7.夢の罠(3)
ダイアデムが着いた場所は、闇のただ中だった。
どれほど暗い場所でも、明るく照らし出すはずの彼の輝きをもってしても、辺りを見渡すことは出来ない。
「ふーん、これが“カオスの闇”ん中かぁ。思いっきし暗いなー。
──グリッティ!」
呪文を唱えると、手の上に輝く球体が現れた。
しかし、周囲の闇に吸収されて、ごくわずかの範囲しか、明るくならない。
「“闇”ってのは、たとえじゃなく、マジに真っ暗なトコなんだなー。
さすがだぜ、光がどこにも届かねーや」
感心したように言う声も、周りの闇に吸い込まれ、自分が闇と同化してしまいそうな気分になって来る。
元々独り言の多いダイアデムだが、こんな状況では尚更、何か言葉を発していないと、ぐるりを取り囲む闇そのものが襲いかかって来そうな不安感を抑えられない。
「うーぶるぶる。長居はしたくねーよな、ンなトコ。
大体、どっち行きゃいいんだか、さっぱり分かんねーし」
肩を抱いて身震いした時、ニュクスからの念話が、心に届いた。
“これから導き手を送る、その後をついてゆけ、我が兄弟”
“えっ、導き手? ……ああ、こいつか”
足元で、ネズミに似た形状をした、小さな光るものが跳ねていた。
これは“黯黒の眸”の分身であり、彼らが力を合わせなければ、サマエルの心が捕らえられている場所は感知出来ないのだった。
「へん、オレは、ネズミを追っかける猫ってわけか。
その先にゃ、罠にかかった白蛇が一匹。
今、助けに行くぜ、待ってろよ、サマエル! 絶対連れて帰るからな!」
ダイアデムが力強く宣言したそのとき、いきなりネズミが走り出した。
「あ、待てよっ、ネズ公!」
彼は、大急ぎでその輝きを追いかけた。
みずから輝く“焔の眸”でさえも、前方を跳ねながら進む白い小さな光以外には、何も見えない漆黒の闇。
下は固い地面ではなく、何か、未知の材質で出来てでもいるかのような奇妙な感触で、気を抜くと、すぐ足をとられてしまう。
戸惑いながらも、彼は、ともかくサマエルを求め、出来得る限り足早に歩を進めた。
しかし、あまりの暗さに平衡感覚も失われ、自分がまっすぐに進んでいるのかどうかもよく分からない。
何かにぶつかってしまいそうで、彼はつい、両手を前に突き出し、探るような歩き方になっていく。
かなり進んだと思える頃、ダイアデムの鋭い感覚は、次第に濃くなる瘴気を捉え、我知らず鳥肌が立ち始めた。
(近づいて来やがったぜ、死霊どもの巣に。
そこに、サマエルが捕われてる……のか?
でも、やっかいだよなー、死人相手に一戦交えんのかぁ。
サマエルさえ俺に気づいてくれりゃ、楽勝なんだけどな)
死霊達に自分の存在を気づかれてはまずいと思い、心の中で彼はつぶやく。
そのとき、突然、導きのネズミが弾けるように消滅した。
息を呑むと同時に周囲の闇がうごめき出すのを感じ、ダイアデムのうなじの毛は一斉に逆立った。
(第一の関門、ってわけか。
そうだよなー、今まですいすい来られたのが、不思議なくらいだもん)
“何奴……”
“我らの眠りを妨げる者は……”
“帰れ……”
“引き返せ……”
“戻らぬと、闇に取り込むぞ……!”
気味の悪い声が、いくつも頭の中で響き、同時にたくさんの死霊達が、おどろおどろしい姿で立ち現れた。
ある者は頭から血を流し、ある者は首がなく、あるいは全身が焼けただれ、恨めしい顔をしたたくさんの人々が、じりじりと彼に迫って来る。
一切の光がない空間だというのに、その姿は、なぜか明瞭に浮かび上がって見えていた。
だが、遥かなる太古、実際にフェレス達の
「んじゃあ、サマエル……いや、真の名で言った方が分かりやすいか。
カオスの貴公子、ルキフェルを返しな。そしたら、大人しく帰ってやるぜ」
その名を聞いた亡霊達は、一斉にざわついた。
“ルキフェル……!”
“
“『カオスの貴公子』は我らのもの……”
“あの者は……我らの仲間になるのだ……”
“帰れ……”
“侵入者よ、帰れ……”
“焔の眸”の化身は、カッと眼を見開いた。
彼は深く息を吸い込み、空間を壊さんばかりに、大声を張り上げる。
「──うぜぇんだよ、亡者ども! サマエルはオレのもんだ!
大体、てめーらは、恨みを晴らして欲しくて、ンな無様なカッコさらしてんだろーが!
オレ達は、てめーらのカタキとるために、これから天界と戦うんだぞ、邪魔すんじゃねー!
考えてもみろ、“紅龍”なしで、どーやって神族どもに勝てんだよ!」
ダイアデムが叫ぶにつれて、紅い眼の奥に揺らぐ、黄金の炎が激しく燃え立つ。
“焔の眸”の剣幕に死人達はたじろぎ、ざわめいた。
それから、彼らは口々に、
“我は、きゃつらに殺されたのだ……”
“きゃつらは、我が子を殺して捨てた……”
“身重の妻が殺された!”
“年老いた父母が殺された!”
ダイアデムは、両手を振り回した。
「あー、うるせー、分かった、わめくな、それは知ってっから!
オレは、その現場にいたんだからな!
