11.龍の唄(1)
「サタナエル!」
唯一無事だった“黯黒の眸”の化身は、倒れた主に駆け寄り、素早く背中に乗せた。
「──ムーヴ!」
それから、移動呪文を唱え、火閃銀龍のさらなる攻撃を回避する。
もし、カーラがいなかったら、タナトスは、外の世界に放り出されるどころか、この場で消滅の
それでも、危機は完全に去ったわけではなかった。
今や火閃銀龍は分別をなくし、サマエルが傷つき、死ぬ可能性があることさえも忘れたかのように、見境なく光線を乱射し始めていたのだ。
龍の攻撃をかわしつつ、一刻も早く主を目覚めさせなければと考えたカーラは、心の声を最大にして、タナトスに呼びかけた。
“──覚醒せよ、サタナエル! 我が主よ!”
「う……く、くそ、不覚……! まったく、忌々しい龍め……!」
幸いにも、タナトスはすぐに失神状態から回復し、意識をはっきりさせようと、頭を振った。
「サタナエル、大事無いか」
「案ずるな、カーラ。今少し、背中を借りるぞ」
不安げな化身の背を軽くたたいて落ち着かせてから、タナトスは再度、モトと連絡を取ろうと試みた。
“モト! どんな子守唄だ! それを唄えば、本当にヤツを倒せるのだな!?”
たが、応答はない。
“聞こえんのか、くそっ!”
悪態をついて呼びかけを打ち切り、しなやかに龍の攻撃をかいくぐり続けている豹の上で、タナトスは伸び上がった。
彼の視線の遥か先で、龍にくわえられているサマエルは、顔を歪めて苦しげにあえぎ、身悶えていた。
しっかりと胸に抱きしめた黒髪の少年に、時折、何事かささやく。
唇の動きで、『もう少しだ、あと少しで終わる。この苦しみさえ乗り越えれば、私達は救われるのだ』などと話しているのが分かり、タナトスは、険しい表情になった。
「ちっ、何が『救われる』だ、たわけめ!
苦痛を受けるのが快感だと……どこがだ。
どう見ても、あいつは苦悶しているようにしか見えんわ!」
タナトスは忌々しげに吐き捨て、またも先祖に呼びかけた。
“モト、モト! 答えろ! 聞こえんのか、どうしたのだ!”
いくら呼んでも、やはり応えはない。
おそらく、完全にサマエルと融合してしまったのだろうと思われた。
(……む、たしか、同化してしまえば、『モト』という人格は消えてしまう……そう言っていたな)
タナトスはつぶやき、先祖との通信に見切りをつけて、黒豹に声をかけた。
「まあいい、カーラ、ガキどもを拾いに行くぞ!
──ムーヴ!」
倒れているシュネ達のそばに到着し、化身の背中から滑り降りたタナトスは、通常の結界を張ることにした。
「──セーブル・ヴェイル!」
特殊結界は、もう役には立たない。
どうせサマエルは、今のままでも、火閃銀龍の滅茶苦茶な攻撃で傷つく。
普通の結界で光線を跳ね返しても、その傷つき具合に大差はないだろうと、判断したのだ。
彼が結界を張っている間に、“黯黒の眸”の化身は、素早くシュネ達の容態を診た。
「……ふむ。幸い、命に関わるほど酷くはやられておらぬ」
龍が的を定めずに光線を乱射していたお陰で、一旦気絶した後、二人にはそれ以上の攻撃が当たっていないようだった。
安堵したカーラは、彼らに回復呪文をかけた。
「──フィックス!」
「あ、痛ててて……」
「う~ん……あたし……?」
すぐさま効果は現れて、彼らは起き上がった。
「おい、貴様ら。子守唄を歌え。
よくは分からんが、子守唄があの龍の弱点らしい。モトがそう言っていた」
目覚めた途端、思ってみないことを命じられたリオンは、話がよく呑み込めず、ぽかんとタナトスを見返す。
「え、えっ、子守唄、って……?」
「ど、どんなのでも、いいんですか?
