~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

7.夢の罠(2)

その後も、サマエルは目覚めず、ひたすら眠り続けていた。
目覚め直後は、処刑してやると息巻いていたタナトスも、さすがに一月が過ぎる頃には頭も冷え、“黯黒の眸”を連れて、紅龍城へ行ってみることにした。

「ダイアデム、見舞いに来てやったぞ。
サマエルのたわけめは、まだ起きんそうだな」
「ああ、見ての通りだよ。
お前に殴られんのがヤで起きないのかも……なんて、考えてもみたんだけど、さ」

サマエルの枕元の椅子に、ぽつんと座っていたダイアデムは、そう冗談めかして答えたものの、声には力がなかった。
その瞳にも、いつもの輝きはない。
豪華なベッドに、身動きもせず横たわる美貌の第二王子は、魔法にかけられて三百年もの間眠り続けたという、伝説の姫君のようだった。

「まさか、そんなわけはなかろう。
そこに澄ました顔で寝ている変態は、俺に殴る蹴るされても、今まで一度も心から嫌がっているようには見えなかったぞ。
口では一応、嫌と言いながらな」
タナトスは皮肉な笑みを浮かべつつ、眠る弟に向けて手を振った。

ダイアデムは、ひどいしかめ面を作って見せた。
「その後で、必ずお前が可愛がってやったからだろ。
食いもんと優しさ、愛情……全部に飢えてたサマエルが、三ついっぺんにくれるてめーを拒絶できるわけ、ねーだろーがよ。
──ったく、どっちが変態なんだか」
「ふん……」
少し良心の呵責(かしゃく)を覚え、タナトスはそっぽを向いた。

「それはともかく、どうして起きねーんだろな。
やっぱもう、オレらといるの、飽きちまったのかな……」
悄然(しょうぜん)とうなだれ、瞳をうるませる弟の妻の肩を、魔界王は軽くたたいた。
「ダイアデム、下らん自責の念や、非生産的な思考に溺れるな、サマエルでもあるまいし。
それよりも、どうやったら、この寝坊助をたたき起こせるか、考えた方がいい。
ああ、ついでだ、俺も呼んでみてやるか」
タナトスが念を送るも、やはり弟からの応答はない。

「……駄目か。
エッカルトの見立てでは、肉体的にはまったく問題がないそうだが。
まあ、しばらく眠っていたところで、別段害もあるまい。
ダイアデム、貴様が気をくれてやれば死ぬこともないのだ、気長に待っておれば、そのうち目覚めるだろうさ」

するとダイアデムは、魔界王をキッと睨んだ。
「何、呑気にほざいてやがんだ、タナトス! 相変わらずバカだな、お前!
ンな風にサマエルがいつまでも寝てたら、いずれ殺さなきゃなんなくなるだろーが!」
「何だと、どういう意味だ、それに人を馬鹿呼ばわりしおって!」
タナトスは頬を紅潮させ、宝石の化身を怒鳴りつける。

紅毛の少年は両の拳を握り締め、眼を怒らせた。
瞳の炎が、激しく火の粉を上げて燃え立つ。
「バカをバカっつって、何が悪りーんだよ!」
彼は叫び返し、指を四本立て、タナトスに突きつけた。

「考えてもみろ、天界との戦にゃ“四頭の龍”が必要なんだぞ、絶対にだ!
なのに、紅龍の、サマエルが寝たまんまだったら、どうなると思う!
一頭でも龍が欠けたら、天界にゃ勝てねーんだぞ!
そしたら……そしたら、結局は、こいつを生け(にえ)にして火閃(かせん)銀龍を呼び出すしか、勝つ方法がなくなっちまうんじゃんかよ──!」
紅毛の少年は、夫の眠るベッドに突っ伏して、激しく泣きじゃくり始めた。
布団の上には彼の涙が、いくつもの紅い宝石となって煌き落ちる。

