~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

6.裏切りの貴公子(5)

「ちょっと待ってろ、サマエル」
ダイアデムは、夫の頭を膝から外してそっと床に横たえ、痛みにうめく老公爵に駆け寄った。
「大丈夫か? 今、治してやっからな。
──フィックス!」
「おお、かたじけない」
傷はすぐに癒え、プロケルは礼を言って立ち上がる。

サマエルは、ひじをついて半身を起こし、頭を下げた。
「プロケル、行きがかり上とはいえ、ひどいことをして済まなかった」
輝く髪がさらさらとまといつき、その美しい顔を隠す。
「かくなる上は、反逆者として、私を告発するのだね……」
「何を仰います、先ほどのことは、すべて芝居だったのでございましょうに」
プロケルは、王子のそばにひざまずいた。

サマエルは顔を上げ、真っ直ぐに彼を見た。
「本気でそう思っているのか? 私は二人を手にかけ、王位を簒奪(さんだつ)しようとしたのだぞ」
「いいえ、それは、あなた様が仰っていらした通り、兄君様の窮地(きゅうち)を救わんがため。
つまりは、深い仔細(しさい)がおありになってのことと、それがしは理解致しております」

かすかに微笑み、第二王子はゆっくりと否定の仕草をした。
「騙されやすいねぇ、お前は。そんなに簡単に信じては駄目だよ。
罪を逃れるためには、どんな嘘も平気でつき、その場を取り(つくろ)おうとする……犯罪者とは、そういうものなのだから。
まずは、相手を疑ってかからなければいけないよ」

プロケルもまた、かぶりを振った。
「いえ、それがしには、やはり、あなた様が反逆者であるとは思えませぬよ」
第二王子は首をかしげた。
「……それはなぜ? 確信があるような口ぶりだ」
「ならば、お尋ね致しましょう。
兄君様を足蹴(あしげ)になされた時、何ゆえ素足になられたのですかな?」
氷剣公は、床にバラバラに転がった彼の靴を指差した。

「……目ざといね。偶然脱げたのさ。私も興奮していてね」
サマエルは指を一振りし、魔法で靴を履く。
「いえ、それがしのときもまた、あなた様は、靴をわざわざお脱ぎになられた。
しかも、蹴る力も弱いものでしたな。
まあ、あの時は、そこまで頭が回りませなんだが。
……ご幼少の(みぎり)より、あなた様は、本当にお優しいお方でございますなぁ」
彼を見る、プロケルの眼差しは温かかった。

サマエルは暗い目つきになった。
「そんなことを言うなら、お前に聞こう。
もし、私とタナトスの立場が逆だったら、お前は、さっきタナトスをかばったように、私をかばってくれたのか?」

プロケルは息を呑み、それから眼を伏せ、口の中でもぐもぐと言った。
「そ、それは……それがしの忠誠は、魔界王家に向けられておりますれば……」
「王家に忠誠を誓っているから、王が誰だろうと関係ない、か?
ああ、そういえば、昔、私が腹を空かせて死にかけていたとき、こっそり菓子をくれたことがあったな……」

「さぞかしお恨みなのでしょうな、それがしのことも。
結局は、あなた様を、お救いすることは出来ませなんだ」
元魔界公爵はうなだれた。
王子は肩をすくめ、あいまいな笑みを浮かべたが、眼は笑っていなかった。
「……さあね。私が何と答えようと、お前の心だけが真実を知っている。
お前自身に聞くがいい、それが答えだよ」

「おい、サマエル、あんま年寄りをいじめんじゃねーよ」
ダイアデムが口を挟む。
サマエルは首を横に振った。
「いじめてなどいないよ。
魔力もなく、王位に就けそうもない落ちこぼれの王子より、自分が大事……至極当然のことだろう?
ましてや、根暗でうじうじしている私などより、タナトスの勇猛果敢(ゆうもうかかん)な性格の方が好ましいと、武人のプロケルが感じるのも当然だ」