……っていうか、ホ、ホントに、子守唄なんかが……こ、これの弱点なの?」
シュネは、目の前にそびえ立つ巨大な龍を見上げた。
タナトスは、渋い顔で腕組みをした。
「それが、よく分からんのだ。
モトは、サマエルとの同化を果たしたようで、詳しくは聞けずじまいだった。
……どの道、俺は子守唄など覚えておらん。
幼い頃に聞いたかも知れんが、母が亡くなったのは、もう二万年以上も前だからな」
「子守唄……どんなだったかなぁ。
ぼくも、小さい頃に母を亡くしてますから……」
ようやく彼の話を理解したリオンは、小首をかしげた。
「待って。あたし、覚えてるかも。
最近記憶が戻ったから、子供の頃のことも、きっと思い出せてるはずです」
シュネが勢い込んで言った。
「ふん、ならば歌ってみろ」
タナトスは横柄に答える。
「は、はい。ええと……出だしは……」
可能だとは言ったものの、シュネは、なかなか思い出すことができなかった。
何しろ、今のこの状況と、子守唄……この二つほど、そぐわない組み合わせもないと言ってもよかったのだから。
結界のすぐ外は巨大な龍が暴れ狂って、まるで戦場のような惨状を呈しており、いくら眼を閉じ、耳をふさいでも、閃光は
そんな中にあって、幼子の心を
「ふむ……この有様では、童子も意識の集中が難しかろう。
サタナエル、ここを
カーラが提案する。
「ふん、うるさいことは確かだな」
タナトスは、ぱちりと指を鳴らす。
刹那、結界内は闇に閉ざされ、音もぴたりとやんだ。
「えっ?」
いきなり静かになったことに気づいて眼を開けたシュネは、暗闇でも皆の姿が見えることに、さらに驚いた。
「み、見える……な、なんで……!? こ、こんな真っ暗なのに……!?」
「キミが、サマエルの子孫だからさ」
リオンが言い、タナトスが続ける。
「魔族は夜行性だ。闇夜に行動できんと不便だからな。
それより、子守唄は思い出せたのか?」
「あ、いえ、まだです、え、ええっと……」
慌ててシュネは、記憶を
最近記憶を取り戻した彼女にとっては、まるで昨日のような、過去。
思い返すことが辛くないと言えば嘘になるが、今はそんなことを気にかけている余裕はなかった。
「子守唄……お母さんの……いつ聞いたっけ……ええと……」
ぶつぶつつぶやくうち、徐々にシュネの体が半透明になっていく。
「シュネ!?」
リオンは思わず、彼女の腕をつかむ。
途端に、二人の姿はかき消えた。
「む、どうしたのだ、あやつらは!?」
慌てて辺りを見回すタナトスを制するように、黒豹が言った。
「夢飛行だな。目的の物を見つけたなら、いずれ戻るであろうよ」
「こんなときにか!」
「それが最も早く、確実な方法と思えるが」
「……ふむ、そうかも知れんな」
タナトスは闇の中で肩をすくめ、再び指を鳴らす。
またもや
シュネ自身は、何をしたのか、まったく分かっていなかった。
夢飛行の存在を知らず、また、自分にそんなことが可能だとも思っていなかったのだ。
「あ、あれ……ここ、どこ? 皆は……?」
驚いて周囲を見回す彼女が立っていたのは、見覚えのある部屋だった。
揺りかごに赤ん坊が寝かされ、そばに母親らしき女性が座って、あやしている。
「お、お母さんだ……お母さん!」
思わずシュネは、状況も忘れて抱きつこうとしたが、体は母親をすり抜けてしまう。
「あれっ、ど、どうなってるの?
ね、ねえ、お母さん! あたし、シュ……ううん、ベリルよ!
ほら、こっちを見て、ねえ!」
その上、何度声をかけても聞こえている様子がなく、母親の前に手を出してみても、まったく見えていないようだった。
ようやく彼女は、どうしてこうなったのか分からないものの、自分が過去の記憶に紛れ込んでしまったらしいと気づいた。
「そっか……お母さんはもう、死んじゃってるんだもんね。
それにあたしは、子守唄を捜しに来ただけし……」
彼女は悲しげにつぶやき、母親を見つめた。
そして、この母が、記憶にある、死ぬ間際の母よりも若いことに気づいた。
「え、じゃ……ひょっとして、こ、この赤ちゃん、あ、あたしなんじゃ!?」
急いで揺りかごを覗き込む。
次の瞬間、シュネは、過去の自分と眼を合わせていた。
「きゃっきゃっ」
赤ん坊は、うれしそうな笑い声を立てた。
「え……もしかして、あたしが見えてる?」
ためしに手を振ってみると、赤ん坊は満面の笑顔で、小さな拳を振り返して来る。
「ばぶばぶばぶ!」
そのはしゃぐ様子は、未来から来た自分自身を、歓迎しているかのようだった。
「あらあら、どうしたの、ご機嫌ねー。でももう、ねんねの時間よ」
そんなこととは知らない母親は、優しく赤ん坊をあやし、子守唄を歌い始めた。
「あ、覚えてる……この、唄……」
シュネは眼をつぶり、耳を澄ませた。
心に染み入るような母の歌声、決して戻っては来ない、遠い過去……。
固く閉じたシュネの目蓋から、抑えようもなく涙が流れ落ちる。
しばらくの間、子守唄に聞き入っていた彼女は、歌声がやんだことで眼を開けた。
育児疲れからか、母は揺りかごにもたれかかり、寝入ってしまっていた。
涙をぬぐい、そばにあった毛布をかけてあげようとしても、指がすり抜けてしまい、持ち上げることもできない。
「ああ……お母さん、ご免なさい……!
あたしに優しくしないで、あやしたりしないで、お母さん……だってあたし、あたし……大きくなったら、お母さんを殺しちゃうんだよ……!」
彼女が顔を覆った、そのとき。
扉が静かに開き、滑るように部屋の中に入って来る姿があった。
「サ、サマエル様……あ、ち、違うわ、この人は……!」
シュネは思わず息を呑む。
優しい緑の瞳、長い銀髪を後ろで束ね、いつも笑みを絶やさず、魔法に
その人物は、シュネに眼を留めると、はっと息を呑んだ。
「あんたは誰じゃ? いつの間に部屋の中に?」
母には見えなかった自分の姿が、この人物には見えている。
我知らず、シュネは訊き返していた。
「お、お祖父ちゃん、あたしが見えるの!?」
「お祖父ちゃん、じゃと!? ……ということは、まさか……!?」
シュネの祖父は、揺りかごの中を急ぎ確認し、それから再び、彼女に視線を戻す。
だが、その眉は、不審そうにひそめられていた。
「髪も眼の色も、この子とは違うようじゃが……」
「でも、あたしはベリルなのよ、お祖父ちゃん。
信じられないかもしれないけど、大きくなると、こんな風に変わってしまうの……」
シュネは、自分の胸に手を当て訴える。
その緑の瞳からは、またも涙が流れ始めていた。