6.裏切りの貴公子(4)
そのとき、怒りに
“待っておくれ、タナトス。何かいわくありげだ。
そう急くこともあるまい、ルキフェルの話を聞こうではないか”
「話を聞くだと!? 何を言っている!
ニュクス、こやつらは、俺とお前を裏切り、殺そうとしたのだぞ!」
興奮冷めやらぬまま、魔界王は、二人に向かって指を振り立てた。
それに対して、一番ひどい目に遭ったはずの美女は、
「なれど、妾はこうして生きておろう。
それに、先ほどまでの様子では、どうやら“焔の眸”は、この件には関与しておらぬように見受けられるが」
「しかしだな!」
「よしんば、カオスの貴公子が、この肉体を消滅させたところで、再び新しき体を、おぬしが創り出せば良いだけのこと。
タナトスよ、何をいきり立っておるのだ?」
いかにも不思議そうに尋ねる“黯黒の眸”の化身に、魔界の王は切ない眼を向けた。
「ニュクス、俺達はそうは考えないのだ。俺にとってお前は、かけがえのないものだ……。
傷つけられたり、消されたりすれば、心が痛む……」
「ふむ、生き物の心とは、そのような動きをするものか。
されど、怒りに任せて行動するは、魔界の王に有るまじき行為であろう。
ましてや、“焔の眸”は、たった一つの我が兄弟。仮に、まきぞえで消滅するとなれば哀れだ……。
おぬしの怒りは一時棚上げして、何ゆえルキフェルが、かようなことを仕出かしたか、理由を聞いてはもらえまいか。
処罰は、その後でも遅くはあるまい、どうか……」
ニュクスは、祈るように手を組み合わせる。
最愛の女性に
「……むう、お前がそう言うなら仕方がない、弁明の機会をやるとしよう。
たしかに、“焔の眸”には罪はなさそうだ。
どうせ、この下らん茶番はすべて、こやつが一人で考えたに決まっているからな」
そう言うと、タナトスは、ライオンの滑らかな毛並みに顔を
「おい、サマエル! なぜ、こんなことをしたのだ、俺達に分かるように説明しろ!
聞こえんのか! 理由を言え!」
幾度も揺さぶられて、ようやく第二王子は顔を上げる。
「……あ、あ、誰……何?」
だが、その表情は虚ろで、眼は何も見てはいない。
タナトスは苛つき、弟のえり首をつかんだ。
「サマエル、俺だ、タナトスだ、わけを言えと言っているのだ!」
「何でしょう、兄上……もはや、私は死んでいく身……。
今さら、あなたを騙した理由など、どうでもいいことでしょう……?
早く殺して下さい……それが……それだけが、私と彼の望みです……」
サマエルの答えは、眼差し同様、ぼんやりしていた。
「何、寝言をほざいている! このたわけ者めが、しっかり眼を覚まして説明せんか!
せっかくニュクスが、貴様に弁明の機会をやると言っているのだぞ!」
タナトスは勢いよく、弟の頬を張った。
『グルルル……』
シンハは、不機嫌そうに喉の奥で唸り、元の主を睨んだ。
それでも、ビンタを食らったことで、サマエルは多少なりとも頭が働くようになったようだった。
ようやく、眼の焦点は兄に結ばれ、彼はのろのろと答えた。
「……なぜ、こんなことをしたか……?
ああ、お前と同じことをしてみたまで、だよ……。
お前は昔から、私やジルや他の人々に、よくこういった悪ふざけを仕掛けていただろう……それを、私も真似してみただけさ……。
でも、こんなことの、どこが楽しいのだ? 私には、さっぱり分からない……」
「何ぃ、貴様! 悪ふざけをしただけだと言う気か!
やはりぶち殺してくれる!」
「待てと申すに、タナトス」
再び、弟王子の首に手をかけようとする主をニュクスは押し留め、それからカオスの貴公子に向けて言った。
「ルキフェル、それのみが理由ではあるまい。
正直にわけを話しておくれ、“焔の眸”を、道連れにするのを哀れと思うのなら……」
サマエルは、眠たげな目つきで彼女を見、それから、ゆっくりとライオンの黄金の毛並みをなでた。
シンハは紅い眼を細め、猫のようにゴロゴロと喉を鳴らして、彼の手に頬をすりつける。
魔界の獅子の、信頼し切った様子を眼にした第二王子は頭を振り、意識をハッキリさせると答えた。
「そうだね……彼に罪はない。分かったよ、すべてを話そう。
タナトス、どの道、すべての
たとえ、私の話が気に入らなくても、処刑するのは私だけにして欲しい、“焔の眸”を、壊したりしないでくれないか」
「ちっ、頼まれんでも壊したりはせん、
「ありがとう。ああ……その前にまず、一つ、質問していいかな」
「回りくどいヤツだな、何だ、早く言え!」
気の短いタナトスは、焦れて地団駄を踏む。
「では……タナトス、お前さっき、“闇の力”を屈伏させるのに、どれくらいの時間がかかった?」
「ふん、三十分かそこらだ、あんな程度のものを押さえつけるのに、何時間もかかってたまるか」
その声は、幾分自慢げだった。
サマエルは微笑んだ。
「……そう。では、愛しい女性が生きるか死ぬかの瀬戸際でなかったら、どうだったのだろうね……」
「それはどういう意味だ!」
サマエルは、遠くを見るような目つきになった。
「覚えているだろうが……かつて、私が“カオスの試練”を受けたとき、紅龍の塔を出るまで二十年以上もかかった……。
子供だった上に、吸収しなければならない闇の力、祖先の怨念が膨大だったこともあってね……。
分かるかい、タナトス。あの苦痛が、何日も何年も、延々と続くのだ……眠ることも出来ず、気を失うことすら許されず……いつ果てるとも知れない、激烈な苦しみが……。
やっと解放されたとき、私はすべてを憎んでいた。
何をどう努力しても、決して振り向いては下さらないベルゼブル陛下……そして、ことあるごとに辛く当たってくるお前、この力を授けた“黯黒の眸”……さらには、産んで下さった母上さえもね……。
そして、何より、自分という存在を憎んだのだ……。
お前の場合は、私よりは短く済むとは思った。
だが、もし長引いてしまうと、せっかく“黯黒の眸”を受け入れる気になったのが逆転して、憎むようになってしまうかもしれない……ともね……。
それに、私は軟弱者だから、自分と同じ苦痛を感じている者を目の前にして、黙っていられなかったのだ……」
「ふん、それゆえ、わざと俺を怒らせて、早く終わらせようとしたとでも言う気か?