「ま、プロケルならそうだろな。けど、やっぱ、オレはタナトスよか、お前の方が好きだぜ」
「……そう。ありがとう。
でも、どうしてだね? タナトスの方が男らしいし、頼りがいがあるだろうに」
「だって、乱暴なヤツってヤだし。それに理屈じゃなく、オレはお前がいーんだ」
ダイアデムは、彼に笑いかけた。

かつて、あれほど自分を恐れていた彼が、今は無条件に信頼を寄せて来る。
紆余(うよ)曲折の末、ようやく彼の愛を勝ち得たというのに、その笑顔が胸に突き刺さるように感じられて、サマエルは眼をそらした。

「愛しい妻がいて、理解者も見つけ、兄とも和解した……なのに、どうして私は、これほどまでに世界を憎んでしまうのだろう……。
すべてを破壊し、無にしてしまいたい、そんな衝動を時々抑えられなくなる……あ」
「危ない」
立ち上がろうとしてよろけたところを、とっさに支えた勢いで、プロケルは、第二王子を抱きしめる形となった。

「……プロケル。お前も私を抱きたいのか?」
「い、いえ、滅相もございませぬ、これは弾みで……失礼を」
うろたえて放そうとする老公爵に、サマエルはしがみついた。
「お前ならいいよ。抑えたつもりだったのに、ひどい火傷を負わせてしまった。
罪滅ぼしに、好きなだけ、私を目茶目茶にすればいい……」
誘うように、魔族の王子は甘くささやく。

実直な氷剣公は真っ赤になった。
「何を仰います、そちらに奥方様がおいでなのですぞ」
「構わねーぜ、抱いてやれよ、プロケル。
けど、サマエル、お前、こんなジジイも守備範囲なんか?」
「な、何と!?」
けろりとしたダイアデムの答えに、プロケルの細長い瞳孔は真ん丸になった。

「彼は、古代のフェレスに一番近い種族だからね。
とても綺麗な眼だ……」
うっとりと、第二王子は公爵の猫眼を覗き込む。
「い、いけませぬ、お放し下され、サマエル様……!」
絡みついて来る彼の腕を、プロケルはどうにか振りほどいた。

悲しげにうなだれ、サマエルはローブをかき合せた。
「皆が食べ物の見返りに、私の体を汚していたあの頃も、お前だけは私を求めなかったな。
お前がくれた小さなケーキ……あれのお陰で、どうにか二日ほどは、体を売らずに済んだよ。
でも、本当のところ、お前は私を軽蔑していたのだろう?
王子ともあろう者が、とね……」

老公爵は顔を紅潮させた。
滅相(めっそう)もございませぬ、軽蔑などと!
あの後、それがしは、ベルゼブル陛下に進言致しましたのです、今のままでは王子殿下がお気の毒に過ぎまする、せめて、お食事だけでもと!
ですが、陛下の逆鱗に触れ、これ以上差し出た口を利くようなら、侯爵位を剥奪して領地を没収、さらには一族郎党、ことごとく処刑すると……仕方なく、それがしは引き下がり……」

「そう、やはり」
静かな第二王子の声は、まくし立てていた氷剣公の口を閉ざさせた。
「お前の好意はうれしいけれど、陛下がそうまでお怒りになるほど、私の死を望んでいらしたとはね……」
サマエルの瞳は、底知れぬ悲しみで満たされていた。

「も、申し訳ございませぬ、余計なことを申し上げました。
されど陛下は、それがしの無礼な言い草にご立腹され、弾みで仰られたのでございますから……」
プロケルは蒼白になり、額の汗をぬぐう。

サマエルは首を横に振った。
「いいや、陛下は本気で、私を餓死させるおつもりでいたのだろう。
その前に、叔母上がお元気になられて果たせなかったから、今度は生け贄にと……」
「ま、まさか、左様なことは!」
震える声で、老公爵は懸命に否定する。

