~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

9.龍の目覚め(2)

“や、優しく、して、くれる、のでは、なかっ、たのか……?”
ようやくタナトスから解放されたモトは、息も絶え絶えに横たわっていた。
浅黒い肌も短い黒髪も汗にまみれ、頬には幾筋もの涙の(あと)がある。
彼の口には、間違っても声を出さないようにと、猿ぐつわがかませられ、抵抗を封じるために、両手首は胸の前で縛られていた。

“ふん、死人(しびと)の癖に、人並みの扱いが欲しいとでも?
大体、貴様がサマエルに似ているから悪いのだ。
まあ、貴様もヤツほどではないが、なかなか美味だったと言っておいてやろう。
それに、貴様も最後の方は、うれし泣きしていただろうが?”
タナトスは平然と答えながら、それでもぱちりと指を鳴らし、彼の(いましめ)を解いてやる。

“くっ、サタナエル、お前は……っ!”
今度こそ、本当に解き放たれたモトは、肘をついて半身を起こし、鋭い目つきで彼を見た。
タナトスは、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
“その意気だ。
おのれの身の不運をめそめそと嘆いてばかりいる男ごときとは、頼まれても同化などしたくないからな”

“お前に何が分かる!
最愛の子供達を、この手にかけてしまったわたしの嘆き……わたしはあの日、すべてを失ったのだ……!”
小刻みに震える手で、モトは顔を覆った。
“子供を殺しただと?
だが、あの二人はさっき、お前のお陰で逃げられたと言っていたではないか”
タナトスは、倒れたままのシュネとリオンに眼をやる。

モトは顔を隠したまま、否定の身振りをした。
“ベリリアスとシナバリンのことではない、その下の息子達のことだ。
彼らを逃がすため、紅龍になることを決意したというのに……変化(へんげ)したわたしが、真っ先にしたことは、幼い双子、ロムルスとレムスを手にかけることだった……。
しかも、愛する者を殺すという最大の禁忌(きんき)……それを犯す悦楽(えつらく)に浸りながら……!
その後、敵味方も関係なく、目につく者すべてを殺戮(さつりく)し、最後にはアナテに討たれたのだ……”

“何……”
これには、さすがのタナトスも言葉を失った。
それに彼もまた、一人の少女を手始めに、同族のクニークルス達を虐殺したことがあったのだから。
当時、まだ幼かった彼は、モト同様、えも言われぬ禁忌の快楽の(とりこ)となり、同胞の命を奪うことを楽しみ出していた。
シンハに(さと)されなければ、彼は女神の予言通り、残虐非道な王となってしまったことだろう。

しばしの沈黙の後、魔界の王は話し始めた。
“……実はな、俺にも貴様と同じことをした覚えがある。
ガキの頃、父と叔母が言い争っているのを聞いてしまったのだ。
アナテ女神が予言として、『第一王子サタナエルは、心を持たずして生を受けし子。
()者が王位に()くならば、同族殺しに興ずる、血塗られし君主となるであろう』と告げたと……。
それで俺は、自暴自棄となり、いずれ否応なくそうなってしまうのならばと、後先も考えず、同族殺しに走ってしまったのだ”

“何だって、お前も……!?”
はっとしたようにモトは顔を上げ、うるんだ瞳で、まじまじと彼を見つめた。
“今なら分かる、アナテは、俺が、(こん)を持たずに生まれて来たと知っていたのだからな。
その事実をただ忠実に、親父に告げただけだと言うことが。
それを真に受けた親父に、俺は見捨てられたわけだ。
……今はこうして、王の位に()いてはいるが、な”
タナトスは淡々と告げた。

モトは、どうにか自力で起き上がり、自分の裸の肩を抱いた。
“お前の父上のことは、よく分からないが……でも、アナテは、お前を見捨ててはいないと思うよ。
その証拠に、お前の中にアナテを感じた……おそらく、彼女はお前を哀れに思い、魂を少し分けたのだろう。
それゆえ、お前はどうにか感情を制御出来、王を続けて来られたのかも知れない……”

