~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

7.夢の罠(4)

初代の紅龍、モトが不安を口にするほど、サマエルを捕らえている相手の力は強大だというのか。
未知なる敵に対する懸念を振り払うように、歩きながらシンハは巨体を一揺すりし、尋ねた。
『モトよ、ルキフェルがいる場所までは遠いのか』

“……姿を直接見たわけではないから、わたしもよく分からないのだよ、すまないが。
ただ、ルキフェルが、危機に陥っているのは分かる、その大体の方角も。
それゆえ、こうして案内を買って出たのだが……”
突如、モトは言いやめて立ち止まった。
激しい震えがその体を襲い、シンハは驚いて、彼を見つめた。
『いかが致した、モトよ』

遥か昔に死んでしまった青年は、肩を抱き、蒼白な顔で彼を見返した。
動揺しているのは体だけではなく、瞳までもがひどく震えている。
“やはり無理だ……これ以上は近づけない……すさまじい力……感じないか、シンハ?”
『むう……!』
ライオンは空間の臭いを嗅ぎ、彼もまた、ぶるぶると体を揺すった。

実は、シンハもすでに、その力は感じていた。
姿も見えない相手から、これほどの脅威を感じるのは、長く存在して来た彼にとっても、初めての経験だった。
しかし、肝心の相手がどこにいるのか、彼には感知出来なかった。
まるで、周囲に張り巡らされた闇すべてがそれ自身でもあるかのように、謎の敵は、異常に強い力を発散していたのだ。

『モトよ、汝の心持は分かるが、案内を急いではくれぬか。
ルキフェルの身が気がかりだ』
シンハが懸念を口にし、促しても、モトは自分の思いに浸り込み、彼の言葉など、耳にも入っていない様子だった。

“わたしは臆病者だ、生きていたときから。
アナテの後ろ盾なくしては、人々を束ねることも出来なかった……。
わたしがこれほど脆弱(ぜいじゃく)でなかったら、アナテも、わたし一人を王として立てたことだろう。
あのとき……白き悪魔どもの侵略の折にも、彼女を守ることも出来ず……そして死んだ後も、わたしはこうして何も出来ないまま……こんな暗い闇の中を、目的もなく、ただ彷徨(さまよ)っているのだ、情けないことに……”
言いながらモトは頭を抱え、ずるずるとその場にくずおれてしまった。

その全身から、強い恐怖が匂って来る。
困惑したシンハは、どうすればこの心弱い青年を(ふる)い立たせることが出来るかと、冷静に観察を開始した。
こうしてみると、サマエルに似ているのは、外見や仕草だけのようにも思えて来る。

こんなとき、サマエルなら、少なくとも目の前の危機を打破するまでは、非常に頼り甲斐のある存在でいることだろう。
ただ、その期に乗じて、自分を抹殺するような方策を巡らしてしまうという困った癖があったが、それを除けば、敵の裏をかき、味方が優位に立つように画策するのは、得意中の得意と言ってよかった。

だが、それも、無理はなかったのかも知れない。
あの破滅の日……天空の彼方からやって来た神族が、ウィリディスを侵略した日……まで、妻であり母であった女王アナテの庇護(ひご)の下、大勢の家臣や召使達にかしずかれて、何の苦労もなく暮らして来たモト。
彼は、自分では何も考えず、すべてを人任せにして来たと言っていい。

それに引き換え、生まれてすぐに母を失った上、命の危機に幾度もさらされ、さらには、魔界からも追放されるなど、王子でありながら筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい辛酸(しんさん)をなめて来たサマエル。
(はん)魔殿でも人界でも、彼に手を差し伸べてくれる者は皆無と言ってよく、どんな窮地に立たされようと、おのれ一人の才覚だけで、切り抜けて来なければならなかった。
そのため、二人の危機管理能力が天と地ほど開いてしまったとしても、仕方がないことと言えた。

