~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

9.龍の目覚め(3)

“こ、こいつらは……”
タナトスは、思わず息を呑む。
ようやく、皆が目の当たりにしたロムルスとレムスの姿は、無残を極めたものだった。
紅龍によってつけられたと(おぼ)しい、(むご)たらしく噛み裂かれた傷は未だに生々しく、まだ血が流れ続けている。
永遠に癒えない龍の爪痕(つめあと)を幼い体に刻みつけた状態で、彼らは、この闇の中を彷徨(さまよ)い続けていたのだろうか……自分達が遥かな昔に、死んでしまっていることにも気づかずに。

シンハは鼻にしわを寄せ、歯を剥き出して、恐ろしい顔つきになる。
見るに耐えないほど痛々しい傷跡のせいで、自身ともう一人の化身、ゼーンの悲惨な体験を思い出したのだ。
“……酷いものよ。何はともあれ、サタナエルよ、()く『黯黒の眸』を呼ぶがいい”
彼は、頭を小刻みに揺すって不快な思いを押しやり、再びタナトスを促した。

“む、いかん、その前に──ストーラ!”
我に返ったタナトスは急ぎ呪文を唱え、自分とモトに服を着せつけてから、伴侶の頭に触れ、声をかけた。
“カーラ、もういい、眼を覚ませ。
そして隠形の術を……いや、術を解かずに、モトだけを外に出せるか?
すぐそこに、モトの息子達が来ているのだが”

“左様。是非共、親子の対面させてやりたく思うのだ。
モトは元来、このカオスの闇に住まう者。
出て行ったとしても、火閃銀龍は、さほど疑念を(いだ)くまい。
もしくは、其処(そこ)な童子らを、中に取り込むがよいか?”
ライオンは、前足で子供達を指し示す。

目覚めたカーラは、彼らの話を反芻(はんすう)する間、幾度か(またた)きをし、それから答えた。
“隠形の術は、単に内部の者の気配を消すのみ。及ぼす範囲も、我が身の(たけ)の二倍ほど。
それより()ずるならば、おのずと、他人(あだびと)の眼に触れることとなる。逆もまた真なり”
“つまるところ、出るも入るも同等に容易ということか、ならば……”

“や、やめてくれ、『眸』達!
息子達はわたしを恨んでいる、憎んでいるのだ、わたしが彼らを殺したのだから……!
どれほど謝罪を繰り返しても、過去は戻らない。
もはや、わたしは、罪を(あがな)うことも出来ないのだ……!”
モトは叫び、頭をかきむしった。

“うるさいぞ、モト、うだうだ言いおって!
貴様が罪を犯したと言うなら、それと向き合え、逃げるな!
逃げれば、いつまでも貴様を追いかけて来るぞ、それこそ、永遠にだ!”
タナトスは眼を怒らせ、先祖を怒鳴りつけた。
“う……し、しかし、わたしは……”
モトの額から、汗が滴り落ちる。

“この、軟弱者めが!”
“うわっ!”
激したタナトスは、拳を振り上げ、モトを殴り倒した。
シンハは、その巨体で前に出、倒れた青年をかばう。
“やめよ、サタナエル。いかに汝が暴力に訴えようとも、他人の心は意のままにはならぬぞ”

“──黙れ! こういう軟弱者は、力尽くで思い知らせてやらねば、分からんのだ!”
再び伸ばされたタナトスの腕を、ライオンは前足で軽く払いのけた。
“やめよと申すに”
“貴様、まだ邪魔するか!”

烈火のごとき魔界の王の怒りを、柳に風と受け流して、シンハはモトを振り返り、重々しい口調で述べた。
“聞くがよい、モトよ。
汝の息子らは、恨みを晴らさんがために、汝を捜しておったのではないように、我には思えるのだがな”

モトは眼を見張る。
“えっ、では、何ゆえ、ああしてわたしを……”
“むしろ、逆に、汝を(した)い、親の温もりを求めて彷徨っておるのではないか?
相手は(いとけ)なき童子、人を恨み憎む心など、持ち合わせておらぬように思えるが”

