10.龍の邂逅 (4)
「そんなに生まれて来たいの?
キミ達、幸せなんだねぇ、消えたくないなんて……。
お母さんにお父さん、兄弟や友達もいて、楽しく暮らしてて……だから、そんな風に思えるんだろう。
……いいなぁ……」
サマエルは眼をうるませ、心底うらやましそうにリオンとシュネを見た。
話もよく飲み込めぬまま連れて来られて、いきなり予想もしない出来事の連続、さらには、サマエルまでが子供になってしまった。
そのことでシュネは混乱し、先祖をまじまじと凝視したまま、声も出ない。
リオンも、子供姿のサマエルを、あっけにとられて見つめていた。
一年ほどサマエルと生活を共にしていたシュネとは違い、彼は、この先祖の経歴についてはあまり多くを知らなかったが、家庭の温かさを知らずに育って来たのだろうということは想像がついた。
記憶までもが退行してしまった先祖を痛ましく思いつつ、話を続けるためにも、自分達のことを説明しておこうと彼は考えた。
「えっと……ぼくもシュネも親や兄弟はいないんですよ、小さい頃に死んじゃって。
特に、ぼくは、母さんが死んでからずっと一人でいたから、友達もいないし。
たしかに辛いこともたくさんあって、幸せとは言えないかも知れないけど、やっぱり、消えちゃうのは嫌かな。
いつかは絶対幸せになるんだ、そのために生きてるんだって思ってるから。
自分で未来は変えられるはずなんだ、そう思わない?」
いつしか、リオンは、小さな子供に言い聞かせるような口調になっていた。
「そっか、キミには希望があるんだね、それもうらやましいよ。僕には、何もないんだもの……。
でも、嫌なのに、消えちゃうのは可哀想だね……どうすればいいのかな……」
幼い頃から、自分より他人を優先して考える子供だったサマエルは、小首をかしげて考え込んだ。
「あ、あのぉ、サマエル様……?」
ようやく我に返り、話しかけようとするシュネに、リオンは念話を送った。
“ちょっと待って、シュネ。まず、彼の考えを聞いてみようよ。
子供に戻ってるんだし、大人のときと違う考え方をするかも知れない。
それを聞いてみてから、また話をしよう”
“あ、それはいいかもね”
“ふん……無駄なことだとは思うが、待ってやるか”
タナトスも同意し、貴石の化身達は、黙っていることで賛意を示した。
火閃銀龍も、時間をかけることについて、取り立てて異議は唱えなかった。
ややあって銀髪の少年は、ぱっと顔を輝かせると一人うなずき、口を開いた。
「それじゃ、キミ達を、兄様の子供に生まれ変わらせてもらおう!
兄様はホントは優しいんだよ、怖いときもあるけど。
お父さんが本当に王様の、王子と王女に生まれたら、絶対幸せになれるよ!
ね! これならいいでしょ!」
「ええっ、あたしが王女!?」
「何、俺の子だと!?」
意外な答えに、シュネだけではなく、タナトスも面食らった。
「そ、そうじゃなくてね、ええと、何て言えばいいんだろ、その……」
無邪気な先祖に何と答えればいいのか、リオンは困惑して口ごもった。
シンハが、一声高く
皆の視線が自分に集中していることにも気づかない風で、苛立ちが頂点に達した黄金のライオンは、足を踏み鳴らした。
『ルキフェルよ!
汝がおらねば、我らは
「大っきいにゃんこ……」
サマエルは、真実幼かった頃と同じ呼び方で彼を呼び、その眼はみるみる涙で一杯になっていく。
『……!』
シンハは思わずびくりとし、動きを止めた。
「お前は僕のことなんか、好きじゃないんだろう?
僕が何度も、一生懸命お願いしても、朝まで一緒にいてくれたことなんかないし、噛みついたりもするしさ……」
『ルキフェル、それは……』
弁解しようとするライオンの鼻面を、銀髪の少年は、小さな掌を広げて押しやり、首を振った。
「いいよ、もう、何も聞きたくない。僕は絶対、王様にはなれないんだから。
お前だって、こんな泣き虫の僕なんかより、強い兄様の方を選びたいんだよね?
分かってる、皆、僕が嫌いで、生まれて来なきゃよかったのにって思ってるんだ。僕、知ってるよ。
だから、もう終わりにしたいのに、そのつもりだったのに、なんで邪魔するのさ……?」
現実世界では禁じられた涙が、紅い瞳から再び、
それはまるで、紅龍……カオスの貴公子になって以来、溜め込んで来た膨大な量を一気に放出したかのようだった。
流れ落ちる涙は、龍の頭部を構成する鉱物に含まれた宝石の表面を洗い清め、時折、ちかりと光らせる。
それだけの勢いで泣いているのに、サマエルは声も立てなかった。
涙だけが静かに火閃銀龍に滴り、染み込んでゆく。
時が逆行してしまった伴侶を前にしたシンハは、痛ましい顔で、返すべき言葉さえ見失っていた。
それは、残りの者達にとっても同じことで。
さすがのタナトスも、もはや、この哀れな弟を怒鳴りつけたり、殴ったりする気にはなれなかった。
気まずい沈黙の中、再びシンハの体が紅く輝き始めた。
またもはっとする皆の前で、ライオンは黒髪の少年へと変化を遂げた。
年は人間の十五歳くらい、浅黒い肌をし、シルクの白い襟つきシャツと、黒ベルベットのベスト、同素材の、裾が絞られた七分丈のズボンを身につけ、白ハイソックスと羊革製の黒靴を履いている。
突如現れた見知らぬ美少年に、リオンとシュネは揃って息を呑んだ。
「キミは誰……?」
「だ、誰なの、キミ……?」
「何だ、貴様は!?」
タナトスも、当惑して指を突きつける。
この化身のことが、すぐ分からなかったのも無理はない。
タナトスはたった一度会ったきり、しかも、その後、サマエルによって救われた化身は、以前とは別人のようになっていたのだから。
ゼーンは周囲の驚きには構わず、涙ながらに訴えた。
「サマエル様! それでは、僕はどうなるのですか!?