彼らの相違はさて置き、サマエルも、こうした状態に陥ることは、ままある。
その場合の対処法として、一番適切だと考えられるのは……。
()くシンハが、苛々と思い巡らしていたとき、化身の一人が声をかけて来た。
“ねぇ、シンハ。わたくしと代わってくれない?”
“……フェレスか。なるほど、汝ならば、確実にモトを鼓舞(こぶ)出来よう”
“ええ。任せて”
“心得た”

一声咆哮(ほうこう)し、シンハは輝き始めた。
“シンハ……!?”
はっと我に返って、モトは顔を上げた。
何が起こっているのか理解出来ずにいる彼の前で、光が消えると、ライオンがいた場所に現れたのは、一人の美女だった。
薄紫のドレスに身を包み、長い髪は赤紫、同色の瞳の中には、シンハ同様、黄金の炎が踊っている。

化身が変身出来ることを知らなかったモトは、意外な事態に頬を赤らめ、口ごもりながら尋ねた。
“あ、あなたは……?”
美女は、サマエルそっくりの青年に微笑みかけた。
「わたしはフェレス。“焔の眸”に宿っている化身の一人よ。
アナテが夢飛行で会ったのは、わたしなの」
“ああ、聞いていた通りだ、美しい……”
うっとりと自分を見上げるモトの手を取り、彼女は言った。
「本当に、あなたはサマエルに似ているわ。そう、彼の魂は、あなたと同じなのだものね」

“では、彼もまた、わたしのように臆病なのだろうか……?”
「臆病というより、優し過ぎるんだわ、あなたも彼も。
サマエルときたら、兄を蹴る時だって、わざわざ裸足になってしまうのよ、靴で蹴ったら痛いだろうと」
“兄弟がいるのか、うらやましいな。
……兄がいたなら、兄を王にして、わたしは自由になれたのに。
アナテだって、わたしなどを夫にしなくてもよかった……”
彼は、フェレスの手を離してうなだれた。

「ねえ、モト。サマエルを助けるために、手を貸して。
道案内は、あなたにしか出来ないのよ、初代紅龍のあなたが出来なければ、他の誰にも出来はしないわ。
お願い、頼れるのは、あなただけなの」
フェレスは、祈るように手を合わせる。
“でも、わたしは……あ”
ためらうモトに駄目押しするように、フェレスの眼から、涙がこぼれ落ちた。

それは、落下していく間に煌きながら固まっていき、赤紫に輝く貴石となる。
“な、涙が!?”
モトは驚愕し、急いで、落ちた涙を拾い上げた。
彼の掌の上で、ダグリュオンは美しく輝き、辺りの闇でさえ、少し明るくなったようにさえ感じられた。
“とても綺麗だ……でも、どうして……?”

「わたくし達化身の涙は、すべてがこうした宝石になるのよ。
そのために、シンハは昔、ひどい目に遭ったりもしたけれどね。
でも、今はとても幸せよ、サマエルに救われ、彼と結ばれてから……いいえ、幸せ“だった”わ、わたくし達。
一月前、突然、彼が眠りに落ち、目覚めなくなってしまうまでは……。
ああ、サマエル……このまま眠り続けていたら、生け贄にされて死ぬしかないのに……」
フェレスは手で顔を覆い、しくしくと泣き出した。
涙が、その白魚のような指の間から次々に滴り落ち、いくつもの美しい貴石と化して暗い空間で光を放つ。

“あ、あ、泣かないで、フェレス……だったね、分かったよ、わたしも逃げてばかりはいられないな。
立ち向っていかなくてはね、自分の運命に”
そう言うと、モトは、掉尾(ちょうび)の勇を(ふる)って立ち上がった。
“さあ、泣きやんでおくれ、フェレス。
急ごう、サマエルを助けなければ。こっちだよ”
モトは、先に立って闇の中を進み始めた。