これほど近くにいるとは知らず、父親を呼び、捜し続けている子供達。
それとも、ここに現れたのは、隠形の術を超え、父親の気配を感じ取ったためだろうか。
痛々しい双子達に向けて、魔界のライオンは、再び前足を振った。
“見よ。かくのごとき風姿を眼前にしても、憐憫(れんびん)の情を(もよお)さぬのか、汝は?
()く、彼らを受け入れてやるがよい、エッセンティア。本質たる者よ”

魔界の王は、さも軽蔑したように鼻を鳴らした。
“ふん、親の温もりだと? 下らんな、そんなもの”
そんな彼を、シンハは燃え上がる瞳で見据えた。
“何を申すか、サタナエル。汝にも覚えがあろうが。(とく)と、幼き頃を想起(そうき)致してみよ”
“貴様こそ何を言う、俺はそんなもの、欲しがったことなど……”
言いかけてタナトスは、思い出した。

母が、弟を産んですぐ亡くなった後。
胸にぽっかりと穴が開いたような淋しさ……一人でいることにいたたまれず、父親や叔母を捜し、汎魔殿中をさ迷い歩いたことを。
そして、二人の会話を……運命の予言を聞いてしまったのだった。

“……むう。
たしかに俺も、母を亡くしたとき、すぐには、サマエルに対する恨みなどは感じなかったな。
あのときは、ただ、親の温もりを求めていただけの気がする……。
今さらだが、あの日、親父が、『予言など信じない』とでも言ってくれたら。
(こん)を持たんという俺でも、同胞の殺戮(さつりく)といった、極端な行動に走ることはなかっただろう。
……サマエルにも、もう少し、優しく接することが出来たかも知れんな”

そう言うと、タナトスも哀れな子供達を指し示した。
“俺の場合はもう手遅れだが、貴様の息子どもは、すぐそこにいる。
貴様が後悔に溺れておれば、こいつらは、いつまでもこんな姿で彷徨うのだぞ、その方が、よほど不憫(ふびん)だとは思わんか、モト。
許す許されるは二の次、おのれの罪と向き合う時が来たのではないのか”

うなだれて話を聞いていたモトは、ようやく意を決し、口を開いた。
“お前の言う通りだな、サタナエル……”
“ふん、やっとその気になったか。さあ、さっさと、ガキどもに頭を下げて来い、たわけめ”
タナトスは乱暴に腕を引き、モトを立たせてやる。

“……ああ……でも、息子達は、わたしを許してはくれないだろう……。
それでも、ちゃんと、彼らの恨みつらみを聞いてやらなければならない……それが、親としての義務だろうからね……”
モトは噛み締めるように答え、ぎくしゃくとした足取りで、子供達の方へと歩き出す。

それを見たタナトスは、ライオンの眼を捉え、闇に向けて(あご)をしゃくって見せた。
シンハは了解の印にうなずき、モトの後についていく。
さらに、タナトスは、まだ意識が戻らないシュネとリオンの体を魔法で持ち上げ、黒豹の頭に触れた。
“俺達も行くぞ、カーラ”
“心得た”

“父様だ!”
“父様ぁ!”
そのとき、少年達が歓喜の声を上げたのが聞こえ、タナトス達が急いでそばまで行ってみると、双子達は父親に抱きつき、キスの雨を降らしていて、モトは、ただ彼らを抱きしめ、涙にくれていた。
少年達の肌の色は、モトと違って褐色ではなく、闇の中に浮き上がって見えるほど白かった。

“父様がいつも泣いてるから、僕ら、心配で……”
“でも、僕らが行くと、父様は余計泣いちゃうし……”
双子達がそう言っている声が聞こえて来る。
“え?”
“だから、父様の気分がよさそうなときに、会いに行こうとしたけど……”
“やっぱり、父様、僕らを見ると逃げちゃうし……”

“済まなかった……わたしは、お前達が、わたしを憎んでいると思っていたから……”
“え? どうして?”
驚いて、双子の一人が顔を上げる。
その眼は、右が緑、左が紫、そして、シンハのたてがみの光を受けて輝く、三つ編みされた髪は銀色をしていた。