──いいか、てめーら、よ~く聞け!
もうすぐ、オレ達は、恨み重なる神族どもをぶっ倒しに行くんだ!
だから、邪魔すんな、分かったか! とっととサマエルを返せ!」
“神族を、倒す……?”
“我らの恨みを、晴らすと言うか”
“まこと……なのか?”
戸惑い、ざわざわとささやき交わす死霊達の声が、暗い空間を満たしてゆく。
その中から、ひときわ強力な
“皆の者、惑わされてはならぬぞ!
左様な世迷い言で、我らを
この安らかなる闇の世界へ、
おそらくは、白き翼の、悪しき者どもの手先であろう!”
口の端から血を滴らせ、彼を指差す青ざめた死人は、貴族的な風貌をしていた。
その理不尽な言いがかりに、魔界の至宝の化身はカンカンに腹を立てた。
「何だと、てめー!
あんま長いこと、んな真っ暗いトコにい過ぎて、オレのことも分かんなくなっちまったのかよ、この、とんちんかんどもが!」
言うなり、その体が輝き出す。
『──とくと見よ! この瞳を見忘れたと申すか!
汝らが、我を、“黯黒の眸”、“
躍り出た巨大なライオンは、紅い瞳に黄金の炎をたぎらせ、体の金色の光がさらに強く輝き出した。
“おお、黄金の獅子!”
シンハの輝きをまともに浴びた死霊は、一言叫んで退いた。
他の亡霊達も、彼に恐れをなして右往左往し、しまいには人魂となって空中で目まぐるしく飛び交い、回転し、交差した。
『かつて、汝らが神同然に
道を開けよ、亡者ども!』
大混乱の中、シンハが朗々と響き渡る声で命じると、潮が引くように、死霊達の気配が遠のいてゆく。
“静まれ、皆の者!”
その声と同時に、新たな死人が一人、近づいて来た。
身構えるシンハの前に進み出た死人は、胸に手を当て、軽く礼をした。
“彼らの無礼を許して欲しい、焔の獅子よ”
『ルキフェル……!?』
燃え上がる炎の輝きに照らし出されたのは、シンハさえも思わず見間違えてしまうほど、
サマエルに生き写しの青年だった。
ただし、青年の短く刈られた髪や瞳は漆黒、肌も浅黒かったが。
もし、ここに彼の最初の妻、ジルがいたなら、驚きに声を上げていたことだろう。
なぜなら、この青年の外見は、かつて南の島に新婚旅行へと出かけた際に、サマエルが変装した姿、そのものだったのだから。
“モト様、危のうございます”
先ほど退いた死霊が戻って来て、青年をかばおうとする。
“大丈夫だ、この瞳をご覧、彼は『焔の眸』に宿る精霊だ。
我らに害をなすわけがない”
青年は、かつての家臣を抑えた。
『おう、モトか』
シンハは感慨深げに、アナテの夫にして息子、初代の紅龍を眺めた。
モトもまた、サマエルに良く似た微笑を浮かべ、彼の揺らぐ瞳の炎を覗き込んだ。
“『焔の眸』よ、お前にやがて精霊が宿り、肉体を持つことになるということは、わが母にして妻、アナテから聞いていた。
お前は、ルキフェルと共に現れて、『紅龍の呪文』を覚えておくようにと、そして、わたしのそばにいるようにと言ってくれたそうだね”
ライオンは、同意の印に大きく頭を揺すった。
弾ける音を立てて紅い火の粉が飛び散り、緑の残像を残して消える。
『たしかに、我が化身の一人が、夢飛行にてアナテに会った。
“別の人格……フェレス……我らの種族の名を?”
不思議そうに、モトは首をかしげる。
そのしぐさもまた、サマエルに酷似していた。
『我が本体、“焔の眸”には現在、
モトよ、長き年月が経った……汝が紅龍となり、アナテに討たれて死に、生き残りし者が、当地、すなわち魔界に逃げ込んでのち、我らはもはや“魔族”になり果てた。
それゆえ、ルキフェル……汝の生まれ変わりは、真の種族名を、忘却の彼方へ押しやることを、良しとしなかったのであろう』
モトは、周囲をぐるりと仰ぎ見た。
“そうか……この、三代目の紅龍は、我ら祖先を覚えていてくれようとしたのだな”
『そうだ。そして我のみならず、ルキフェルの兄、現魔界王サタナエルは、弟王子を生け贄にはしたくないと考えておる。
弟と共に戦い、ウィリディスを取り戻したいと望んでおるのだ。
ルキフェルの犠牲の上に立つ勝利など、
“……そうだね。
わたしもこれ以上、自分やアナテのように苦しんだり悲しんだりする者は出したくないな”
『左様に思うのであれば、ルキフェルを返してくれまいか』
すると、モトは顔を曇らせた。
“そうしたいのは山々だが、もう手遅れかも知れないぞ”
『それはまた、何ゆえ』
“ルキフェルは捕らえられているのだ、ある者に”
『紅龍にか?』
青年は、否定の身振りをした。
“いや、もっと
というより、あれは、おそらく『神』に近き者……。
わたしは、道を示すことしか出来ないが、お前なら近づけるかも知れない。
『焔の眸』よ、お前自身も『神の
ライオンは、輝く瞳で青年を見据えた。
『……汝が近づけぬほど、力ある者ということか、モトよ』
“そうだ。それゆえ、お前一人では、ルキフェルを取り戻すのは難しいかも知れない。
いずれにせよ、急がなければ”
モトは先に立って歩き出した。