って来たのだ!」
「あ、あの……シュネのお祖父さんが、先祖代々伝わる古文書だって……彼女なら封印も解けるだろうって、くれたんです……」
リオンの説明を聞いたタナトスは、眼を剥いた。
「何だと!? 過去からは何も持って来られんぞ、夢飛行で飛んで行くのは、使い手の精神だけなのだからな!」
「ええ、それは習いましたけど、でも、何でだか、あの本は……」
「でももくそもあるか!」
「や、やめて下さい……!」
二人が言い合っている間にも、本は、風に
「あ、ここ、読めるわ。ええと……」
「やめろ! そいつは禁呪の書、ろくでもない呪文に決まっている!」
リオンを放り出し、タナトスはシュネを止めようとしたが、時すでに遅く、彼女はもう、その文章を読み上げ出していた。
「──悪夢を司る月よ、夜を支配する者よ、我は汝に
我が真の名はベリリアス・ブーネ、その名の許に“碧龍の封印”を解く!
──カウダ・ドラコニス!
……え、何、今の?」
声高く詠唱してしまってから、シュネは口を押さえた。
自分の意思とは関係なく、呪文を唱えていたのだ。
そして、次の瞬間。彼女の全身が、
「きゃっ、な、何、どうしたの!?
か、体が……熱い、燃えちゃいそう……!」
「だから言ったではないか!」
タナトスが、シュネの手から禁呪の書をたたき落とすも、輝きは強くなりさえすれ、収まる様子はまったくなかった。
「ち、遅かったか! いや、封印が解けた今なら、破壊出来るはずだ!
──」
タナトスは、下に落ちてからも緑に発光し続ける書物に向けて、呪文を唱えようとする。
リオンは、慌てて彼をさえぎった。
「ちょ、ちょっと待って下さい、壊しちゃう気ですか!?
今、“碧龍の封印を解く”って言ってましたよ、ひょっとすると、これ、龍に変身するための本なんじゃ……?」
「何、龍に変化するだと!?」
眼を見張る彼らの前で、シュネの輝きは強さを増し、その体は徐々に大きくなっていく。
「い、嫌、な、何!? 何なの、これぇ!? こ、怖いよぉ!」
光の中から届くシュネの声は、悲鳴に近かった。
「大丈夫だよ、シュネ。落ち着いて聞いて。
キミは今、龍に変身してるところなんだ……サマエルを救うためには、必要なことなんだよ」
どうにか心を静めたリオンが、優しく話しかける。
「り、龍……!? あ、あたし、が!? な、何それ、ど、どうして……!?」
シュネは涙声になっていた。
「心配しないで。ぼくも、朱色の龍になるから。
サマエル父さんは紅い龍、タナトス伯父さんは、黒い龍になるんだよ。
ぼくら四人は、魔族を救う救世主……四色の龍、なんだってさ」
「ええっ!?」
シュネは絶句する。
ダイアデムに見せられた記憶の中に、四頭の龍のこともたしかに出ては来たが、まさか、自分がそれだとは、思いもしなかったのだ。
「急だし、びっくりしただろ? 後で、ゆっくり説明してあげるから。
でも、さっきの呪文には、ベリリアスの名前も入ってたし、彼女がキミをお祖父さんのところへ連れて行ったんだろうね。
あそこに“龍の唄”の書がある、って知ってたんだよ」
「そ、そっか……」
彼女の声は、幾分落ち着きを取り戻した。
タナトスは、まだ輝きを失わずにいる本を拾い上げた。
「モトが言っていたのは、このことか。
子守唄が、封印を解く鍵だったとはな。
だが、これはあくまでも碧龍……あの娘のための呪文だ……」
“ならば、残りの書にあるのではないのか、黒と朱の呪文が”
“黯黒の眸”の思念が届く。
カーラはまだ、サマエルを守ろうと奮闘していた。
“ふむ……よし、カーラ、もう少し踏ん張っていてくれ”
“心得た”
それから、タナトスは声に出して言った。
「リオン、魔界にも書がある、俺が取って来る間、カーラの加勢をしろ。
サマエルを守れ! いいな!」
「分かりました、やってみます!」
リオンは、さっと胸に手を当てた。
ちぢ【千千】 (千々)
1 数が非常に多いこと。また、そのさま。「大波が─に砕け散る」
2 種類・変化などに富むこと。また、そのさま。さまざま。「心が─に乱れる」
よしんば【縦んば】
たとえそうであったとしても。かりに。
ぐまい【愚昧】
愚かで道理にくらい・こと(さま)。
やつばら【奴儕/奴原】
複数の人を卑しめていう語。やつら。
ささわり【障り】
「さ」は接頭語。「さわり」に同じ。さしさわり。さまたげ。
みどりご【緑児・〈嬰児〉】
「新芽のような子」の意から。古くは「みどりこ」。生まれたばかりの子供。あかんぼう。
いとけない【幼い/稚い】
「ない」は意味を強める接尾語。おさなくて小さいさま。あどけない。