~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

6.裏切りの貴公子(1)

「ふふふ」
その時突如、サマエルの口調、そして表情までもが一変した。
青ざめていた頬には赤みが差し、眼は爛々と輝き、端が持ち上げられた唇からは鋭い牙が覗く。
「さすがは兄上。ですが、どれくらいもつでしょうね?
“黯黒の眸”に操られて傀儡(くぐつ)と化したあげく、死んでいった哀れな者達……その中には、あなたなどより遥かに強い力の持ち主もいたのを、私は先祖の記憶として持っているのですよ」

「な、何だと……?」
あまりの態度の変わりようにタナトスは驚き、弟を凝視する。
サマエルは、紅い瞳に異様な光を浮かべたまま、兄を指差した。
「ほら、もはや立ってもいられない。すぐにあなたも闇の力に飲み込まれ、意思を持たない人形(ひとがた)と成り果ててしまうでしょうね。
さあ、もう諦めて意識を手放しなさい、そうすれば楽になれます。
愛する“黯黒の眸”と、未来永劫(えいごう)一緒にいられますよ」

「ふ、ふざけるな!
魔界の王たるこの俺が、こんな程度の力に屈してたまるか!」
タナトスは怒鳴り返した。

しかし、それもまったく耳に入っていない風で、弟王子は続けた。
「ですが、テネブレに支配されてしまったあなたは、もはや危険人物、魔界に害をなさぬよう、またもや、地下迷宮にご滞在頂くことになるでしょうけれどね、今度は永遠に。
ああ、ご心配なく、その際のニュクスの処遇は、私にお任せ下さい。
“焔の眸”と“黯黒の眸”、両手に花として平等に扱って差し上げますよ。
誰にも文句など言わせません、何しろ他に適任者はなく、私が魔界王の位を継ぐことになるのですからね、ふふふ……」

体の中を荒れ狂う闇の力を一瞬忘れ、タナトスは、想像もしなかった台詞を言い放つ弟に、驚愕の眼差しを送った。
「き、貴様!
まさか、最初からそのつもりで……この機に乗じ、王位を簒奪(さんだつ)する気でいたのか!?」

第二王子は、冷たい微笑を(つや)やかな唇に張り付けたまま、兄である魔界の王に視線を戻した。
「くくく、まさか、これほどうまくいくとは、思いもしませんでしたよ。
ですが、これは、私の一存でやったこと。
ダイアデムを責めないでやって下さい、彼は何も知らなかったのですから」
「サマエル殿下! 本気で(おっしゃ)っておいでなのですか!?」
彼の言葉を信じかねた、元魔界公爵も叫ぶ。

サマエルは笑みを消し、冷ややかに答えた。
「陛下と呼べ、プロケル。私はタナトスとは違う。礼儀を知らぬ臣下に容赦はしない」
「な、何を仰います、タナトス様は未だご存命ですぞ!
それに、あなた様が、次期の魔界王と決まったわけでもありませぬ! 
第一、こんな卑怯な方法で兄君を陥れるようなお方が、魔界の王にふさわしいと言えるでしょうや!?」
プロケルは、わなわなと身を震わせる。

「……卑怯?
ふん、たかが闇の力の一部も制御出来ず、それに屈してしまうようでは、“闇の貴公子”を名乗る資格などあるまいぞ。
そうではないか、魔界の至宝、魔界王家の象徴である我が妃、“焔の眸”よ」
いきなり正式名称で呼ばれて、ダイアデムはびくっとした。
「……へ?」

「ほ、“焔の眸”殿! どうか、夫君(ふくん)を、サマエル殿下を、お(いさ)め下され!
かような背信、許されるものではございませぬぞ!」
必死の形相で、プロケルは哀願する。

「え、いや、けどよぉ……」
事態が飲み込めず、面食らっている妻に向けて、サマエルは、優しいとさえ言っていい声音(こわね)で問いかける。
「ねえ、ダイアデム。プロケルやタナトスなどより、私の方が大事だろう?
タナトスが闇の力に負けた(あかつき)には、私を次の魔界王に選んでくれるね?」

