9.龍の目覚め(4)
“だ、大丈夫だ、カーラ、シンハ。大した、ことは、ない。
前の、経験のお陰で、耐性でも、出来たのだろう、さ……”
平然を装おうとしても、息苦しさと胸の痛みに襲われているタナトスの呼吸は、どうしても荒くなっていく。
それでも、今感じている苦痛は、以前、カオスの力を受け入れたときの、
主が無事と見極めがつくと、カーラはさっとモトに向き直り、牙を剥き出し、体中の毛を逆立てた。
テネブレとは一味違った、紫のオーラが全身から立ち昇り、眼全体を黄金の
“モト! おぬし何ゆえ、かようなことを致した!”
すると、モトは、さっと片ひざをつき、王に対する正式な礼をした。
あたかも、サマエルが、兄に対してするように。
さらに、そういう態度を取るときサマエルが使う口調そっくりに、彼は話し始めた。
“お願い致します、現魔界王、サタナエル。
どうぞ、ロムルスとレムスを受け入れてやって下さい。
アナテは、女神の座から降りる気はないように思われます……そうなれば、息子達は、幾度生まれ変わっても、母親に会うことはできません。
あなたの中にいれば、彼らの淋しさも、少しの間は紛れるでしょう……。
わたしは、あなたの仰る通り、自分の
罪悪感も消えた今のわたしなら、おそらく、ルキフェルと一緒になれると思われますから”
“貴様……! そ、そういうことは、前もって言え、不意打ちとは、卑怯だろうが……!”
顔を歪め、脂汗を流しながら、タナトスは抗議した。
“お返しですよ。先に仕掛けていらしたのは、そちらの方ですからね”
モトはにっこりした。
“ちっ……!
その後、貴様は俺に抱かれるのを望み、俺も可愛がってやったではないか!”
言い返したものの、相手の笑みの中に怒りが隠されていることに、気づかないほどタナトスは鈍くはなかった。
モトは、かつてフェレス族の長であり、今は女神となったアナテの、息子にして配偶者である。
そして、タナトスは、アナテの生まれ変わりだった。
だが、いくら前世で愛し合っていた仲とはいえ、性格も弟そっくりと思われる先祖のこと、子孫にとっては愛情表現だと言われても、受けた屈辱を、そう簡単に水に流すとも思えなかった。
元々感情のままに行動することが多かった彼も、王となってからはそれを極力抑えて来たのだが、本気の弟を抱いて以降、欲情の抑制がひどく困難となっていたのだ。
仕方なく、彼は再度謝った。
“いや、弁解はよそう、たしかに、あれは俺が悪かった、済まなかったな”
モトは、
“いえ、わたしも……何というか、慣れておりませんでしたのでね”
(……くそ、俺が理性的に振舞うことができんのは、やはり
そう考えれば、
タナトスは唇を噛み、改めてモトに尋ねた。
“今さらだが、
いや、真実だと、仮定してもだ、お前が言うように、前世の者……アナテと、俺が、魂を分かち合う……などといったことが、本当に、可能なのか……?
あるいは、他人の魂を……しかも、二人も、受け入れることなど、出来る、のか……?
貴様はただ、仕返しのために……俺を苦しめる目的で……ロムルスとレムスとやらを、俺の中に、入れたのでは、ないのか……?”
息をするにも苦しく、タナトスは喉に手を当て、途切れ途切れに念話を送った。
すぐさまモトは、首を左右に振った。
“まさか、そんなことはありませんよ、第一、それでは、大事な息子達も不幸になってしまいますからね。
最初の予言で、あなたは紅龍を食らい、『火閃銀龍』になるはずだった……それほどに大きな
予想通り、あなたは二つもの魂を体内に入れても、未だ意識を保っておられる……普通の場合、自分自身の魂が戻っただけでも、一時的に失神すると思われるのですが。
あんな風に”
モトは、すぐそばに横たわるシュネとリオンを指差す。
隠形の術から出てしまわないようにと、タナトスが二人を連れて来ていたのだった。
そのときシンハが、ぶるんと体を揺すり、話に加わってきた。
“ふむ。それを考えれば、たしかにサタナエルは、他人の
されど、モトよ。
今ならば、ルキフェルと一体化できる可能性は高いであろうが、万が一、しくじるようなことがあれば……”
その言葉が終わらぬうちに、モトはライオンの首に抱きついた。
“ありがとう、シンハ。でも、心配はいらないよ。
万一失敗しても、もうわたしに苦しみはない、また次の機会を気長に待つさ。
それに、二度と生まれ変われなくとも、別に構わない……淋しくもないよ、また、子供達の誰かが戻って来るかも知れないしね”
その頃になって、カーラは、ようやくモトに害意がないと判断して威嚇の構えを解き、振り返って主の顔を覗き込んだ。
“大事無いか、サタナエルよ”
“……ふ、案ずるな、カーラ。この程度の、こと、どうということも、ない……心配、いらん”
本当のところ、意識を保つのもやっとだったのだが、タナトスは虚勢を張り、無理に笑顔を作ってみせた。
“されど、かように汗が……生き物が発汗するのは、
カーラは、なおも心配そうに彼の臭いを嗅ぎ、こめかみ辺りから流れ落ちる塩辛い汗を、紅い舌でなめ取る。
“いや、俺は、病気ではないのだ。
この苦痛は……おそらく、魂が、俺に同化し、落ち着き所を見つけるまで、少々……その、暴れている、といったところだろう、やんちゃそうな、ガキどもだったからな。
こら、大人しくしろ、ロムルス、レムス!
