7.夢の罠(2)
その後も、サマエルは目覚めず、ひたすら眠り続けていた。
目覚め直後は、処刑してやると息巻いていたタナトスも、さすがに一月が過ぎる頃には頭も冷え、“黯黒の眸”を連れて、紅龍城へ行ってみることにした。
「ダイアデム、見舞いに来てやったぞ。
サマエルのたわけめは、まだ起きんそうだな」
「ああ、見ての通りだよ。
お前に殴られんのがヤで起きないのかも……なんて、考えてもみたんだけど、さ」
サマエルの枕元の椅子に、ぽつんと座っていたダイアデムは、そう冗談めかして答えたものの、声には力がなかった。
その瞳にも、いつもの輝きはない。
豪華なベッドに、身動きもせず横たわる美貌の第二王子は、魔法にかけられて三百年もの間眠り続けたという、伝説の姫君のようだった。
「まさか、そんなわけはなかろう。
そこに澄ました顔で寝ている変態は、俺に殴る蹴るされても、今まで一度も心から嫌がっているようには見えなかったぞ。
口では一応、嫌と言いながらな」
タナトスは皮肉な笑みを浮かべつつ、眠る弟に向けて手を振った。
ダイアデムは、ひどいしかめ面を作って見せた。
「その後で、必ずお前が可愛がってやったからだろ。
食いもんと優しさ、愛情……全部に飢えてたサマエルが、三ついっぺんにくれるてめーを拒絶できるわけ、ねーだろーがよ。
──ったく、どっちが変態なんだか」
「ふん……」
少し良心の
「それはともかく、どうして起きねーんだろな。
やっぱもう、オレらといるの、飽きちまったのかな……」
「ダイアデム、下らん自責の念や、非生産的な思考に溺れるな、サマエルでもあるまいし。
それよりも、どうやったら、この寝坊助をたたき起こせるか、考えた方がいい。
ああ、ついでだ、俺も呼んでみてやるか」
タナトスが念を送るも、やはり弟からの応答はない。
「……駄目か。
エッカルトの見立てでは、肉体的にはまったく問題がないそうだが。
まあ、しばらく眠っていたところで、別段害もあるまい。
ダイアデム、貴様が気をくれてやれば死ぬこともないのだ、気長に待っておれば、そのうち目覚めるだろうさ」
するとダイアデムは、魔界王をキッと睨んだ。
「何、呑気にほざいてやがんだ、タナトス! 相変わらずバカだな、お前!
ンな風にサマエルがいつまでも寝てたら、いずれ殺さなきゃなんなくなるだろーが!」
「何だと、どういう意味だ、それに人を馬鹿呼ばわりしおって!」
タナトスは頬を紅潮させ、宝石の化身を怒鳴りつける。
紅毛の少年は両の拳を握り締め、眼を怒らせた。
瞳の炎が、激しく火の粉を上げて燃え立つ。
「バカをバカっつって、何が悪りーんだよ!」
彼は叫び返し、指を四本立て、タナトスに突きつけた。
「考えてもみろ、天界との戦にゃ“四頭の龍”が必要なんだぞ、絶対にだ!
なのに、紅龍の、サマエルが寝たまんまだったら、どうなると思う!
一頭でも龍が欠けたら、天界にゃ勝てねーんだぞ!
そしたら……そしたら、結局は、こいつを生け
紅毛の少年は、夫の眠るベッドに突っ伏して、激しく泣きじゃくり始めた。
布団の上には彼の涙が、いくつもの紅い宝石となって煌き落ちる。
「むう……」
タナトスには返す言葉がなかった。
たしかに、ダイアデムの言う通りだった。
もし、仮に、サマエルが目覚めないこんな状態で戦が始まってしまったら、四頭の龍は揃わず、第二の予言にある、天界に勝つための条件は成立しない。
その場合、魔界を勝利を導くためには、第一の予言に従い、自分がサマエルの心臓を食らって火閃銀龍となり、一頭で戦うしかなくなるだろう。
それでは、せっかく新たな予言を読み解き、弟を生け贄の運命から救い出そうとしたその努力も、すべてが水の泡になってしまう。
「──ち。まったく手のかかるたわけだ。
やはり、俺に殺されてしまいたいということなのか、それとも、何か他に理由があるのか?
最近は、こいつも、多少前向きになって来たと思っていたのだがな。
第二の予言を大々的に宣伝し、魔族達の戦意高揚に役立ててはどうか、などと言ったりもして……」
彼は腕組みをし、かたわらに黙してたたずむ“黯黒の眸”の化身に視線を向けた。
「ニュクス、何ゆえこやつが目覚めんのか、お前には想像がつくか?」
「そうよの、たしかにサマエルには、死を望む心持ちも強かろうが。
なれど、妾やおぬしにならともかく、“焔の眸”の呼びかけにも応じぬのは、少々
美女は細い首を優雅にかしげ、少し考えた。
「ふむ……もしかしたらサマエルは、祖先らの怨念に捕らえられておるのやも知れぬ。
力を使えば使うほど、闇に取り込まれる危険性も高くなるゆえ。
その場合には、“紅龍”を封じるため、サマエルは、おのれ自身の意思で眠っておることになる。
いずれにせよ、このままでは、自力で戻ることは難しかろう。
“焔の眸”よ、おぬしが行ってやれば、サマエルが戻って来られる可能性があるやも知れぬぞ」
それを聞いた途端、ダイアデムは泣き止み、勢いよく顔を上げた。
「──そっか!
