~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

9.龍の目覚め(1)

“貴様、いい加減にしろ、モト!”
“いいだろう、一口くらいなら”
もみ合う二人の顔が徐々に近づき、モトが、タナトスの唇を強引に奪おうとしたとき。
“モトよ。我が良人(おっと)に対する、得手勝手(えてかって)なる所業(しょぎょう)看過(かんか)出来かねるぞ”
カーラが彼らの間に割り込み、鋭い牙を見せながら、瞳を金色(こんじき)に光らせ(うな)った。

“……分かりましたよ、奥方。失礼致しました、と……”
モトは肩をすくめ、渋々といった風でタナトスを放した。
“助かったぞ、『黯黒の眸』”
緊張が解けた魔界王は、滑らかな黒豹の首を抱え込む。
カーラは、その頬をざらつく舌でなめた。

“やれやれ、軽い冗談だったのに、大げさだねぇ、お前達……。
でも、詰まらないなぁ。奥方の目の前でスルと、燃えると思ったのだけれどねぇ”
いたずらっぽく瞳を(きらめ)かせ、モトは小悪魔のような笑みを浮かべた。
“くそ、性質(たち)の悪い冗談はよせ、(しゃく)(さわ)る!
死人(しびと)のくせに──もう一度殺してやろうか、貴様!”
タナトスは、忌々(いまいま)しげに先祖の青年を睨みつけた。
いつも相手の気持ちなど考えずに強引に攻める、そんな自分のことは棚に上げて。

彼の厳しい視線を受けたモトは、一転、沈鬱(ちんうつ)な表情になった。
“……(つが)う相手もいない、(なが)の年月の後で、口づけの一つくらい、構わないではないか?
それにね、サタナエル。お前と同化したなら、わたしは自我を失う。
『モト』という存在は、完全に消え失せるのだ……。
その前にせめて、かつて伴侶だった女性の生まれ変わりを、一口味見するくらい、許されてもいいだろう……?”

“モト?”
先祖の声に含まれる切実さに、タナトスは改めてその顔を見直す。
初代の紅龍は、首を横に振った。
“ああ、気にしないでくれ、死人の戯言(たわごと)だ……”
そう答えるモトの眼は涙で濡れ、さらに(なまめ)かしさを増していた。
タナトスは眉を寄せた。
“貴様、泣いているのか?”

弟に瓜二つの顔と仕草で誘惑して来たかと思うと、態度を豹変させ、涙まで見せるこの青年をどう扱っていいか、タナトスには判断がつきかねた。
第一、カオスの貴公子であるモトは、涙を流せないはずだった。
子孫のサマエルに力が移ったせいか、あるいは、現実世界ではないここでは、意思の力で、涙を作り出すことが可能なのかも知れないが……。

“……いや、これは汗だよ、涙などではない”
困惑した彼の表情に気づいたモトは、顔を背け、眼をこすった。
“お前を尊敬するよ、サタナエル。
(はく)しか持たないその状態で、王の責務を果たして来たとは……さぞかし、苦労したことだろうね。
わたしが、お前と一体化すれば、感情の制御もかなり楽になるはず。
(こん)を得て、お前は、さらによい王となれることだろう”

タナトスは軽く肩をすくめた。
“……ふん。たしかに俺自身、王になど向いておらんと思ってはいたがな。
それよりも、話の流れからして、貴様はサマエルの(こん)ではないのか?
もし、そうなら、サマエルはどうなるのだ? 魂を持たないままでは、まずいのだろう?”

“たしかに、わたしは、ルキフェルの(こん)になるはずだった、のだが……。
彼が試練を経てカオスの貴公子となったとき、何ゆえか、わたしは同化出来なかったのだよ。
今は、紅龍が代わって彼の感情を支配し、わたしはただ、カオスの闇の中を漂っているだけ……。
わたしは、もはや彼にとって……いや、誰にとっても、必要のない存在と成り果てた……”
モトはうなだれた。

“同化出来なかっただと? 何ゆえだ?”
“理由は分からないが、魂魄(こんぱく)が結合した状態で、紅龍を受け入れることが出来たのならば、こういう事態には、ならなかったのかも知れない。
今となっては、ルキフェルからカオスの力を取り去る以外に、彼と一体化出来る見込みはないな。
だが、それは無理な相談……生者から無理に魂を引き剥がせば、死に至るのは確実だろうからね……”
悲しげに、モトは首を左右に振った。

