~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

6.裏切りの貴公子(3)

「ふふ……タナトス、お前が闇と同化するのも、もうすぐだ。
闇に(とら)われ漆黒の龍と化し、地下迷宮の主として、永遠に彷徨(さまよ)い続けることになるのだろう……おのれが、かつて何者だったのかも忘れてね。
それとも、闇の支配に耐え切れずに、死んでしまうのかな……。
うらやましいよ、どの道、お前はもうすぐ、悩みも悲しみも苦痛も、何も感じなくなってしまえるのだからね……」
サマエルは、うっとりとした目つきで、息も絶え絶えの兄を見る。

「おお、ルキフェル、どうか、どうか、タナトスを許しておくれ……妾は、どうなってもよいから……」
懇願するその声に、第二王子は、思い出したように手の中の美女に視線を戻す。
「……ああ、ニュクス。
可哀想に、お前の最愛の人は、何も言い遺してくれないようだよ、冷たいものだね。
でも、今、ああしてタナトスが苦しんでいるのは、お前の力のせいなのだから、仕方がないとも言えるかな。
さあ、もう、終わりにしてあげようね。
──エンサングイン!」
サマエルの呪文に応え、空中に、(まばゆ)い黄金の短剣が現れた。

「き、貴様、何をする気だ……!?」
はっと我に返ったタナトスの額から、嫌な汗がにじみ出て来る。
「お前も、“黯黒の眸”の化身、そう簡単には死ねないだろう。
でも、これで心臓をえぐり出し、潰してしまえば、さすがに生きてはいられないだろうね……ふふふ」
魔眼を暗く輝かせて、第二王子は短剣を手に取った。

「やめろ、サマエル!」
そして、叫ぶタナトスを尻目に、ニュクスのドレスの胸元を切り裂いた。
びくりとする美女を、サマエルは、女性的な外見には似合わぬ力で押さえつけ、(あらわ)になった震える胸に、冷たく光る刃をあてがう。

「さよなら、ニュクス。後で私が、もっと美しい体を創ってあげるよ。
こんなつまらない男のことなど忘れて、“焔の眸”と三人、楽しく暮らそうね」
「やめろ──っ!」
弟の残虐行為を止めようと、タナトスは必死に叫ぶ。
だが、ごくわずか持ち上げることの出来た拳を、狂った弟にたたき込むだけの力は、彼には残されてはいなかった。

そして、彼の見ている前で、とうとう美女の豊かな胸に、鋭い短剣の切っ先が、ざくりと食い込んだ。
「あああっ!」
激しく身もだえするニュクスの傷口から、鮮血がほとばしり、白い胸を紅く濡らしていく。
「タ、ナトス、助け……」
救いを求めて、“黯黒の眸”の化身は、血にまみれた手を差し伸べる。
「ニュクス──!」
タナトスもまた、必死に腕を伸ばすが、周囲に渦巻く黒い霧に(はば)まれて、彼女には届かない。

「無駄だよ、ニュクス。
こんな男に助けを求めても。自分一人の身さえ救えない、情けない男などに。
それに、お前はずっと、私を求めていただろう?
私が人界に去った後でさえ、お前の下へ戻って来るよう、仕向けたりして。
だが、もう、私はお前を拒絶したりしない、“焔の眸”と共に、魔界の玉座に君臨する私のそばにいておくれ……これが誓いの印だ!」
言うが早いかサマエルは、短剣をニュクスの胸に突き立てた。

「──ひいっ!」
美女の(つや)やかな唇から、悲鳴と共に、ばっと血が吐き出される。
「ニュクス──やめろ、サマエル、この気違いめ!」
タナトスは声を張り上げるも、狂気に侵されたサマエルには聞こえた様子もなかった。