“女神が、俺に同情しただと?
ふん、『四頭の龍の予言』を成就させるために、俺、つまりこの肉体が必要だった、それだけのことだろうが”
タナトスは唇を歪め、おのれの胸を指差した。
“狂った王として家臣や民の反感を買い、暗殺されたりしたら元も子もない、そう考えて、仕方なく魂を分けたのだろうさ”

今にして思えば、ジルに対する欲望を抑えられたのも、アナテのお陰なのかも知れなかった。
それまでの彼は、自分を抑えられた(ためし)など、なかったのだから。

“それでも、アナテが、お前を気にかけていたことには違いがないよ、サタナエル。
わたしはずっと、誰にも(かえり)みられはしなかったけれどね。
ルキフェルの身を案じ、こうしてお前達がやって来るまでは、忘れられた存在と化していた……”
そこまで言うと、モトはいきなり、彼の胸に抱きついた。
“ねぇ、サタナエル。もう一度抱いて。今度は優しくなどしなくていい。
もっとひどくしていいよ、わたしは咎人(とがびと)、永遠に許されることもないのだから……”

“お、おい……?”
着衣を脱ぎ捨てたままでいたタナトスは、裸の胸に飛びついて来られて面食らう。
それでも、モトの台詞は、またもやサマエルが言いそうなことだった。
シンハと眼が合い、彼は思わず苦笑を漏らす。
“……まったく、どこまでもサマエルとそっくりだな、この男は。
そう思わんか、シンハ”

魔界のライオンは、わずかに背中を揺すった。
風に吹かれた稲穂のように、黄金の毛並みを、震えが渡っていく。
“元々、おのれが()いた種だ。刈り取りも汝がせよ、サタナエル。
童子らの意識が戻る気配があらば、すぐさま知らせてやろうほどに”
“ふん、途中でやめるなど無理だぞ”

シンハは、燃え上がる瞳で彼を見返した。
“エッセンティアは、子孫である汝らとは異なり、インキュバスではない。
一度でも抱けば、かような仕儀(しぎ)相成(あいな)ることは、火を見るより明らか。
自業自得であろうが”
“……ち。まあいい。だが、カーラには黙っていろよ”

“たとえ()の化身が、汝らの交尾を眼にしたとしても、それが何を意味するものかは、理解の外であろうよ、ニュクスもまた。
我らは鉱物、嫉妬などといった生き物の感情は、知識としては知り得ても、真の理解に至るまでには長の年月を要する。
先ほどカーラが、エッセンティアを威嚇(いかく)したのは、明らかに汝が彼を拒絶しておったがゆえだ”

“……なるほどな。
ともかく、『黯黒の眸』には、時間をかけて俺自身が教えてやりたい。
それゆえ、今回は見せずにおきたいのだ、分かってくれ”
“了解した。
されど、『黯黒の眸』に対し誠実でありたいのならば、今回のごとき事態は、(あと)う限り避けたがよいぞ”
少し苛立ったように、ライオンは炎のたてがみを震わせる。

“ああ、分かった、努力する。今は黙って食わせろ。
たまには食いでのある、上質の相手が欲しかったところだ”
タナトスはそう答え、弟に似た褐色の青年を再び抱いた。
最近はかなり自重して、後宮の女性達を相手にすることもなく、また、ニュクスを大事に思うあまりに手をつけていなかったために、インキュバスである彼は、空腹が限界に達しかけていたのだった。

ややあって、先祖の青年から体を離したタナトスは、憮然(ぶぜん)とした表情で言った。
“おい、モト、貴様、俺のことを『アサンスクリタ』と呼んでいたな”
それは、女神アナテがまだ生身だった頃の、真の名である。
モトは顔を赤らめた。
“す、済まない、つい、無我夢中で……”
タナトスは、軽く肩をすくめた。
“まあいい、そのくらいは我慢してやる。
元々、俺が無理やり始めたことでもあるし。それに俺は、アナテの生まれ変わりなのだろう?”