後ろ向きで顔は見えなかったが、モトがまたも涙を流しているように、魔界の王には思え、湿っぽい話に嫌気が差した彼は、話題を変えようと尋ねた。
“……ふん。ところで、モト。貴様の真の名は何と言う?”
“真の名? ……エッセンティアだが”
振り返ったモトの黒い瞳は、やはり涙でうるんでおり、彼の問いかけに、戸惑ったように小首をかしげる、その(つや)っぽい所作(しょさ)もまた、サマエルに酷似していた。

タナトスは、思わず生唾を飲み込みそうになる。
だが、この状況下でそれを表に出せるはずもなく、彼は思いとは逆に、舌打ちして見せた。
“ちっ、男の癖によく泣くヤツだ。
まあ、エッセンティアという名は、貴様にふさわしいとは思うが”

“……そうだろうか?
少しでも、本当にそう思ってくれているのなら、時折でいい、こんな暗愚(あんぐ)な祖先がいたことを思い出しておくれ……”
先祖の青年は、またもうつむいた。

雨に濡れた南国の花のような風情もまた、弟に瓜二つで。
味見をしたい衝動を抑えつつ、魔界の王は話を続けた。
“愚かだと? どこがだ?
第一、貴様が紅龍になる運命を受け入れなかったら、フェレス族は滅び、当然、俺達も存在しておらなんだのだ。
礼を言うべき理由こそあれ、愚かだなどとは誰も微塵(みじん)も思わんぞ”

“……ありがとう、そう言ってもらうと、気が休まるよ。
さらばだ、サタナエル。お前に会えてよかった……”
あふれそうになる再び涙をぬぐい、モトは淋しげに微笑む。
その顔もサマエルそっくりで、この男を抱いたなら、弟とどう違うのだろうと想像したタナトスは、次第に欲望を抑えられなくなり始めた。

そのとき、焦ったシンハの思念が、二人の会話に割り込んで来た。
“一大事だ、童子らが意識不明に陥ったぞ!”
“何っ!?”
タナトス達が振り返ると、ついさっきまで、苦しげにうめきながら転げまわっていたリオンとシュネは固く眼を閉じ、動かなくなっていた。

急ぎモトは彼らに近づき、かがみ込んでそれぞれの額に手を置く。
ややあって、顔を上げたとき、そこには笑みが浮かんでいた。
“大丈夫、どちらも命に別状はないよ。
長きに渡って離れていた魂魄(こんぱく)が同化し、落ち着くためには、まだ時間がかかるのだろう。
自然に目覚めるまで、このまま休ませておいた方がいいと思う”

“左様か。して、彼らが覚醒するまでに、いかほどかかるのか?”
シンハの表情は変わらず、気遣わしげだった。
“そう、だね……”
モトは、首をかしげて少し考えた。
“はっきりとは言えないが、少なくとも半日……そう、この調子では、丸一日かそれ以上、かかるかも知れないな”

“何と! 左様に時間がかかっては、ルキフェルが危うい!
火閃銀龍に呑まれてしまうぞ!”
モトの答えに、ライオンは激しく身を震わせる。
紅い火の粉が、ぱちぱちと音を立てて暗闇に弾けた。
“気を落ち着けよ、『焔の眸』。無用に騒ぎ立てるならば、隠形(おんぎょう)の術が破れよう”
カーラが声をかけて来る。

“シンハ、それはないから落ち着いて”
モトもまた、なだめるようにライオンの毛並みをなでた。
“されど!”
たてがみは荒々しく()ぜ、シンハは地団太(じだんだ)を踏み、身もだえすることをやめられない。

黄金の背中を優しくさすりながら、静かにモトは語りかけた。
“今までの話を総合して考えると、火閃銀龍は、正式な儀式を経ないで、紅龍という、膨大なエネルギー体を吸収しようとしているのだね。
それで、ルキフェルを半分呑み込むにも苦労して、一月以上も費やしているのだろう。
つまり、火閃銀龍が、カオスの力をすべて吸い尽くし、さらにおのれの体に同化させるためには、さらに数ヶ月以上、要するのではないかな”

理路整然としたモトの話し方は、サマエルを彷彿(ほうふつ)とさせ、シンハの心身の動揺を少し和らげた。
彼は動きを止め、モトの眼を覗き込んだ。
“それは、まことであろうな?”