「可哀想に、ニュクス、痛いのだろうね?
私も痛かった……そして、苦しんだよ、“カオスの試練”の間中ね。
でも、死ねなかった……ベルゼブル陛下に、自分を認めてもらえるのは、この機会しかないと思い、必死に耐えたのだ……今考えると、お笑い草だけれど。
やはり、私は、あの時に死んでしまえばよかったのだね、そしたら、お前をこうして殺さずに済んだのに。
本当に、私は罪を犯すためだけに、生まれて来てしまったのだな……。
ねぇ、タナトス。どうして子供の頃、私を殺してくれなかったのだい。
そうしていたら、私は、こんなひどいことをせずにすんだのに。
いや、お前だけでなく、ベルゼブル陛下もシンハも、私を汚した男達、女達も……なぜ、誰も、私を……殺してくれなかったのだろう……」

サマエルの口調は暗く沈み、視線は宙をさ迷っていたが、その手元はゆるぎない。
まるで見えているかのように手際よく、突き立てた短剣を下へと動かし、宝石の化身の胸を縦に切り裂いてゆく。
「ああ……ああ、ああ……」
ニュクスの唇からは血の気が失せ、大きく見開かれた黒い眼からも光が消え、もはや何も見ていなかった。

「ニュクス、ニュクス、ニュクス、ニュクス──!」
自分の身を切られてでもいるかように、タナトスは心に鋭い痛みを感じ、最愛の女性の名をひたすら繰り返す。
懸命に起き上がろうと床をかきむしるものの、体は相変わらず鉛のように重く、まったく自由が利かない。

「……ああ……」
そうこうするうち、ついに“黯黒の眸”の化身は気を失った。
「よかった。ようやくこれで、終わりに出来る」
ほっとしたように、サマエルは美女の体を横たえる。

「やめろ──!」
そして、弟王子は、タナトスの悲鳴に近い声を背景に、短剣を持ち直し、傷が十字になるよう、今度は横に切り裂いていく。
再び大量の血糊が飛び散り、返り血を浴びて紅く染まった弟王子の唇には、凄艶(せいえん)な笑みが張りついていた。

「今度こそ、私はお前を受け入れ、お前は私のものとなる。
だが、“黯黒の眸”よ、案ずることはない。これは死ではなく、再生の儀式なのだから……」
第二王子は、意識のないニュクスに顔を近づける。
血の気が引いた唇に、サマエルの唇が触れようとした、そのときだった。
内外から、タナトスの体を飲み込もうとしていた暗黒の力が、四方に飛び散ったのは。

「──ニュクスから離れろ、この色魔!」
解放された魔界王は、それまで彼を縛りつけていた闇の力を束ね、弟めがけて投げつけた。
「おっと」
それを予期していたかのごとく、サマエルは、覆いかぶさっていた美女から体を離し、優雅に身をかわす。

それまでのタナトスならば我を忘れ、そのまま弟に突っ込んでいったことだろう。
しかし、彼は深追いはせず、胸を切り裂かれて大量に出血し、ぐったりしているニュクスに駆け寄った。
「ニュクス! しっかりしろ!」
急いで彼女の脈を取る。幸いなことにまだ息はあった。

安堵して、彼は治癒魔法を唱えた。
「──フィックス!」
見る間に無惨な傷はふさがり、肌は元の滑らかさを取り戻す。
そしてニュクスは、ぱちりと目覚めた。
「タナトス……?」
「ニュクス!」
二人は固く抱き合う。

「ああ、間に合った……」
心から(いと)おしそうにニュクスの黒い髪をなでた魔界王は、一つ大きく息をつくと、言った。
「少し待っていろ、ニュクス。あいつと決着をつけてくる」
「タナトス……?」
「大丈夫だ、すぐ戻る」

心配そうな美女を残して彼は立ち上がり、眼差しだけで殺しかねない勢いで、弟を睨みつけた。
「覚悟はいいだろうな、貴様!」
サマエルは、刺すような兄の視線を、落ち着き払った態度で受け止め、微笑んだ。
「ええ、とうに覚悟は出来ていますよ、兄上。
でも、どうか少し、お待ち頂きたいのですが。妻を、安心させてやらなくてはいけないのでね」
「何だと!」