そんな見え透いた弁明が、俺に通じるとでも思っているのか、貴様」
うさんくさそうに、タナトスは鼻を鳴らす。
サマエルの
「信じてくれなくていい……ただ、私を殺した後は、“焔の眸”を再び魔界へ……。
宝物庫の奥で静かに過ごさせてやって欲しい……いえ、過ごさせて頂けないでしょうか、兄上……タナトス陛下……」
「また始まったな、この性格
貴様の言うことなど、簡単に信じてたまるか!」
「ですから、信じて頂かなくていい……と申し上げているでしょう、兄上……。
私はもう、自我のほとんどを“カオス”に食われてしまい、ただ、“焔の眸”……妻のことだけが気がかりで、こちら側……正気の側に留まっているのみ、なのですから……」
サマエルは
その時、再度
彼は、サマエルの頭を自分の膝に乗せてやり、タナトスを見上げた。
「タナトス、残りの話は、もうちょい後にしてくんないかなぁ?
こいつ、心身ともに疲れ切っちまってるんだ……。
オレが分かる範囲でなら答えるし、気が治まらねーって言うんなら、オレが代わりに、殴られるからよぉ」
その言葉に、サマエルは、ぱちりと眼を開けた。
「それは駄目だ、ダイアデム。
たしかに、今の私は筋道立てて話はできそうにもない……けれど、殴られることは出来る……意識を手放してしまえば……苦痛は感じない……」
「ンなコトしたら、回復がよけー遅れるだけじゃんか、その方がダメだろ!」
「うるさいぞ、貴様ら!
回復など必要ない、俺が今すぐ息の根を止めてくれる!」
タナトスが緋色の眼を燃え上がらせると、ダイアデムは体を張ってサマエルをかばい、叫んだ。
「だったら、さっきも言ったみてーに、オレも殺しゃいーだろ!
大体、オレが全部悪いんだから。
オレが肉体を持ってなきゃ、サマエルは魔力を封印されず、ベルゼブルももう少し、こいつを可愛がっただろうし、そしたら、タナトス、お前だって、サマエルに優しくしてやることが出来て……こんな風に、兄弟でいがみ合ったりもしなくて済んだんだから……!
さあ、殺れよ、二人一緒に!」
「ふん、言われなくても……」
タナトスは言いかけたが、腕を引かれてはっと振り向いた。
眼に涙を一杯ためて、“黯黒の眸”の化身が彼を見ていた。
「これは……この感情が、悲しみ、か……? 心が引き裂かれそうな……。
この感情を妾は楽しみ、食らって来た……それが我が身に起こると、これほど苦しいものとは、知らなんだ……。
タナトス、助けておくれ。どうすればよいのだ、この胸の痛み、苦しみ……妾は……」
その漆黒の瞳から、ついに涙があふれ出す。
「どうしたのだ、落ち着け、ニュクス」
タナトスは、美女の肩をつかみ、軽く揺さぶる。
「妾は……多くの死を見て来た……自身が手を下したことも数え切れぬ……。
なれど今、我が兄弟、そして力を授けし“カオスの貴公子”……それが目の前で死んでゆく……それを助ける術もない……何となれば、妾は主人たる魔界王に逆らえぬゆえ……。
“焔の眸”よ、おぬしの心、その悲しみを……妾は初めて理解した……」
身を震わせる黒衣の美女の眼から流れ出、床に滴り落ちて出現するのは、闇色をした宝石。
それは、この世のどんな物質よりも硬い、最高級の黒ダイアモンドだった。
今ここで、彼らを殺せば、ニュクスの心も砕け散ってしまうに違いない。
タナトスは密かに舌打ちしたが、彼女だけでなく、自分自身も弱り果てているのに気づいた。
「分かった、こやつらは殺さん。言い訳を聞くのも後回しだ。
疲れているのだろう、ニュクス。今日は、いちどきに色々ありすぎた」
その刹那、ニュクスは、ふらっとタナトスの腕の中に倒れ込んだ。
「ニュクス!」
ふらつく足を踏ん張り、タナトスは彼女を抱き上げた。
「ダイアデム、今度こそ俺達は休むぞ。一週間後に話を聞いてやるから、その間は顔を見せるなと、そのたわけに言っておけ!
ああ、そうだ、忘れずにプロケルも看てやるがいい。
──ムーヴ!」
タナトスは、自分のベッドにニュクスを横たえると、その隣に倒れ込み、あっという間に眠りに落ちた。