……そう、そうだ、いいぞ……”
タナトスは、大きく息をつく。
双子達が彼の内部で居場所を見つけたらしく、ちょうどそのとき、潮が引くように苦痛が治まったのだ。
彼らがタナトスとの同化を完了すると同時に、シュネとリオンが正気づき、眼を開ける。
“うーん”
“あれ……?”
“気づいたね、お前達。これで三人共、龍への変化が可能になっているはずだ。
あとは、わたしが、ルキフェルの中に入ることが出来さえすれば、四頭の龍が揃い、火閃銀龍にも対抗出来ることだろう……”
そう話すモトは、どこか物言いたげな顔でタナトスを見る。
“何だ、まだ文句でもあるのか、モト……!”
苛ついた表情を浮かべるタナトスの声は、刺々しかった。
“いや、文句を言いたいわけでは……その、わたしは……”
モトは眼を伏せた。
ためらう彼と、タナトスにだけ聞こえるように、シンハは念話を送った。
“モトよ。サタナエルはいずれ、弟王子を抱くこともあろう。
首尾よく、汝がルキフェルと同化できた暁には、汝も再び、彼に抱かれることが叶うのだ”
“……い、いや、わ、わたしは、そんな、つもりでは……”
しどろもどろに答えるモトの頬は、真っ赤になっている。
(ちっ、仕返しだのなんだのと言っておきながら、結局は俺の
……まったく。『心』などというものは、しち面倒だな。
“黯黒の眸”が、生き物の複雑な感情を理解出来んのも無理はない……先が思いやられるわ)
タナトスは額に手をやってため息をつき、“焔の眸”の化身と、自分の伴侶とを見比べた。
長期に渡り魔族に仕えてきたシンハと、元は人間だったダイアデムもいるお陰なのだろう、“焔の眸”は、相手の感情を汲み取ることに、さほど不自由はしていない……少なくとも、タナトスにはそう思えた。
それに引き換え、“黯黒の眸”には、生き物の不条理さについて、一から十まで教えてやらなければならないのだ。
だが、現時点でも、子供並の理解力はあるようだし、“焔の眸”という先例もある、忍耐深く教え込んでいけば何とかなるだろうと、タナトスは楽天的に考えることにした。
それにしても、なぜ自分は、ここまでこの宝石に惹かれてしまうのか。
“黯黒の眸”の方も、彼のことを気に入っているようだが。
タナトスは首をひねり、改めて黒豹を観察するも、自分達が惹かれ合う理由は考えつかなかった。
彼は頭を切り替え、先祖に話しかけた。
“ともかく、弟を頼むぞ、モト。
お前と一体になれば、少しは、あの男も前向きになれるだろう”
それを聞いたモトは、悲しげな顔になった。
“確約は出来ないよ。わたしの生まれ変わり……ベリアルとディーネは、二人共、結局は自滅の道を歩んでしまったからね”
“ディーネはともかく、ベリアルは違おうぞ。
シンハが口を挟む。
モトは否定の仕草をした。
“いや、彼も、みずから殺されるように仕向けたのさ……わざと、妃をぞんざいに扱って。
ああ、もちろん、お前のことは愛していたとは思うけれど。
彼らは、みずから選んだのだよ、天寿を
それゆえ、自分を責めることはない、シンハ。
彼らの自滅的性格は、わたしのせいなのだから”
“ならば尚のこと、汝が同化に成功致した
ライオンはさらに尋ねた。
“……そうだとよいのだが、ね。
ともかく、今は力を合わせて、彼を現実世界に連れ帰るのが先決だ……ああ、ベリリアス、シナバリン!”
ちょうどそのとき、シュネとリオンがよろめきながら立ち上がり、モトは二人を抱き締めた。
“必ず幸せになるのだよ。苦労して来た分だけ、お前達には幸福になる権利がある”
“……お父様!”
“父上!”
シュネとリオンもまた、彼に強く抱きつく。
“さ、もうお別れだ”
ややあって、モトは名残惜しげに彼らを放し、タナトスと向かい合った。
“では、わたしは行くよ。
光が満ちあふれたら、ルキフェルが目覚めた証だ。もう隠形の術は必要ない。
堂々と姿を現し、偉大なる龍と対峙するがいい。
さらばだ、サタナエル……アナテの生まれ変わりよ。
子供達は、必ずや、お前達の役に立つことだろう”
モトは素早くタナトスに口づけ、カーラが怒りを
“火閃銀龍を倒すことの出来る者は存在しないと言われているが、お前達なら……。
ここでは、あの龍も、無闇に暴れることは出来ないはず……すべてを吸収する前に、ルキフェルが壊れてしまったら、元も子もないからね。健闘を祈る”
そう言い遺し、先祖は闇の中へと消えていく。
“待て、俺達は、どうやったら龍に変化出来るのだ?”
タナトスの問いかけに、かすかな思念が応えた。
“子供達は、すでに答えを知っている……”
しちめんどう【しち面倒】
「面倒」を強めた語。非常に面倒なさま。