怒り心頭に発している兄を尻目に、弟王子は、がたがたと震えている少年の肩に、そっと手を置いた。
それまでずっと、ダイアデムは固く眼を閉じ、耳をふさいで涙をこらえ、言われた通りに、すべてが終わるのを待っていたのだ。

“全部済んだよ、ダイアデム。顔を上げて”
“焔の眸”の化身はびくりとし、いやいやと首を振った。
“大丈夫、ニュクスは生きているから。……タナトスも無事だよ”
「えっ!」
ぱっと眼を開け、ダイアデムは、恐る恐る顔を上げる。
その言葉が事実なのを確かめて、彼はサマエルに抱きついた。
「よかった! よかったよぉ!」

「よくないっ! サマエル、貴様、殺してやる!
どけ、ダイアデム!」
険しい表情でタナトスは、二人を引き離そうとする。
ダイアデムは、懸命にサマエルをかばった。
「ま、待てよ、タナトス!
よく分かんねーけど、ほら、見てみろ、こいつ、初めからこうなることを予期してたって顔だ、話聞いてみよーぜ、その後で……」

「うるさい、どんな理由があろうと、オレはこいつを許さん!
サマエル、貴様も、ニュクスと同じ目に遭わせてやる!」
魔界王は弟の首をつかみ、力任せに締め上げ始めた。
サマエルは抗議も抵抗もせず、されるがままになっている。
「待つがいい、タナトス!」
「ああ、もう、よせってばよ!」
止めるニュクスとダイアデムの叫びも、その耳には入らない。

「──エンサングイン!」
そのときサマエルが呪文を唱え、全員が凍りついた。
さらに皆が驚愕したことには、出現した短剣を、サマエルは兄に差し出したのだ。
「……タナ、トス。私を、ニュクスと、同じ目に、遭わせてやると、言ったな。
これを、使うが、いい……」
「な、何だと、貴様……?」
面食らったタナトスの手から、思わず力が抜ける。

「だから、私がニュクスにしたように、これで私の胸を切り裂くがいいと言っているのだよ、タナトス」
世間話でもするかのような、ごく普通の口調でサマエルは言う。
「いい覚悟だ!」
ようやくその言葉の意味を理解したタナトスは手を伸ばし、短剣を引っつかんだ。
「望み通り、貴様の心臓を引きずり出して、二度とこんな振る舞いができんようにしてやる!」

「よせよ、タナトス!」
「やめておくれ、タナトス!」
貴石の双子が叫ぶ中、魔界王は、弟王子の胸に向け、光る刃を突き出そうとした。
「──死ね!」

次の瞬間、少年の体が紅く発光し、黄金色の獅子が現れた。
一声高く咆哮(ほうこう)したシンハは、タナトスに飛びつき、短剣を持つ手に鋭い牙を食い込ませた。
音を立てて床に転がった短剣を、素早くニュクスが拾い上げ、呪文を唱えて消滅させる。
「──アベオ!」

「何をする! 邪魔をする気なら貴様も殺すぞ、シンハ!」
彼を振りほどき、眼を怒らせる魔界の王に、ライオンは、こちらもまた紅い瞳を爛々(らんらん)と光らせ、朗々と響く声で答えた。
『ならば、ルキフェルもろとも我も消せ、かつての主、(けん)龍王よ。
我は、もはや王権の象徴ではなく、儀式の際にも不要なれば、構いはせぬ』

「すまないね、シンハ。私の我がままのせいで、お前まで……。
でも、これで、私達を引き裂くものはもうなくなる……ずっと一緒にいられるのだね。
さあ、どうぞ、魔界の王、タナトス陛下。ご存分になさって下さい」
サマエルは、獅子の首に腕を回し、黄金の毛並みに顔を埋めると眼を閉じた。
シンハは、大きな舌で、彼の顔の血糊を優しくなめ取る。

「おのれ──貴様ら……ふざけおって!
もう我慢できん、望み通りに二人共々、息の根を止めてくれるわ!」
タナトスは怒りのままに、強力な呪文を唱えようと、大きく息を吸い込んだ。