モトは、ぎゅっと眼を閉じ、答えた。
“……なぜなら、ロムルス。わたしは、お前達を……殺してしまった、からだよ……”
双子の兄は、首をかしげた。
“え? 違うよ、父様。僕達を殺したのは……”
“うん、父様じゃない。真っ赤で、大きな怪物だったよ”
同じく銀髪で、左右の眼の色は兄と逆になっている、レムスが言葉を継いだ。

モトは眼をつぶったまま、大きく息を吸い込み、意を決したように言った。
“レムス、その紅い怪物こそ、わたしが変身した姿だったのだよ。
お前達を、フェレス族を守るには、『紅龍』になるしかないと……。
なのに、わたしは、カオスの力を制御出来なかった……!
済まない、レムス、済まない、ロムルス……!”

“そ、そんな……違うよ、父様は悪くない、だって……”
“うん、僕らを助けようとしてくれたんだもの!”
レムスとロムルスが、口々に父をかばう。
“しかし、……”
“父様、大好き!”
まだ何か言おうとしたモトに、ロムルスは力を込めて抱きついた。
レムスも、兄の真似をする。
“僕も! ずっとずっと会いたかった!”

息子達に、揃ってそんな風に言われてしまうと、モトにはもう、返す言葉もなかった。
“ロムルス……レムス……ああ!
わたしもだ、わたしも、お前達のことが……忘れたことはなかった、ずっと、ずっと会いたくて、謝りたくて……!”
モトが二人を抱きしめた瞬間、彼らの体がぱあっと輝き、傷が消えた。

“案ずるより産むが安し、とはまさしくこのこと”
シンハは、ゆっくりと首を振る。
タナトスも肩をすくめた。
“まったくだな。貴様、そいつらのどこをどうを見て、憎まれているなどと思い込んだのだ?
さっぱり分からん”

モトは、あふれる涙をそのままに、言った。
“サタナエル、シンハ、それにカーラ……皆、本当に、本当に、ありがとう。
永き年月の末、ようやくわたしは救われた……!
どれほど礼を言っても、言い足りないくらいだ……!”

“俺達は何もしておらん。貴様が勝手に勘違いしていただけだろう”
タナトスはそっけなく答えたものの、まんざらではなさそうだった。
“いかなるときも、親子の情愛とは良きものかな。
これにて、汝の罪悪感も払拭(ふっしょく)されたであろう、モトよ”
シンハも満足げに言う。
“……ふむ。これが親子の情愛、と申すものか”
興味深げに、黒豹は瞳を光らせる。

その後しばらくの間、ひたすら息子達を抱き締めて、涙を流し続けていたモトは、ふと我に返ってタナトスを見た。
そして、二人にだけ聞こえるように言った。
“ロムルス、レムス。ほら、そこの黒髪の男性がサタナエル、母上の生まれ変わりだよ。
中に入ってみるかい、母上がいらっしゃるから”

“え、母様に会えるの!”
“母様に会えるんだぁ!”
双子達は顔を上げ、期待に眼を輝かせて、タナトスを見る。
モトは、さらに続けた。
“彼の内に入る呪文は、『アナムネーシス』だ”

何も知らないタナトス目がけ、双子達は飛びついてゆく。
““──アナムネーシス!””
“な、何だ!? やめろっ!”
驚き、振り払おうとする腕をすり抜けて、子供達は彼の体内に吸い込まれていった。

“ぐっ……!?”
事態を把握できないまま、タナトスは胸を押さえ、ひざをつく。
“我が王!”
“サタナエル!”
“黯黒の眸”と“焔の眸”の化身もまた、何が起こったのか分からず、ただ声を上げてタナトスに駆け寄った。

そこな【其処な】

《「そこなる」の音変化》そこにいる。そこにある。そこの。

あがなう【贖う】

罪のつぐないをする。

そうき【想起】

[1] 思い出すこと。前にあったことを思い浮かべること。
[2] (ギリシヤanamnsis) アナムネーシス
プラトンの用語。人間の魂が真の知識であるイデアを得る過程。
人間の魂が真の認識に至る仕方を、生まれる前に見てきたイデアを思い起こすこととして説明した。