オレが中に入って、死霊どもをぶっ飛ばし、連れて帰りゃいーんだな!」
「左様。“混沌の力”の内宇宙に入り込んで呼びかければ、サマエルからの応答も受けやすかろう。
妾が道を開き、導くゆえ、それに従って行け。
いかな困難が待ち受けておろうとも、固き信念を持って進めば、必ずやサマエルの心を取り戻すことができようぞ、我が兄弟」
黒衣の美女は、紅毛の少年に微笑みかけた。
“焔の眸”の化身は、ごしごしと涙をふき、輝くような笑顔を見せた。
「うん、分かった、オレ、行って来るよ。
そして、絶対サマエルを起こしてみせる!」
「何か、俺に手伝えることがあるか?」
タナトスが尋ねる。
「おぬしには、二人が戻るときに手を貸してもらいたい。妾一人では、やはり心許ないゆえ」
ニュクスが答えた。
「分かった。ダイアデム、終わったら合図を寄越せ、引っ張り出してやる。
無事に、あのたわけ者を連れ戻して来い」
「ああ、頼んだぜ」
ニュクスは、意識のないサマエルの額に手を当て、眼を閉じた。
ダイアデムも、反対側から同じようにした。
しばしの後、美女は、かっと眼を開けた。
「──道は開いた。飛び込め、“焔の眸”」
「よーし、んじゃ、行ってくっから!」
言うと同時に、ダイアデムの姿はかき消えた。
「……消えた。文字通り、サマエルの中に直接入り込んだのか」
「左様。他の者ならば、非常なる危険を伴うであろうが、“焔の眸”は我が兄弟、さほど長い時間でなくば、カオスの闇の中でもおのれを見失ったりはせぬ。
なれど……呪縛されたカオスの貴公子を、先祖らの
美女は、難しい顔つきになった。
タナトスもまた、一月前の騒動と、その時受けたひどい苦痛を思い出し、
「たしかに、一筋縄ではいかんだろうな。
同胞を虐殺された恨み、憎しみや悲しみ……それがサマエルの中に深く根を下ろしているとは、あのときまでは想像も出来なかったが、今は分かる。
俺の中にも、あのおぞましい怨念のかけらが残っていて、時折思い出したように、心を刺すからな……」
「妾自身が力を授けておいてかく言うのも何だが、生身の体に、あれほどの力を納めておけるのが、いっそ不思議なほどだ。
それも、サマエルがおのれの内に、巨大な“虚無”……心の空洞と言い換えてもよい……を、抱えておるからに他ならぬ。
されど、それは両刃の剣。
空洞があまりに大きくなれば、カオスの貴公子の人格は、闇に飲み込まれて消失し、“怒れる紅龍”が出現する」
「そうなれば、殺すしかなくなるわけだ。
“カオスの貴公子”は、今まで二度、そうやって殺されたのだったな、世界の破滅を防ぐために」
黒衣の美女は、黙ったままうなずいた。
タナトスは椅子を二つ、魔法で呼び出して彼女を座らせ、自分も座り込んだ。
「……酷い話だ。ガキの頃から、ヤツは心身共に追い詰められ、“カオスの貴公子”となるよう仕向けられて来た。
生け贄になるか、発狂して殺されるか、どちらにせよ、待っているのは死あるのみ……親父を恨むのも当然だな。
おまけに、知らんうちに、この俺までもがその片棒を担がされていたとは!
ヤツの女々しい性格は気に入らんが、親父のやり口はもっと腹立たしいわ!」
怒りに任せてタナトスは、左の拳を右の掌にたたきつけた。
「ベルゼブルは親子の情愛よりも、魔界の未来を取ったのだろう」
ニュクスは静かに言った。
「ふん、俺も今は魔界の王、魔族の将来を切り開く義務は俺にもある。
親父と同じ立場に立ったら……いや違う、他に方法があったはずだ、絶対!
──くそっ、俺としたことが、済んだことをいつまでも……だからヤツとは関わりたくないのだ!
あいつの存在は、取り返しのつかない過去につながっている気がして、苛々してくる!
全体のため、一人が犠牲になればよいという考えも、俺は気に食わん!」
頭に手をやったタナトスは、思いついたように顔を上げた。
「そうか、それで……俺は、今まで妃を娶る気になれなかったのだな。
たとえ、自分の子でも、可愛いがれんだろうとも思っていた。
親父と同じ
妃にしたいと思ったのは、お前を除けばジルだけで、彼女には、たしかに愛情を感じてはいた。
だが、愛というよりはむしろ、弟のものを奪い取ることに、ガキっぽい悦びを見出していただけかも知れん。
ジルはそれを察し、サマエルを選んだのだろう。その方がよかったのだ……」
「そういうものなのか?」
不思議そうに、美女は彼の瞳を覗き込む。
その黒々とした瞳に踊る、
「ああ。お前といると、色々と見えて来るものがある。
以前、テネブレに、ガキのようだと言われたのも当然だな。
かつての俺は、いかに子供じみていたことか」
そして、彼は、王妃にすると決めた女性の手を取ろうとした。
ニュクスは微笑みながらも、それをかわした。
「今は、サマエルと“焔の眸”が心配だ」
「ちっ、そうだったな。
……にしても、せっかく四龍がそろい、これから戦を仕掛け、先祖の仇も討てると言うときに、その怨念に龍の一人、サマエルが捕らえられているとは、まったく間抜けな話だ」
タナトスは再び顔をしかめた。
「
あまりに長き年月に渡り苦しみ抜いてきた彼等は、もはや心を失っておると言っても過言ではないゆえ。
一歩間違えば、サマエルがその仲間入りをする可能性もあった……。
おお、“焔の眸”は、無事到着致したようだぞ」
そう言うと、ニュクスはダイアデムに念話を送った。
“これから導き手を送る、その後をついてゆけ、我が兄弟”