「むう……」
タナトスには返す言葉がなかった。
たしかに、ダイアデムの言う通りだった。
もし、仮に、サマエルが目覚めないこんな状態で戦が始まってしまったら、四頭の龍は揃わず、第二の予言にある、天界に勝つための条件は成立しない。
その場合、魔界を勝利を導くためには、第一の予言に従い、自分がサマエルの心臓を食らって火閃銀龍となり、一頭で戦うしかなくなるだろう。
それでは、せっかく新たな予言を読み解き、弟を生け贄の運命から救い出そうとしたその努力も、すべてが水の泡になってしまう。

「──ち。まったく手のかかるたわけだ。
やはり、俺に殺されてしまいたいということなのか、それとも、何か他に理由があるのか?
最近は、こいつも、多少前向きになって来たと思っていたのだがな。
第二の予言を大々的に宣伝し、魔族達の戦意高揚に役立ててはどうか、などと言ったりもして……」
彼は腕組みをし、かたわらに黙してたたずむ“黯黒の眸”の化身に視線を向けた。
「ニュクス、何ゆえこやつが目覚めんのか、お前には想像がつくか?」

「そうよの、たしかにサマエルには、死を望む心持ちも強かろうが。
なれど、妾やおぬしにならともかく、“焔の眸”の呼びかけにも応じぬのは、少々()せぬな」
美女は細い首を優雅にかしげ、少し考えた。

「ふむ……もしかしたらサマエルは、祖先らの怨念に捕らえられておるのやも知れぬ。
力を使えば使うほど、闇に取り込まれる危険性も高くなるゆえ。
その場合には、“紅龍”を封じるため、サマエルは、おのれ自身の意思で眠っておることになる。
いずれにせよ、このままでは、自力で戻ることは難しかろう。
“焔の眸”よ、おぬしが行ってやれば、サマエルが戻って来られる可能性があるやも知れぬぞ」

それを聞いた途端、ダイアデムは泣き止み、勢いよく顔を上げた。
「──そっか!
オレが中に入って、死霊どもをぶっ飛ばし、連れて帰りゃいーんだな!」
「左様。“混沌の力”の内宇宙に入り込んで呼びかければ、サマエルからの応答も受けやすかろう。
妾が道を開き、導くゆえ、それに従って行け。
いかな困難が待ち受けておろうとも、固き信念を持って進めば、必ずやサマエルの心を取り戻すことができようぞ、我が兄弟」
黒衣の美女は、紅毛の少年に微笑みかけた。

“焔の眸”の化身は、ごしごしと涙をふき、輝くような笑顔を見せた。
「うん、分かった、オレ、行って来るよ。
そして、絶対サマエルを起こしてみせる!」
「何か、俺に手伝えることがあるか?」
タナトスが尋ねる。
「おぬしには、二人が戻るときに手を貸してもらいたい。妾一人では、やはり心許ないゆえ」
ニュクスが答えた。
「分かった。ダイアデム、終わったら合図を寄越せ、引っ張り出してやる。
無事に、あのたわけ者を連れ戻して来い」
「ああ、頼んだぜ」

ニュクスは、意識のないサマエルの額に手を当て、眼を閉じた。
ダイアデムも、反対側から同じようにした。
しばしの後、美女は、かっと眼を開けた。
「──道は開いた。飛び込め、“焔の眸”」
「よーし、んじゃ、行ってくっから!」
言うと同時に、ダイアデムの姿はかき消えた。

「……消えた。文字通り、サマエルの中に直接入り込んだのか」
「左様。他の者ならば、非常なる危険を伴うであろうが、“焔の眸”は我が兄弟、さほど長い時間でなくば、カオスの闇の中でもおのれを見失ったりはせぬ。
なれど……呪縛されたカオスの貴公子を、先祖らの妄執(もうしゅう)より解き放つのは、ひどく困難な作業となろうな」
美女は、難しい顔つきになった。

タナトスもまた、一月前の騒動と、その時受けたひどい苦痛を思い出し、眉間(みけん)にしわを寄せた。
「たしかに、一筋縄ではいかんだろうな。
同胞を虐殺された恨み、憎しみや悲しみ……それがサマエルの中に深く根を下ろしているとは、あのときまでは想像も出来なかったが、今は分かる。
俺の中にも、あのおぞましい怨念のかけらが残っていて、時折思い出したように、心を刺すからな……」

