~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

11.龍の唄(1)

「サタナエル!」
唯一無事だった“黯黒の眸”の化身は、倒れた主に駆け寄り、素早く背中に乗せた。
「──ムーヴ!」
それから、移動呪文を唱え、火閃銀龍のさらなる攻撃を回避する。
もし、カーラがいなかったら、タナトスは、外の世界に放り出されるどころか、この場で消滅の()き目に遭っていたかも知れない。

それでも、危機は完全に去ったわけではなかった。
今や火閃銀龍は分別をなくし、サマエルが傷つき、死ぬ可能性があることさえも忘れたかのように、見境なく光線を乱射し始めていたのだ。
龍の攻撃をかわしつつ、一刻も早く主を目覚めさせなければと考えたカーラは、心の声を最大にして、タナトスに呼びかけた。
“──覚醒せよ、サタナエル! 我が主よ!”

「う……く、くそ、不覚……! まったく、忌々しい龍め……!」
幸いにも、タナトスはすぐに失神状態から回復し、意識をはっきりさせようと、頭を振った。
「サタナエル、大事無いか」
「案ずるな、カーラ。今少し、背中を借りるぞ」
不安げな化身の背を軽くたたいて落ち着かせてから、タナトスは再度、モトと連絡を取ろうと試みた。
“モト! どんな子守唄だ! それを唄えば、本当にヤツを倒せるのだな!?”
たが、応答はない。

“聞こえんのか、くそっ!”
悪態をついて呼びかけを打ち切り、しなやかに龍の攻撃をかいくぐり続けている豹の上で、タナトスは伸び上がった。
彼の視線の遥か先で、龍にくわえられているサマエルは、顔を歪めて苦しげにあえぎ、身悶えていた。
しっかりと胸に抱きしめた黒髪の少年に、時折、何事かささやく。
唇の動きで、『もう少しだ、あと少しで終わる。この苦しみさえ乗り越えれば、私達は救われるのだ』などと話しているのが分かり、タナトスは、険しい表情になった。

「ちっ、何が『救われる』だ、たわけめ!
苦痛を受けるのが快感だと……どこがだ。
どう見ても、あいつは苦悶しているようにしか見えんわ!」
タナトスは忌々しげに吐き捨て、またも先祖に呼びかけた。
“モト、モト! 答えろ! 聞こえんのか、どうしたのだ!”
いくら呼んでも、やはり応えはない。
おそらく、完全にサマエルと融合してしまったのだろうと思われた。

(……む、たしか、同化してしまえば、『モト』という人格は消えてしまう……そう言っていたな)
タナトスはつぶやき、先祖との通信に見切りをつけて、黒豹に声をかけた。
「まあいい、カーラ、ガキどもを拾いに行くぞ!
──ムーヴ!」

倒れているシュネ達のそばに到着し、化身の背中から滑り降りたタナトスは、通常の結界を張ることにした。
「──セーブル・ヴェイル!」 
特殊結界は、もう役には立たない。
どうせサマエルは、今のままでも、火閃銀龍の滅茶苦茶な攻撃で傷つく。
普通の結界で光線を跳ね返しても、その傷つき具合に大差はないだろうと、判断したのだ。

彼が結界を張っている間に、“黯黒の眸”の化身は、素早くシュネ達の容態を診た。
「……ふむ。幸い、命に関わるほど酷くはやられておらぬ」
龍が的を定めずに光線を乱射していたお陰で、一旦気絶した後、二人にはそれ以上の攻撃が当たっていないようだった。
安堵したカーラは、彼らに回復呪文をかけた。
「──フィックス!」

「あ、痛ててて……」
「う~ん……あたし……?」
すぐさま効果は現れて、彼らは起き上がった。
「おい、貴様ら。子守唄を歌え。
よくは分からんが、子守唄があの龍の弱点らしい。モトがそう言っていた」