あなたが解放して下さらなければ、僕はあの惨めな姿のまま、果てしなく続く苦痛を受けなくてはなりません……!
僕は、あなたなしには救われない……ああ、どうか、どうか、僕を見捨てないで下さい!」
彼の頬を滴り落ち、床に転がる貴石……それは、かつて盲目だったときの
少年のサマエルは、初め、ただ呆然として、“焔の眸”の化身と彼が生み出す紅い輝きを見ているだけだった。
「サマエル様、お願いです、僕を忘れないで! 思い出して下さい!」
しかし、ゼーンの浅黒い手が肩に触れると、全身に戦慄が走り抜け、サマエルは頭を抱えた。
「ううっ、あああっ!」
叫びと共に、体が紫の光に包まれる。
次の瞬間、大人に戻ったサマエルは、両腕を大きく開いた。
「では、おいで、ゼーン! 私と共に!」
「──はい!」
ゼーンは何のためらいもなく、彼の胸に飛び込んでいく。
「火閃銀龍、上げてくれ! そして、すべてを私の望み通りに!」
“
サマエルの合図を待ちかねていた火閃銀龍は即答し、紅い首が勢いよく上空へと持ち上げられていった。
「待て、火閃銀龍! 話はまだ終わっておらんぞ、サマエルを戻せ!」
拳を振り上げて叫ぶタナトスを無視し、火閃銀龍の三つ首は巨大な口を開け、
「……くっ!」
彼は“黯黒の眸”をかばいながら、第一波をかろうじて避けた。
「ああっ!」
「うわっ!」
だが、不意を突かれたシュネとリオンは、相次いで直撃を受けてしまった。
「カーラ、二人を頼む!
──ネガー・スクータム!」
気を失った彼らを、黒豹は大急ぎで引き寄せ、直後、タナトスは、再び特殊結界を張った。
「サマエルのたわけめが、“焔の眸”を手に入れた途端に豹変しおって!
くそっ、どうしたら……」
歯噛みするタナトスの頭上では、結界にせき止められた火閃銀龍の光線が、色とりどりに眩い輝きを放っていた。
光線が表面で弾けるたびに圧力が加わり、結界は、みしみしときしみながら、エネルギーを吸収し続ける。
それに伴い、タナトスの頭の痛みも、加速度的に強さを増していく。
このままでは、いずれ意識を失い、サマエルの精神世界から放り出されてしまうだろう。
そして、気がついたときには、すべてが終わっているに違いない。
弟は火閃銀龍に飲み込まれて消滅し、生まれて来なかったことになってしまうのだ……。
「くそう、いくら忌まわしい過去とはいえ、白紙に戻して、何もなかったことにしていいのか、サマエル!
俺は嫌だ! 覚えていたい、貴様のことを! 忘れたくなど、ないのだ!」
届かないと知りながら、タナトスは遥か頭上にいる弟に手を差し伸べていた。
その、とき。
“……サ、タナエル、よ……”
かすかな思念が、彼の脳内に届いた。
「だ、誰だ?」
“わたし、だ……モト、だ……よ”
“モト!? 貴様、どこにいる!? サマエルとの合体に失敗しおって!”
タナトスは頭を押さえながら、念を送り返した。
“いや、わたしは、すでに……ルキフェル……と、一体化し……彼の中にいる……。
だが、火閃、銀龍の、力が……強、過ぎて……。
り、龍が……彼の、悲しみ、と、狂気を、
火閃銀龍に阻まれているのだろう、モトの念話は途切れがちで、激しい頭痛に襲われているタナトスには、聞き取るのが難しかった。
“こいつが煽っているだと!? 何とかならんのか!”
片手を頭から離し、タナトスは、火閃銀龍に向かって指を振り立てた。
“内部、からは……どうしようも、ない……だが、銀龍の、弱点と……言えるか、どうか……一つ、見つけた……”
“弱点だ!? 何でもいい、教えろ!”
“こ、この状態は、長く保てない……も、もう……意識が……”
“しっかりしろ、モト! 貴様が意識を失ったら、サマエルはもう仕舞いだぞ!”
タナトスは叫ぶ。だが、モトの声はそこで途切れてしまった。
“──起きろ、モト! 意識を保て! 弱点を教えろ!”
焦った彼が、心の声を最大にして呼びかけると、ようやく、かすかな返答が戻って来た。
“こ、子守、唄だ……それ、を……それが、龍、を……”
“子守唄がどうした、モト!?”
彼は尋ね返したが、先祖の思念はもう消えてしまっていた。
「……子守唄だと? そんなもの、俺は知らんぞ。
それに、唄ごときで、本当にこいつを倒せるのか、こんなデカブツを……」
タナトスが、巨大な龍を振り仰いだ刹那だった。
「うわああっ!」
すさまじい衝撃が、彼の全身を貫いたのは。
光線の効果がないことに
魔力ならどれほど強くとも、一時にせよ無効化できる特殊結界も、物理的な力の行使には無力だった。
結界はガラスのようにもろくも砕け散り、最初の打撃により半ば失神状態に陥っていたタナトスは、激しく下にたたきつけられた。