“焔の眸”の化身は、そんな夫を呆然と見やり、それから昔の主に視線を移し、次いで、意識がない兄弟の姿に眼をやった。

そして、再びサマエルに視線を戻し、答えたその口調は、重く湿っていた。
「……プロケルの言う通り、サマエルのやり方は間違ってるとオレも思う……。
けど、オレは、お前の望むことは全部叶えてやりたい、だから……ごめんな、タナトス。
でも、サマエルなら、“黯黒の眸”のことも大事にしてくれるから……」

「う、裏切り者──っ!」
「ご、ごめんよぉ……!」
血を吐くような魔界王の叫びを聞くまいとして、貴石の化身は耳を押さえ、夫の胸に顔を埋めた。

「ダイアデムを責める資格が、お前にあるのか、タナトス。
弱いお前が悪いのだ、常々魔界では強さがすべてと言い、“闇の貴公子”などという称号を冠しながら、闇の力の何たるかを知ろうともしなかった、不明を恥じるがいい。
おのれの心の闇に永遠に囚われたまま、ここで朽ち果ててゆくのが、お前には似つかわしい」
サマエルの口調は、ひどく冷酷な響きを帯び……そうなったとき常であるように、声も表情も、兄タナトスに酷似していた。

第二王子の背信行為を目の当りにしたプロケルは、血も凍る思いでいた。
サマエルを、大人しく気弱な……と言って悪ければ、穏やかで優しい人柄と思い、子供の頃から同情を寄せていた元魔界公爵は、それが自分の勝手な思い込みだったと知って、愕然としたのだ。
だが、この王子の不遇な生い立ちを割り引いて考えても、こんな裏切り行為が、許されていいはずがなかった。

老公爵の射るような視線をまったく気に止めた様子もなく、サマエルは、ニュクスのぐったりした体を抱き上げた。
「さて、こうしているのも時間の無駄だ、行くとしようか、魔界の玉座へ」
「ま、待て、ニュクスを返せ、貴様! くうっ!」
タナトスは、弟を追いかけようとするも、闇との戦いに力を取られ、動くことさえままならない。

プロケルは意を決し、主の代わりに、第二王子の行く手に立ちふさがった。
「行かせは致しませぬ、サマエル様」
「何だ、プロケル。ここに残りたいと言うのならば、止めはしないぞ。
主に殉教(じゅんきょう)するというのもまた、家臣としての(ほま)れだろうからな」

「左様なことではございません、私利私欲のために兄君を罠にはめ、王座の簒奪を目論(もくろ)むなど、左様な卑劣な方をおめおめ見過ごしたとあらば、かつて公爵位を拝命したこの身にとって、一生の不覚と存ずる!」
「この私に歯向かう、と?」
元公爵に向けたサマエルの表情や声は、いつもの穏やかで優しげなものに戻っていた。

プロケルは、わずかばかりの罪悪感さえ持ち合わせていない彼の態度に、怒りを募らせた。
「お目をお覚まし下され、サマエル殿下!
兄君様は、あなた様の真の心をお聞きになり、もはや、過去のことは水に流すと仰せになって、お助けに参ったのですぞ!」

すると、またもや第二王子の表情は豹変し、優しい光を帯びていた紅い眼も、闇の輝きに満たされた。
「ふっ、笑止。何が水に流す、だ。
こやつの方が、よほど、私や“焔の眸”に大して、ひどい行為を重ねて来たのだぞ、それに私は、陛下と呼べと申しつけたはずだ!
──漆黒の深き闇の中より生まれ出で、(くら)き輝きを放つ(まが)つ星よ。
汝の凍れる焔もて、我に(あだ)なす敵を焼き尽くせ。
──マレフィック!」
サマエルの手から、地獄の業火が放射される。

「うわあっ!」
プロケルは、激しく燃え上がりながら部屋の向こうまで吹き飛び、壁にたたきつけられた。
「ふん、たかが公爵の、しかも引退した老いぼれの分際で、魔界の王たる我に歯向かおうとは片腹痛い!
だが、長年の忠誠に免じて命までは取らぬ、そこで大人しく、かつての主が、無様に狂い死にする様を見ているがいい」
第二王子は、冷たく言い捨てる。

