10.龍の邂逅 (3)
『ルキフェル!』
「ああ、シンハ……!」
飛び立つような勢いで駆け寄って来た黄金のライオンを、サマエルは思い切り抱きしめた。
『戻って参れ、現実世界へ。我が許へ』
願いを込め、シンハもまた彼にしがみつく。
サマエルは身を固くし、それから、ささやくように答えた。
「それは出来ない。私はもう、選んでしまった……自己の消滅を……おのれの死を……」
『何ゆえ? かようにして我を
シンハの悲しげな問いかけに、暗い眼差しでサマエルは答える。
「私は……安息を得ることは許されないのか……お前達は、それほど私が憎いのか……?」
『まさか、左様なことはない』
「私はただ、自由になりたいだけなのに。
死ぬことが唯一、私にとっての救いなのだから……」
「死んじゃ駄目だよ、お父さん!」
「死んじゃわないで、サマエル様!」
シンハの後ろにいた、リオンとシュネが同時に叫ぶ。
「どけ、俺に話をさせろ、貴様らでは
タナトスが話に割り込み、皆を押しのける。
ライオンは仕方なく場所を譲り、夫から離れた。
サマエルは、兄に虚ろな視線を送った。
「お前が何を言おうと無駄だよ、タナトス。
皆が口をそろえて言う、『幸せになれ』と。
そこで、私は考えてみたのだよ、一番の幸福とは何かを……。
考えに考え抜いて、たどり着いた結論は……死ぬこと、だった。
「分かるか、そんなもの!」
しかし、それが耳に入った様子もなく、サマエルは続けた。
「見ての通り、私は、火閃銀龍に飲み込まれつつある……こうして、くわえ込まれた部分から少しずつ溶かされ、吸収されていっているのだ。
この状態は、とても苦しい……例えるなら、大きな岩に体を挟まれ、さらに、重しを加えられて、じりじりと潰されていくような感覚、とでも言えばいいか……。
だが、一方で、とても気持ちがいいのだよ……」
第二王子は、脂汗をにじませつつも、微笑んだ。
「……苦しいのに気持ちがいい? 何だそれは?」
タナトスは眉を寄せた。
「徐々に“私”が消えていく……さながら、かつての私……ごく幼かった頃の、自分の意思すべてが黙殺されていた頃と同じ……とても痛くて、悲しくて、苦しくて、それでいて……その状態が心地よくなり、もっと続けて欲しいと願うようになっていき……。
もうすぐ、火閃銀龍は、私の鼻や口を覆う……すべて飲み込まれるその前に、息が詰まるだろうね……そして、私は、空気を求めてもがき、苦しむ……龍の口の中をかきむしって爪が剥がれ、血だらけになり、それでも、龍は私を解放することはないだろう……。
やがて、私は気が遠くなり、視界は暗くなって、死という名の、永遠の安息が訪れる……。
それを考えるとね、今まで感じた、どんな快楽よりも上を行くような気がして、今から楽しみなのだよ……」
話し続けるにつれ、サマエルは
「貴様、苦しみもがきながらの死が、楽しみだと……!?」
タナトスは、歯を食いしばった。
そんな病的な考えは、完全に彼の思考の外だった。
このまま正気を失うかと思えたサマエルは、いきなり真っ直ぐに彼を見た。
「……こんな風に、私の心は壊れている。
私はもはや、苦痛を与え続けられなければ、生きてはいけない体なのだ。
こんな私を生き長らえさせたところで、無意味だ……私を生かしておくには、常に拷問にかけ続ける必要があるのだからね。
ふふ……タナトス。お前にそれが出来るのかい……?」
サマエルは、兄の頬に手を当てた。
「くっ……!」
その冷たさだけでなく、自分を見る弟の目つきの異常さに、思わずタナトスは身震いする。
「ねえ、お優しいお兄様? 心を入れ替えたから、私に優しくする、だって?
白々しい……何を今さら!
今頃になってそんなことを言い出すのなら、なぜ、私が完全に壊れてしまう前に、助けてくれなかった?」
そこまで言うとサマエルは、両の拳を握り締め、兄の肩をたたき始めた。
「どうして、どうしてだ! 今になって、今になって、今になって!
私が、こんなに、取り返しがつかなくなるまで壊れてしまった後で、何ゆえ、救おうなどとっ!」
語気の荒さとは裏腹に、拳にはさほど力は入っておらず、本気でたたいているとは思えない。
それでも、この弟が、怒りを
しばしの後、やっと気が済んだのか、サマエルは手を止めた。
うつむくその顔は、タナトスには見えなかったが、肩に押し付けられた弟の拳はかすかに震え、懸命に涙をこらえているように思えた。
「……サマエル。
たしかに俺は昔、弟のお前に、
だからといって、間違いを正すのに遅過ぎるということもないだろう。
二度とは言わん、よっく聞け。
俺は……今頃になって気づいたのだ……お前を愛していると言うことにな。
それに気づくのが遅過ぎて……お前をこんなにしてしまった……それは、すべてではないにしろ、俺の責任でもある。
……それゆえ、俺は、償いをしようと思う、お前に魔界王の位を譲ろう。
俺は王になど向いてはおらんし、“黯黒の眸”さえそばにおればそれでいいからな!」
言うなりタナトスは、弟の顔を強引に上げさせ、口づけた。
「……!?」
サマエルは眼を見開き、体を硬直させたがそれも一瞬で、すぐに兄の体にむしゃぶりついた。
その体が紫に輝く。
「何だ!?」
驚いたタナトスが唇を離すと、サマエルは子供……人族で言うと七、八歳くらいの少年の姿へと変わっていた。
「き、貴様!?」
面食らうタナトスに向けて、少年のサマエルは紅い眼をうるませ、悲痛な声を上げた。
「兄様、ご免なさい!
