6.裏切りの貴公子(2)
ダイアデムは途方に暮れた。
タナトスとニュクスに恨みはない。
少なくとも、サマエルが、彼らに対して感じているような強い遺恨は、持ってはいない。
それどころか、出来ることなら二人には、幸せになって欲しいとさえ思う。
しかし、緊迫した今の状況は、それを許してくれそうにもなかった。
「うっ、うう、うう……く、苦し……」
「やめろ、サマエル、狂ったか、貴様!」
散々思い迷う間にも、ダイアデムの目前では、兄弟が絞め殺されかかっており、体内で暴れ狂う闇との戦いに力を取られているタナトスは、彼女を助けられないでいるのだった。
このままでは、確実に、サマエルはニュクスを殺してしまうだろう。
かといって、自分が逆らい続ければ、サマエルは怒りを制御出来なくなり、最悪の場合、“紅龍”が出現して、世界を破壊してしまうかも知れない……。
貴石の化身は頭を抱えた。
「そんなに悩まなくていいよ、お前のせいじゃない。全部、僕がいけないんだから。
でも、ねぇ、“焔の眸”。お前だけは、僕の味方だと思っていいんだよね……?
僕、お前がいなかったら、もう生きていけないんだ」
わざと子供っぽい口調を使い、哀願するように第二王子は言った。
「サマエル……」
“焔の眸”の化身は、心がかきむしられるような思いがした。
その言葉遣いと深い悲しみを
「ダ、ダイアデム殿、いけませんぞ、そんな、童子のごとき態度に騙されては!」
ひどい火傷の痛みに耐えながら体を引きずり、部屋の中ほどまで戻って来ていたプロケルが叫ぶ。
「るせー、プロケル、てめーに何が分かんだよ!」
ダイアデムは、眼をうるませて叫び返し、それから夫に向けて言った。
「分かった、サマエル、お前の好きにしていい!
オレ、もう、邪魔しねーから!」
そして、最愛の人が、兄弟の命──仮そめとはいえ、命には違いない──を消すところを見まいと、固く眼をつぶってうずくまり、自分の膝に顔を埋めてしまった。
「そう、それでいい、ダイアデム。見ていると辛いからね。
大丈夫、すぐに終わらせるよ」
サマエルは、すぐに大人の口調に戻って優しく答え、もがく美女の首を締め付ける力を、さらに強めていった。
「う、く、ううう……」
ニュクスのうめきも抵抗も、徐々に弱くなってゆく。
「……や、やめん、か、サマ、エル、殺す、ぞ、貴様……!」
肩で息をするタナトスは、途切れ途切れに抗議するのがやっとだった。
体が鉛のように重く感じられ、ニュクスに近寄ることはおろか、立っていることさえ
「はぁ、はぁ、くそっ、俺としたことが!」
歯噛みしつつも、不覚にも座り込み、しまいに彼は床に手をついてしまう。
「だいぶ弱って来たな、あまり
苦しいのなら、タナトスを恨むがいい、その姿を創ったのはあいつなのだから。
口先ばかりで、お前を守ることも出来なかった哀れな男を、ね。
……ああ、そうだ、何か恨み言の一つでもあるのなら、これが最期だ、言わせてあげるよ」
サマエルは、ことさらに優しげな笑みを浮かべ、ニュクスの体を兄の方に向ける。
「い、今だ、逃げろ、ニュクス……!」
魔界王の声はひどくかすれ、ほとんど聞き取れないほどだった。
口を開き言葉を発する、たったそれだけの動作にも、ありったけの気力を
体中から汗が噴き出し、支えている腕からも力が抜けていき、もはや彼は、半身を起こしていることも難しくなり始めていた。
だが、“黯黒の眸”は、喉にかかる力がゆるむのを感じても、逃げなかった。
自身が力を分けたカオスの貴公子、その力量のほどを知りつくしていた貴石の化身は、この状況下では、サマエルから逃げ切ることは無理だと知っていた。
ならば、せめて、タナトスにきちんと別れを告げておきたい、彼女はそう考えたのだ。
苦しい息の下、ニュクスはどうにか声を振り絞った。
「……タ、ナトス……真に
新たなる、化身は……おぬし、ではなく、サマエルを、主とする、こととなろう……。
なれど、妾の心は、常に、おぬしと、共に……さらば、だ、タナトス……」
彼女は、自分を捕らえているサマエルの手を押さえるのをやめ、主に向けて白い手を伸ばす。
「ニュクスっ!」
タナトスが、悲痛な声を絞り出した刹那、頭の中で不気味な声が響いた。
“我が主、魔界王サタナエルよ”
“き、貴様、テネブレだな!”
それは“黯黒の眸”に宿る、もう一人の化身の思念だった。
“左様。かような
ゆえに、我もまた、おぬしに別れを告げたく思うてな“
“ふん、貴様と別れられるのだけは、心底ありがたいと思うぞ!”
タナトスは、冷ややかな思念を送った。
驚きと腹立たしさで、一時的に闇の支配が緩んだのは皮肉だった。
薄気味の悪い声は続いた。
“相も変わらず、冷たき素振りよ。そこがまた、おぬしに惹きつけられる
魔界王家の守護たる“焔の眸”にならばいざ知らず、災いの種なるこの我に、新たなる
“黙れ、貴様ごときを喜ばせるために、ニュクスを創ったのではないわ!”