「く、お、お逃げ下さい、タナトス様、うう……!」
すさまじい炎によって、全身焼けただれてしまったプロケルは、うめき声を漏らすのみで、起き上がることが出来ない。
そんな彼に、サマエルは、恐ろしいほど優しい口調で言った。
「……逃げる? 誰から?
私は、直接タナトスに手を下すつもりはないよ、こやつは、おのれ自身の心の闇にむしばまれ、自滅してゆくのだからね。
そうだ、はなむけに、ニュクスの姿も消滅させてあげるとしよう」

「ふ、ふざけるな、この変態! ニュクスに手を出してみろ、殺すぞ!」
タナトスは叫ぶ。それも耳に入らない様子で、淡々とサマエルは続けた。
「たしかにこれも美しいが、お前が創ったものだしねぇ。
まったく別の、もっと美しい姿を創って妃とすれば、“黯黒の眸”は完全に私のものとなり、お前のことなど、問われれば思い出す程度のものとなるだろうさ」

「──やめろっ、貴様ーっ!」
魔界王は()えた。
「う、ううん……」
そのとき、ニュクスが身動きし、ぱちりと眼を明けた。
「あ、ルキフェル……(わらわ)は……?」

「おやおや、眠ったまま、楽に死なせてやろうと思ったのに」
サマエルは肩をすくめた。
「えっ?」
けげんそうな顔のニュクスに、サマエルは指差してみせる。
「そら、タナトスはそこにいるよ」
「ああ」

「ニュクス、来るな、逃げろ!」
床にうずくまる魔界王は声を上げ、近づかないようにと手を振り回した。
「……タナトス?」
眼が覚めたばかりで、事態を把握出来ていないニュクスは、タナトスの方に歩きかける。
と、突如、サマエルが後ろから、その華奢な首をつかんだ。

「な、何を……ルキフェル!?」
美女は驚愕し、振り返ろうとするが、第二王子がそれを許さない。
「見よ、タナトス、そして、おのれの無力を思い知るがいい!
お前が闇の力に屈伏するように、“黯黒の眸”の化身もまた、我が力の前に、無惨に散り果てるのだ!」
能面のように冷たく取り澄ました顔のまま、サマエルは両手に力を込めてゆく。

「やめろ──っ! 俺が憎いなら俺を殺せ、ニュクスに手を出すなっ!」
タナトスが絶叫すると同時に、ダイアデムが、必死の面持ちで夫の腕に取りすがった。
「ど、どうしたんだ、サマエル!
いくら、オレらが石だからって、タナトスが憎いからって、ンなコトするの、いくら何でもひでーよ、やめてくれ!
“黯黒の眸”を放してくれよっ!」

第二王子の表情が動いたが、それも一瞬のことだった。
「すまないな、ダイアデム。だが、いくらお前の頼みでも、これだけは譲れない。
“黯黒の眸”に新しい体を授けた後は、こんな野蛮な真似は、絶対にしないと約束する。
今だけは好きなようにやらせてくれないか、この埋め合わせはきっとするから」
「埋め合わせなんていらねーよっ! 今すぐやめてくれっ!」
ダイアデムは涙目で叫ぶ。

「やめる気はないよ」
「ンなコト言わねーで、お願いだよぉ! サマエルってば!」
「何と言われても、ニュクスには消えてもらう」
「ど、どうしてもか!?」
「どうしてもだ」

ダイアデムがどれだけ懸命に食い下がっても、突き放したような冷たい返事が返って来るばかり。
それどころか、第二王子の瞳には、暗い闇の炎が燃え上がり始めていた。
これ以上追いつめると、その力が爆発しかねない。
そうなってしまえば、ニュクスは無論、誰も助からないことを、“焔の眸”の化身ほど、よく知っている者はなかった。
その本体の結晶面には、遥かなる過去、暴れ狂って世界を滅ぼしかけた“紅龍”の禍々しい姿が、今も鮮明に記録されているのだから。