もし兄様が、本気でそう言ってくれてるんだとしても、僕、王様にはなれない!
だって、僕は、ベルゼブル陛下の血は、引いてないんだから!
あいつが言ったんだよ、本当の父親は陛下じゃなく、自分なんだって!」
タナトスは眼を剥き、吼えた。
「何ぃ、貴様の本当の父親だと!? 誰だそれは!?」
その剣幕に怯えたサマエルは、震えながら首を横に振った。
「わ、分かんない……んだ。僕……忘れちゃった、から……」
「忘れただと!? そんなわけがあるか!」
「誰かが言ったんだ……悪い夢だから、忘れなさいって……。
だから、僕、忘れてたんだけど、少しずつ思い出して……」
「シンハ、貴様が忘れさせたのか!?」
血相を変えたタナトスに詰め寄られたライオンは、頭を左右に振った。
『我は知らぬ。……汝に心当たりはあるか、“黯黒の眸”』
シンハは兄弟に尋ねてみた。
「否。テネブレの仕業ではない」
“黯黒の眸”の化身もまた、関与を否定した。
「くそ、では、どこのどいつだ!? それに、こいつの、真の父親……!?」
戸惑う彼らを尻目に、サマエルは話し続けた。
「でね、僕、やっと分かったんだ……陛下が、僕の眼を見て下さらなかったわけ……。
母様が死んじゃったのは、僕のせいで、その僕は、あの方の子供じゃない……。
ずっと忘れてたかったのに、思い出しちゃって……僕、もう、消えてしまいたいって思った……。
だから、兄様に殺してもらおうと思ったのに、それもうまくいかなくて……」
タナトスは、眼をカッと見開いた。
「貴様、それであんなことを……!?」
「……ご免なさい。兄様を怒らせたら、全部、終わりに出来るって思ったの……」
サマエルは鼻をすすった。
「この、たわけ!」
子供の姿の弟を怒鳴りつけ、拳を振り上げたところで、タナトスは動作を止めた。
彼の行動に反応した火閃銀龍の三つの首が近づき、牙を剥いて威嚇したのだ。
「ご免なさい、ご免なさい……っ!」
幼いサマエルの紅い眼から、現実世界では決して流すことの出来ない涙があふれ出て、頬を濡らし、彼を捕らえている龍の頭にこぼれ落ちてゆく。
『もうよい、ルキフェル。サタナエルも、心底では汝を許しておるゆえ』
黄金のライオンは、泣きじゃくる少年の頬をなめた。
「──ち。それで今度は、火閃銀龍を呼び出しおったというわけか。
まったく面倒なことを……!」
拳を下ろし、タナトスは天を仰いだ。
彼らの眼前には、巨大な壁のごとく、伝説の龍が立ちはだかっていた。
三つ首は、皆からやや離れたところで、くねりながら監視を続けている。
『して、ルキフェルよ。汝はいかにして、
何者も知らぬはずの召喚の呪文を、いかにして汝は知ったのであろうな?』
優しくシンハは尋ねた。
この第二王子が本当に幼かった頃、話しかけていたときのように。
すると、ようやくサマエルは泣きやみ、
「……ううん、僕が呼んだんじゃないの。
僕が泣いてたら、急にこの龍が現れて、びっくりしてる僕に言ったんだ。
そんなに消えたいなら、お前を食べてやろう、って。
お前を食べたら、この夢の中から出ることが出来る……命をもらう代わりに、お前の望みを一つだけ叶えてやる、って……」
「……まったく。
こいつときたら、今もってこの通り、ガキの精神のまま、マイナス思考の塊だからな。
火閃銀龍も、それに吸い寄せられたのだろう」
タナトスは、あきれたように肩をすくめる。
黄金のライオンは、それを否定するように大きく体を揺すった。
『ルキフェル一人の力に、ではなかろう。紅龍……混沌の力に惹きつけられたのやも知れぬ』
「まあいい。それからどうしたのだ、サマエル?」
幾分語気を和らげ、タナトスは続きを促す。
「それで……僕、大昔に戻って、攻めてくる前に神族を滅ぼして来てって、お願いしたの。
でも、火閃銀龍は、今の僕に、直接関係あることじゃなきゃ駄目だって……。
だから、僕が生まれて来なかったことにして、って頼んだの。
そしたら、母様も死なずに済むし、兄様もベルゼブル陛下も……皆、幸せでいられるでしょう?」
銀髪の少年は、泣きはらした眼でにっこりした。
「そ、そんな! あなたがいなくなったら、ぼくとシュネも生まれて来れないよ!」
思わずリオンが叫ぶと、少年のサマエルは眼を丸くした。
「え、キミは誰?」
「お父さん、ぼくが分からないの!?」
「お、お父さん……!?」
きょとんとして、サマエルは彼を見返す。
『リオンよ、見ての通り、ルキフェルは、幼少期に退行致してしまっておるゆえ、汝らに関する記憶はないのだ』
そう言うと、シンハはリオン達を指し示した。
『ルキフェル。このリオンと、隣におるシュネは、汝と人族の娘との子孫だ。
汝が存在せぬとなれば、彼らもまた消滅致し、この世に生まれ
めっきゃく【滅却】
ほろびること。すっかりなくなること。また、ほろぼすこと。すっかりなくすこと。