「妾自身が力を授けておいてかく言うのも何だが、生身の体に、あれほどの力を納めておけるのが、いっそ不思議なほどだ。
それも、サマエルがおのれの内に、巨大な“虚無”……心の空洞と言い換えてもよい……を、抱えておるからに他ならぬ。
されど、それは両刃の剣。
空洞があまりに大きくなれば、カオスの貴公子の人格は、闇に飲み込まれて消失し、“怒れる紅龍”が出現する」

「そうなれば、殺すしかなくなるわけだ。
“カオスの貴公子”は、今まで二度、そうやって殺されたのだったな、世界の破滅を防ぐために」
黒衣の美女は、黙ったままうなずいた。
タナトスは椅子を二つ、魔法で呼び出して彼女を座らせ、自分も座り込んだ。

「……酷い話だ。ガキの頃から、ヤツは心身共に追い詰められ、“カオスの貴公子”となるよう仕向けられて来た。
生け贄になるか、発狂して殺されるか、どちらにせよ、待っているのは死あるのみ……親父を恨むのも当然だな。
おまけに、知らんうちに、この俺までもがその片棒を担がされていたとは!
ヤツの女々しい性格は気に入らんが、親父のやり口はもっと腹立たしいわ!」
怒りに任せてタナトスは、左の拳を右の掌にたたきつけた。

「ベルゼブルは親子の情愛よりも、魔界の未来を取ったのだろう」
ニュクスは静かに言った。
「ふん、俺も今は魔界の王、魔族の将来を切り開く義務は俺にもある。
親父と同じ立場に立ったら……いや違う、他に方法があったはずだ、絶対!
──くそっ、俺としたことが、済んだことをいつまでも……だからヤツとは関わりたくないのだ!
あいつの存在は、取り返しのつかない過去につながっている気がして、苛々してくる!
全体のため、一人が犠牲になればよいという考えも、俺は気に食わん!」

頭に手をやったタナトスは、思いついたように顔を上げた。
「そうか、それで……俺は、今まで妃を娶る気になれなかったのだな。
たとえ、自分の子でも、可愛いがれんだろうとも思っていた。
親父と同じ(てつ)を踏むのを、無意識に避けたのか。
妃にしたいと思ったのは、お前を除けばジルだけで、彼女には、たしかに愛情を感じてはいた。
だが、愛というよりはむしろ、弟のものを奪い取ることに、ガキっぽい悦びを見出していただけかも知れん。
ジルはそれを察し、サマエルを選んだのだろう。その方がよかったのだ……」

「そういうものなのか?」
不思議そうに、美女は彼の瞳を覗き込む。
その黒々とした瞳に踊る、摩訶(まか)不思議な黄金の輝きを見返し、タナトスは答えた。
「ああ。お前といると、色々と見えて来るものがある。
以前、テネブレに、ガキのようだと言われたのも当然だな。
かつての俺は、いかに子供じみていたことか」
そして、彼は、王妃にすると決めた女性の手を取ろうとした。

ニュクスは微笑みながらも、それをかわした。
「今は、サマエルと“焔の眸”が心配だ」
「ちっ、そうだったな。
……にしても、せっかく四龍がそろい、これから戦を仕掛け、先祖の仇も討てると言うときに、その怨念に龍の一人、サマエルが捕らえられているとは、まったく間抜けな話だ」
タナトスは再び顔をしかめた。

怨霊(おんりょう)と成り果てた亡者(もうじゃ)達に、ものの道理を説くのは容易ではない。
あまりに長き年月に渡り苦しみ抜いてきた彼等は、もはや心を失っておると言っても過言ではないゆえ。
一歩間違えば、サマエルがその仲間入りをする可能性もあった……。
おお、“焔の眸”は、無事到着致したようだぞ」
そう言うと、ニュクスはダイアデムに念話を送った。
“これから導き手を送る、その後をついてゆけ、我が兄弟”