「ええ、お願いね」
この青年も、サマエル同様、女性に頼られると嫌とは言えないらしい。
自分の予想が当たったことにほっとし、フェレスは急いでその後を追った。
安堵の息をついたのは、他の化身達も同じだった。
“ま、サマエルが、お前を創ったんだしな。やっぱモトも、お前のこと好みなんだろぜ”
ダイアデムが心の声で言う。

フェレスは懸命に、モトの背中を追いかけながら答えた。
“そのようね。
でも、いくら弱ってはいても、サマエルは『紅龍』、その彼を一月も捕え続けているなんて、一体何者なのかしらね?”
“んー……あ、気をつけろ、そろそろ着くぜ。すっげーやばい感じが、近づいて来てやがる”
“本当、ものすごく危険な感じね。何なのかしら、これ……?”
“分かんねー。けど、マジやばいぜ、こりゃ”

“焔の眸”の化身達は、そろって戸惑いを抑えられなかった。
今までに一度も感じたことがない、ひどく変わった感覚に、彼らは捉えられていたのだ。
謎の敵が、掛け値なしに強大な力を持っているということだけは分かるのだが、その正体は、想像することも出来なかった。

“我と代わるがよい、フェレス。汝は攻撃力、防御力共低い。
何者か知らぬが、襲われたなら、身を守ることは難しかろうぞ”
“分かったわ”
走りながらシンハと交替しようとしたフェレスは、いきなり足を止めた。
その顔から、みるみる血の気が引いてゆく。

“で、出来ないわ、動くことさえも! わたし達、敵の力に捕らえられてしまったのよ!”
“これはしたり! ……むう、まこと、苛烈(かれつ)なる力よ”
変化(へんげ)を阻まれ、シンハが(うな)る。
“くそっ、まずいことになっちまったぜ、一体どんな野郎なんだ!?”
ダイアデムが叫んだその刹那。
突如、爆発が起きたかのように、白い光が空間に満ちた。

「……っ!?」
声なき叫びを上げ、反射的にフェレスは顔を覆う。
今まで暗闇の中にいただけに、突然の光は、眼に何かが突き刺さったような鋭い痛みを感じさせた。
同時に、あちこちに浮遊していた死霊達の気配が一瞬で完全に消滅したのを、化身達は見るともなく感知した。

とっさに、フェレスは身を硬くしたものの、何かが襲いかかって来るような事態にはならなかった。
徐々に薄目を開けて、眼を明るさに慣らし、周囲の様子をうかがってみる。
モトは、彫像のように動きを止めていたが、他の死霊達のように消えることはなく、彼女の少し前方に存在していた。

“モト、大丈夫?”
口を利くことが出来ないので、フェレスは念話を使い、声をかけた。
“な、何とかね。
ほら、あそこをご覧。サマエルがいる。あいつに捕まっている、のだよ……”
モトは、必死に手を伸ばし、前の方を指差した。
さすがは初代の紅龍、彼は、ごくわずかだが、このすさまじい力に対抗して、動くことが出来るようだった。

“あいつって? 何も見えないわ”
“光でよく見えないかも知れないが、あそこにいるのは確実だ。
サマエルはぐったりしていて、腰から下はあいつに飲み込まれている……さっきから呼びかけているのだが、もう意識がないようだ……”
“ええっ!
サマエル、どこ!? 起きて、サマエル! 答えて!”
フェレスは念話で呼びかけつつ、必死に眼を凝らし、モトが指差しているものを見定めようとした。

くずおれる【頽れる】

《「おれる」を「折れる」の意に解して》気力が抜けて、その場に崩れるようにして倒れたり、座り込んだりする。

こぶ【鼓舞】

《鼓(つづみ)を打ち、舞(まい)をまう意から》
 大いに励まし気持ちを奮いたたせること。勢いづけること。鼓吹(こすい)。

掉尾(ちょうび)の勇を奮(ふる)う

最後の勇気をふるい起こしてがんばる。

かれつ【苛烈】

きびしくはげしい・こと(さま)。