目覚めた途端、思ってみないことを命じられたリオンは、話がよく呑み込めず、ぽかんとタナトスを見返す。
「え、えっ、子守唄、って……?」
「ど、どんなのでも、いいんですか?
……っていうか、ホ、ホントに、子守唄なんかが……こ、これの弱点なの?」
シュネは、目の前にそびえ立つ巨大な龍を見上げた。

タナトスは、渋い顔で腕組みをした。
「それが、よく分からんのだ。
モトは、サマエルとの同化を果たしたようで、詳しくは聞けずじまいだった。
……どの道、俺は子守唄など覚えておらん。
幼い頃に聞いたかも知れんが、母が亡くなったのは、もう二万年以上も前だからな」

「子守唄……どんなだったかなぁ。
ぼくも、小さい頃に母を亡くしてますから……」
ようやく彼の話を理解したリオンは、小首をかしげた。
「待って。あたし、覚えてるかも。
最近記憶が戻ったから、子供の頃のことも、きっと思い出せてるはずです」
シュネが勢い込んで言った。
「ふん、ならば歌ってみろ」
タナトスは横柄に答える。

「は、はい。ええと……出だしは……」
可能だとは言ったものの、シュネは、なかなか思い出すことができなかった。
何しろ、今のこの状況と、子守唄……この二つほど、そぐわない組み合わせもないと言ってもよかったのだから。

結界のすぐ外は巨大な龍が暴れ狂って、まるで戦場のような惨状を呈しており、いくら眼を閉じ、耳をふさいでも、閃光は目蓋(まぶた)を透過して、くぐもった爆発音や振動も伝わって来る。
そんな中にあって、幼子の心を(なご)まし眠りにつかせる優しい旋律を、記憶の底から(よみがえ)らせなければならない……それはかなり困難な作業だった。

「ふむ……この有様では、童子も意識の集中が難しかろう。
サタナエル、ここを遮蔽(しゃへい)しては如何(いかが)だ」
カーラが提案する。
「ふん、うるさいことは確かだな」
タナトスは、ぱちりと指を鳴らす。
刹那、結界内は闇に閉ざされ、音もぴたりとやんだ。

「えっ?」
いきなり静かになったことに気づいて眼を開けたシュネは、暗闇でも皆の姿が見えることに、さらに驚いた。
「み、見える……な、なんで……!? こ、こんな真っ暗なのに……!?」

「キミが、サマエルの子孫だからさ」
リオンが言い、タナトスが続ける。
「魔族は夜行性だ。闇夜に行動できんと不便だからな。
それより、子守唄は思い出せたのか?」
「あ、いえ、まだです、え、ええっと……」
慌ててシュネは、記憶を手繰(たぐ)る作業を再開した。

最近記憶を取り戻した彼女にとっては、まるで昨日のような、過去。
思い返すことが辛くないと言えば嘘になるが、今はそんなことを気にかけている余裕はなかった。
「子守唄……お母さんの……いつ聞いたっけ……ええと……」
ぶつぶつつぶやくうち、徐々にシュネの体が半透明になっていく。
「シュネ!?」
リオンは思わず、彼女の腕をつかむ。
途端に、二人の姿はかき消えた。

「む、どうしたのだ、あやつらは!?」
慌てて辺りを見回すタナトスを制するように、黒豹が言った。
「夢飛行だな。目的の物を見つけたなら、いずれ戻るであろうよ」
「こんなときにか!」
「それが最も早く、確実な方法と思えるが」
「……ふむ、そうかも知れんな」
タナトスは闇の中で肩をすくめ、再び指を鳴らす。
またもや喧騒(けんそう)が戻って来たが、騒々しい外を見ている方がまだしも、待つ間の退屈をしのぎやすいと彼は思った。