“ああ。それに、火閃銀龍は焦ったりなどはしていない。
先ほど、我らに怒りを向けたのは、単に、周囲を飛び交ううるさい羽虫を追い払ったようなものだ。
悠久(ゆうきゅう)の時を存続して来たと思われるあの龍は、我らのように、一日二日などといった、短い間隔では物を考えないのだろうね”
“……左様か。ならばよいのだ”
サマエルのものとは色こそ違え、穏やかなモトの瞳を見つめているうちに、ようやくシンハは落ち着きを取り戻し、シュネとリオンのそばに腰を下ろした。

タナトスは鼻を鳴らした。
“ふん。つまり、しばらくは、ここでこうして暇を持て余しておらねばならんということか”
“ならば、童子らを連れて、一旦外へ出た方がよくはないか”
提案するシンハに、モトは首を横に振った。
“いや、今は動かさない方がいい、魂魄(こんぱく)の同化に時間がかかってしまうかも知れないよ。
火閃銀龍にさえ見つからなければ、だが”

“我が隠形(おんぎょう)の術は、十全(じゅうぜん)なり。
おぬしらさえ、いたずらに立ち騒ぐことさえなくば、()の龍に見つけらるる懸念はない”
カーラはきっぱりと言い切る。

そこまで聞いたタナトスは心を決め、口を開いた。
“おい、カーラ。俺がいいと言うまで、お前は眼と耳を閉じ、何も見ず聞かずにおれ”
“相分かった”
主に命じられた黒豹は、何の疑いも持たずにそう答え、言われた通り眼をつぶり、伏せの体勢を取ると前足で耳を覆った。

直後、タナトスは、モトのあごに手を当てて顔を上げさせ、その唇を奪った。
モトはもがくが、タナトスはそのまま彼を床に押し倒し、さらに衣服を剥ぎ取り始めた。
“な、何をする気だ、サタナエル!?”
驚愕したモトは叫ぶ。

“俺の味見をしたいのだろう、貴様。半日もあれば、十二分に堪能(たんのう)させてやれるぞ”
“えっ、サタナエル、何を言い出す、お、男同士でっ!?
や、やめろ、やめてくれっ!”
必死に暴れるモトを押さえつけ、タナトスは言った。
“貴様、男相手は初めてか。ならば、少しは優しくしてやる、心配するな”

“サタナエルよ、少し慎んではどうか。汝は魔界の王であろうが”
あきれたようなシンハの念が届いたが、タナトスは、たたきつけるように心話を返した。
“邪魔をするな、シンハ!
こいつはサマエルではないのだ、貴様にどうこう言う権利などない!
それに、どうせこいつはすでに死んでいるのだ、死人をどうしようと構わんだろうが!”

“む、無茶苦茶な、理屈だな……よほど、飢えているのか、は、放せ……”
組み敷かれたモトは苦しげに、もがく。
すでに死んでいる彼だったが、カーラの隠形(おんぎょう)術中にいる間は、幽体に戻ることは出来ないようだった。
こうなってしまうと、魔力でも腕力でも上を行くタナトスに、華奢な青年は(かな)わない。
“大人しくしていろ。暴れると、余計に痛い目を見るぞ”
脅すように言い、魔界の王は高まる欲望に駆られるまま、彼を抱いた。

あんぐ【暗愚】

道理がわからず賢さに欠ける・こと(さま)。おろか。

じゅうぜん【十全】

[1]少しの欠点もなく、完全なさま。十分に整っていて危げないさま。 (yahoo辞書)

エッセンティア(essentia)

ラテン語。存在本質、魂の本質。

魂魄(こんぱく)について。

○中国の道教
魂(こん)は精神を支える気、魄(はく)は肉体を支える気を指す。 
易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。
また、キョンシーは、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。
(※リオンやシュネ、タナトスはキョンシーではないですw)

○伝統中国医学
≪魂≫ 肝に宿り、人間を成長させ、心を統制する働き。魂が強くなると、怒りっぽくなるとされる。
≪魄≫ 人間の外観、骨組み、生まれながらに持っている身体の設計図。五官の働きを促進させ、成長させる作用がある。肺に宿り、強すぎると物思いにふけるとされる。
(ウィキペディアより抜粋)