魔界王は、たたきつけるように念話を返す。
彼らの会話は、闇の力でつながっているサマエルにも、はっきりと聞き取れた。
「くすくす……もらい泣きしそうだよ、タナトス。
よかったな、お前にしては珍しく、相思相愛ではないか。
ニュクスのみならず、テネブレにまでも、しっかりと愛されているとはね。
ああ、この際だ、お前も彼女達に、何か言い残したいことがあったら……」
軽薄な口調で言いかける弟王子を、タナトスは、床に這いつくばった格好で、さえぎった。
「言わせておけば、サマエル、この裏切り者……殺してやる……!」
しかし、その声は弱々しくかすれて、いつもの迫力はまったくない。
第二王子は、普段なら決して人前では見せない
「くくく……兄上、いくら強がって見せたところで、そんな格好では、ちっとも怖くないですねぇ。
魔界の君主の称号が泣きますよ、みっともない」
サマエルは、わざとていねいな言葉を使った。
それから、靴を片方脱ぎ捨て、裸足でタナトスの顔を踏みつける。
「くっ、き、貴様……」
屈辱に、魔界王は顔を紅潮させた。
「ふふ、さぞやお悔しいでしょうねぇ、タナトス陛下?
お分かりですか?
あなたに踏みにじられてきた弱い者は、皆、こんな風に、自分の無力さを噛み締めていたのですよ……?」
第二王子は、満足げに兄の顔を覗き込む。
「サ、マエル、やめて、おくれ、そんな、こと……」
捕らえられたままのニュクスの悲しげな言葉にも、彼は、聞く耳を持たなかった。
「いい気味だよ。これで、下位の者の苦しみも、少しは理解出来たろうさ。
……ね、タナトス陛下? ふふふ」
笑いながら、サマエルは、兄の顔を
「お、おやめ下され、サマエル殿下……!」
「さっきから、うるさいな、この年寄り猫は」
「うっ!」
体中にひどい火傷を負った身で、まだ彼を止めようとする元魔界公爵を、第二王子は、表情も変えず蹴り飛ばす。
「よ、よせ、サマ、エル……!」
「タナトス、こんな死に損ないの心配よりも、彼女に話したいことはないのかい?
“黯黒の眸”は不死と言えるけれども、化身である“ニュクス”は、簡単に殺してしまえるのだよ……こんな風にね」
「ぐっ、苦し……っ!」
ニュクスは美しい顔を苦痛に歪め、再びサマエルの手をつかんだ。
「やめろ! くそっ、体さえ動けば……!」
不甲斐ない自分自身に苛立ち、タナトスは
「ぐわっ! うっ、ぐふっ、げっ、げほ、げぼっ!」
途端に、激烈な痛みが全身を走り抜け、彼は再び倒れ込む。
激しい咳と共に吐血し、大理石の床に鮮血の溜りができていく。
「なぜだ……くそっ!」
幾千幾万本もの太い針で、体の内外から刺し貫かれているかのような苦痛の中、タナトスの心には、弟と闇の力、双方に対する、ふつふつとたぎるような怒りが湧き上がって来ていた。
たしかに過去、自分が幼い弟にした行為は、思い返してもかなりひどいことで、それを未だ根に持っている、サマエルの気持も分からないではない。
だが、最近になって、彼は過去の所業を心から悔いて弟に謝罪し、さらには、生け贄の身分からも解放してやったのだ。
なのに、自分だけでなくニュクスをも裏切り、これほど残虐な仕打ちをしてのけるとは。
さらに、タナトスは、体内を暴れ狂う闇……祖先の霊がぶつけてくる恨みの念に対しても、
遥かな過去から現在へ、延々と続く、神族の理不尽な圧力に対しては、彼も腹を立ててはいたし、連中に代償を支払わせてやることに異存はなかったが、かといって、仇討ちの押し付けなど、真っ平ご免だった。
どうせ戦うなら、自分の意志で。
そうでなくては意味がないと、彼は思った。
だが、その間にも、タナトスに取り憑いた闇は、外へとあふれ出て、黒い霧状の物質となり、彼の周囲を取り巻き始めていた。
「ぐふっ、い、息が出来ん……」
呼吸することが次第に難しくなっていき、弱々しくもがくものの、闇は、すさまじい力で彼を押さえつけ、手を動かし喉に当てることもままならない。
さらには、頭がしびれたようになり、つい今し方まで、あれほど強く感じていた怒りが消えていくのを彼は感じた。
同時に目蓋がひどく重くなって、眼を開けていることさえ困難になりつつあった。
(まずい、このままでは……ニュクスを助けられんどころか、俺自身が……)
そのとき、プロケルが、ようやく彼の元にたどりついた。
「タ、タナトス様! 陛下! しっかりなさって下され……!」
必死の思いで取りすがり、彼を呼ぶ元公爵の声を、遠くでタナトスは聞いた。
このまま意識を手放してしまったが最後、闇の力に支配され、二度と自我を取り戻すことは出来ないだろう。
それはタナトスにもよく分かっていたが、抵抗する気力は、もはや完全に奪われてしまい、彼はただ、無様にも自室の床に横たわり、自我の喪失、もしくは死を、待つばかりの状態になってしまっていた。