シュネ自身は、何をしたのか、まったく分かっていなかった。
夢飛行の存在を知らず、また、自分にそんなことが可能だとも思っていなかったのだ。
「あ、あれ……ここ、どこ? 皆は……?」
驚いて周囲を見回す彼女が立っていたのは、見覚えのある部屋だった。
揺りかごに赤ん坊が寝かされ、そばに母親らしき女性が座って、あやしている。
「お、お母さんだ……お母さん!」
思わずシュネは、状況も忘れて抱きつこうとしたが、体は母親をすり抜けてしまう。

「あれっ、ど、どうなってるの?
ね、ねえ、お母さん! あたし、シュ……ううん、ベリルよ!
ほら、こっちを見て、ねえ!」
その上、何度声をかけても聞こえている様子がなく、母親の前に手を出してみても、まったく見えていないようだった。
ようやく彼女は、どうしてこうなったのか分からないものの、自分が過去の記憶に紛れ込んでしまったらしいと気づいた。

「そっか……お母さんはもう、死んじゃってるんだもんね。
それにあたしは、子守唄を捜しに来ただけし……」
彼女は悲しげにつぶやき、母親を見つめた。
そして、この母が、記憶にある、死ぬ間際の母よりも若いことに気づいた。
「え、じゃ……ひょっとして、こ、この赤ちゃん、あ、あたしなんじゃ!?」
急いで揺りかごを覗き込む。
次の瞬間、シュネは、過去の自分と眼を合わせていた。

「きゃっきゃっ」
赤ん坊は、うれしそうな笑い声を立てた。
「え……もしかして、あたしが見えてる?」
ためしに手を振ってみると、赤ん坊は満面の笑顔で、小さな拳を振り返して来る。
「ばぶばぶばぶ!」
そのはしゃぐ様子は、未来から来た自分自身を、歓迎しているかのようだった。

「あらあら、どうしたの、ご機嫌ねー。でももう、ねんねの時間よ」
そんなこととは知らない母親は、優しく赤ん坊をあやし、子守唄を歌い始めた。
「あ、覚えてる……この、唄……」
シュネは眼をつぶり、耳を澄ませた。
心に染み入るような母の歌声、決して戻っては来ない、遠い過去……。
固く閉じたシュネの目蓋から、抑えようもなく涙が流れ落ちる。

しばらくの間、子守唄に聞き入っていた彼女は、歌声がやんだことで眼を開けた。
育児疲れからか、母は揺りかごにもたれかかり、寝入ってしまっていた。
涙をぬぐい、そばにあった毛布をかけてあげようとしても、指がすり抜けてしまい、持ち上げることもできない。

「ああ……お母さん、ご免なさい……!
あたしに優しくしないで、あやしたりしないで、お母さん……だってあたし、あたし……大きくなったら、お母さんを殺しちゃうんだよ……!」
彼女が顔を覆った、そのとき。
扉が静かに開き、滑るように部屋の中に入って来る姿があった。

「サ、サマエル様……あ、ち、違うわ、この人は……!」
シュネは思わず息を呑む。
優しい緑の瞳、長い銀髪を後ろで束ね、いつも笑みを絶やさず、魔法に()け、この町一番の魔術師として、皆の尊敬を一身に集めていた……。

その人物は、シュネに眼を留めると、はっと息を呑んだ。
「あんたは誰じゃ? いつの間に部屋の中に?」
母には見えなかった自分の姿が、この人物には見えている。
我知らず、シュネは訊き返していた。
「お、お祖父ちゃん、あたしが見えるの!?」

「お祖父ちゃん、じゃと!? ……ということは、まさか……!?」
シュネの祖父は、揺りかごの中を急ぎ確認し、それから再び、彼女に視線を戻す。
だが、その眉は、不審そうにひそめられていた。
「髪も眼の色も、この子とは違うようじゃが……」

「でも、あたしはベリルなのよ、お祖父ちゃん。
信じられないかもしれないけど、大きくなると、こんな風に変わってしまうの……」
シュネは、自分の胸に手を当て訴える。
その緑の瞳からは、またも涙が流れ始めていた。