「いいのだよ、プロケル。私はそれでいいと思っていた。
死を夢見て生きて来たのだ……あの方の仰せの通りに、死ぬためにね。
そして、もう少しで死ねると思っていたのに、この頃は、皆が私に『生きろ』と言う……。
顔を合わせるたび、憎々しげに死ねと言っていたタナトスでさえ、『生け贄になる必要はない』などと言い出す始末だ……。
でも、死ぬことだけを考えて来た私は、生きろと言われても、どうしたらいいのか、分からないよ……」
第二王子は顔を覆った。

少しの間、そんな彼を痛ましそうに見ていた公爵は、意を決したように口を開いた。
「サマエル様。もう、許して差し上げてはいかがですかな」
「……許す? タナトスのことなら……」
「いえ、あなた様ご自身のことを、でございますよ」
「えっ!?」
サマエルは珍しく驚きを面に表し、元公爵をまじまじと見た。

「ご自分をお許しになられれば、おそらく、もっと生きるのが楽になることと存じますぞ。
お小さい頃のあなた様を、許して差し上げなさいませ。
そして、童子を扱う時のように優しく()めるのです、このように」
再びプロケルは王子を抱き寄せ、さらには、幼い子供にするように頭をなでた。
「サマエル様、今まで、よく頑張りなさいましたな、よくぞ生きて来て下さった。
後はもはや、ご自分の幸福のみをご追及なさればよろしいのです」

一瞬、けげんそうな顔で老公爵を見た第二王子は、すぐに透き通るような笑みを浮かべ、その胸に頬を寄せた。
「ああ、温かいな……。
僕が幸せなのはね、“大っきいにゃんこ”といるときなんだ。
あとね、甘いお菓子を食べてるとき。あなたがくれたの、とっても美味しかったなぁ。
それとね、ベルゼブル陛下に褒めてもらうとき……あ、でも、まだ褒めてもらったこと、ないんだけどね。
陛下は、僕が生け贄になれば、皆が幸せになるって仰ったよ。
僕も、母様のところへ行ける。そして、お空の上から、皆が喜んでるところ、見るんだ。
だから、僕は死ななくちゃいけないの。そしたら、陛下は褒めて下さるよ、ね……?」

幼児のような口調で話していたサマエルの目蓋が、ゆっくりと閉ざされた次の瞬間、いきなり体から力が抜けた。
「い、いかがなされました!?」
ぐったりとした王子を、慌てて老公爵は抱き止める。
「心配すんな、寝ただけだ。世話かけちまって悪かったな、プロケル。
こいつの『抱いて』ってのは、ガキの『だっこ』とおんなじなんだ。
さ、こっちにくれ」
落ち着き払ってダイアデムは、両手を差し出す。

「……は。されど、サマエル様は、幼少時の心の傷がまだ癒えておいでではないのですな」
ほっとしたプロケルは王子を渡し、受取った少年は、夫を魔力で浮かせた。
「んでも、最近は、かなり前向きになってたんだぜ。
また子作りしてみっか、とか言ったりしてよ。
やっぱまだ、洗脳が解けてねーんだろな」
「左様で。やはり、魔界に戻っていらしたために……お辛い記憶ばかりですからな」

「……そうだな。
ああ、タナトスに言っとけ。サマエルが起きるまで、オレらは紅龍城にいる、逃げも隠れもしねーから、反逆罪で処刑すんならしろって。
ま、でっけー猫と甘いもん、親父に褒められんのが好きで、自分より皆が幸福なのがイイなんてヤツに、野望なんてあるわきゃねーけどな」
ダイアデムは肩をすくめた。

「いいえ。
タナトス様のお怒りがどれほど激しくとも、老い先短いこの命に賭けて、あなた方に対する処罰はお止め申し上げますよ」
力強く、プロケルは請合った。
「そっか、ありがと」
貴石の化身は微笑んだ。

その瞳の輝きに、老貴族も笑顔で応え、胸をたたいた。
「万事、それがしにお任せ下され」
「うん。
……けど、サマエル、お前、ちっとやり過ぎだぞ。
あんな無茶すりゃ、タナトスが殺してくれるとでも思ったんか?」
ダイアデムは、愛しそうに王子の顔を両手で挟み、色あせた唇に口づけた。