自身も遥か昔に死んでしまった青年は、悲しげに答えた。
“ああ。彼女は生きていた当時、口癖のように言っていたよ、『いつか、男に生まれ変わりたい。
そうして、女に生まれたお前を妃にするから』とね……”
“ふん、俺も、同じような思いをサマエルに対して持ったこともあったな。
あいつを女の体に作り変え、正妃にしようと考えたことすらあった……”
タナトスは遠い眼をした。

“お前がルキフェルを!? ……そうか、それでわたしを……”
モトは自分の胸に手を当てた。
“あ、サタナエル……?”
無言のまま先祖の両手首をつかんで持ち上げ、タナトスは改めてその全身をじっくりと眺めた。

今にして思えば、サマエルを本当に憎んでいたのか疑問だと、タナトスは思う。
たしかに、彼は最初のうち、弟を力尽くで(はずかし)め、楽しんでいた。
だが、そのうち、欲望のはけ口と思っていたはずの弟を、女性体にしようとし、さらには正式な妃として(めと)ろうとまで考え始めたのだ。
一時の気の迷いにせよ、心底憎んでいる相手に対して、そこまでしようとするだろうか。
母を死なせた(つぐな)いとして、弟を苦しめたいと望むなら、王妃にする必要はまったくない。
たとえ、女性に変化させたとしても、身分の低い側女(そばめ)として仕えさせ、(もてあそ)んでいればいい……はずなのに。

“……ふん。貴様は、あらゆる面でサマエルに似過ぎている。
やはり、俺とではなく、あいつと同化した方がいいだろう。
俺は大丈夫だ。必要とあらば、女神が手を貸すはずだからな”
“放してくれ、サタナエル。
そうしたいのは山々だが、何度試みても、上手くいかなかったのだよ……”
タナトスの腕から逃れて、モトは両手を下につき、がくりとうなだれた。

二人の会話が途切れると、シンハはモトに語りかけた。
“エッセンティアよ。汝が発する、(こと)の葉の端々からは、強い罪悪感が匂って来るぞ。
我には、それが、ルキフェルとの一体化を(はば)んでおるように思えるのだが”

“……罪悪感が阻んでいる? そうかも知れないが……。
シンハ、それはともかく、わたしを、真の名では呼ばないでくれないか。
その名は立派過ぎて、わたしにはそぐわな……ああっ、この声は!”
話の途中でモトは突如叫び、頭を抱えた。
“少しでも心が安らいだりすると、彼らが現れる……!
あああ……やはりわたしは、決して許されることのない、罪人(つみびと)なのだ……!”

“落ち着くがよい、モト。何者が汝を苦しめるのか?”
シンハは首をかしげた。
“あれだ……あの声が聞こえないのか?”
固く眼をつぶり、モトはうめくように答える。

そのとき、か細い声が、闇の中から届いた。
“父様……痛いよ”
“どこ? 父様……”
“誰だ!?”
タナトスが勢いよく身を起こし、眼を()らす。
小さな人影が二つ、近づいて来ていた。

()くカーラを目覚めさせよ、サタナエル。
隠形の術を張ったままでは、童子らが父親に会うことができぬ”
一早くその影の主を見極めた“焔の眸”が、重々しい声で告げた。
“……父? ということは、こやつらは”
はっとして、タナトスは、近づきつつある人影を指差す。

“そう、ロムルスとレムス……わたしの子供達だ”
モトが言った刹那、ついに子供らの姿が、シンハのたてがみの明かりに浮かび上がった。

エッセンティアessentia

ラテン語。本質存在。

能(あと)う限り

可能な限り。できるかぎり。

ロムルスとレムス(Romulus,Remus)

古代ローマの建国神話に出て来る双子の兄弟。

アサンスクリタ

仏教用語。無為(サンスクリット語でアサンスクリタasaskta)とは「つくられないもの」の意。 有為(サンスクリタSaskta)とは本来「つくられたもの」、すなわち、有為とは時間に制約されつねに移り変わるものつまり無常なるものであり、無為とは常なるものの意である。
日本大百科全書(ニッポニカ)