5.闇の誘惑(4)
この、意ある宝石達にとって“真の自由”とは、“死”……つまり、自身の破壊を意味するようなところがあることに、タナトスは気づき始めていた。
“眸”達が、そう思い込んでしまった理由の一つは、魔族が代々、事実上不死である彼らを呪縛し、自由を奪って来たせいもあるのだろう。
長い年月が過ぎ行くうちに、いつしか、彼らは解放されることを諦め、自身を元素へと変換させて地中に融けていくことを夢見るようになってしまったのかも知れなかった。
タナトスには、到底、理解しがたいことだったが。
かつては、常に自分に付き随っているのが当然だった、魔界の王権の象徴とされた“焔の眸”……生き物のように考え、行動する鉱物の化身。
その少女めいた美貌を見ながら、タナトスは口を開いた。
「ふん。いい覚悟だが、それに成功したとしても、ヤツは廃人になるのではないのか。
現状でさえ、正気を保つのに苦労しているのだろう。
俺は、いい気味だと思うが、貴様はどうだ?
真実、あほうに成り果てたあやつを見て、平気でいられるのか?」
痛いところを突かれたダイアデムは、青くなった。
「えっ、そ、そうなっちまうかも、しんねーけど……。
サマエルがどうなっちまっても、オレは頑張って面倒見るよ……」
プロケルは首を振った。
「いけませんな、ダイアデム殿。
いかに、サマエル様ご自身の仰せでも、手をこまねいている場合ではありませんぞ、ぜひともお助けに参らねば。
タナトス様、ここまでお尽くし下さる弟君を、見殺しにしたとあっては末代までの恥でありますぞ。
微力ながら、それがしもお手伝い致しとう存じます、第一、魔界王家の末席に連なる者と致しましても、ご先祖様に申し訳が立ちませぬ!」
「そうだな。面倒だが致し方あるまい。
“カオスの貴公子”だからといって、“黯黒の眸”のすべてをかぶる必要もなかろう。
行ってやるとするか」
「だ、駄目だよ、サマエルは一人でやるって……」
それでも止めようとするダイアデムを、タナトスは見据えた。
緋色の瞳が強く燃え上がり、命令することに慣れた声が辺りに響き渡る。
「黙れ! すぐ死にたがるあのたわけ者を、伴侶である貴様が止めずして、一体誰が止めるのだ!?
それとも、貴様は、サマエルの死を望んでいるとでも言うのか!
今すぐ案内しろ、“焔の眸”! 我が弟の元へ!」
「な、何でオレが、サマエルを死なせたがらなきゃなんねーんだよ!?
こっちだ、早く!」
ダイアデムは、ぱっと立ち上がり、駆け出した。
タナトスとプロケルは急いで後を追う。
先行する“焔の眸”の輝きに導かれ、魔界王と元魔界公爵は、憑かれたように暗闇の中を走り続けた。
「いた! あそこだ!」
少年が指差す先、青白い光を発する魔法陣の中に、黒衣の美女が横たわり、そのすぐかたわらに、第二王子が倒れていた。
「サマエル……わ!」
その体に取りすがったダイアデムは、青ざめた。
夫はすでに息がなかったのだ。
「死んじゃヤだ! ずっと一緒にいるって約束、破る気かよぉ!
──オルゴン!」
「殿下! ──オルゴン!」
プロケルも大急ぎで魔力を送った。
そんな二人には眼もくれず、タナトスは、最愛の女性に駆け寄った。
「無事か、ニュクス!」
揺さぶられて、黒衣の美女は薄く眼を開けた。
たゆたう漆黒の瞳が、ようやく魔界王を捉え、色あせた唇がかすかに動く。
「あ、あ、タナ、ス……最期、一目、会い、たいと……う、れし……」
「しっかりしろ! 貴様は俺のものだ、許可なく消滅するなど、許さんぞ!」
「デ、モ、一人、デハ、淋シ、イ、一緒、ニ……」
「何だ? よく聞こえんぞ」
タナトスが口元に耳を近づけた、そのとき。
ニュクスの眼がいきなり大きく見開かれ、その手が彼の首に掛かり、きつく締め上げた。
「な、何をする!? く、放せっ!」
「ニュクス殿、おやめなされ!」
プロケルがそれに気づき、ニュクスの手を外そうとするが、女とは思えないすさまじい力で、どうしても振り解くことができない。
一方、“焔の眸”の祈りは天に通じ、どうにか第二王子は蘇生した。
まだ意識はなかったが、呼吸が再開し、心臓も元通り動き始めた。
「はぁぁ、間に合ったぁ……!」
額の汗をぬぐったダイアデムの眼に、もみ合う三人の姿が映り、彼は急いで老公爵に思念を送った。
“オレに任せろ! サマエルを頼む!”
“──は!”
素早くプロケルと入れ代わった少年は、すさまじい形相で髪を振り乱し、タナトスの首を締め上げている
「ぎゃっ!」
青白い火花が炸裂し、悲鳴を上げて倒れかかる兄弟の体を、宝石の化身は魔力で支え、静かに床に横たえる。
やっと解放されたタナトスは、くっきりと手の跡がついた首に手を当て、激しく咳き込んだ。
「うっ、ぐふっ、ごほっ、はぁっ」
「大丈夫かよ、タナトス」
「タナトス様、おケガは!」
駆け寄ろうとするプロケルを、タナトスは手を振って押し留める。
「大、丈夫だ、プロ、ケル、あれくらいで、やられる、俺ではない」
「それはようございました」
プロケルは胸をなで下ろす。
「礼を言うぞ、ダイアデム。……ふう。だが一体、なぜ……」
タナトスは、肩で息をしながら尋ねた。
「ああ、テネブレの意識に支配されたんだよ。
化身としちゃ、ヤツの方が長いし、お前を道連れにしよって思ったんだろ。
お前、テネブレにも気に入られてるみてーじゃん」
「くそっ、あやつの仕業か!
心中など俺は望んではおらん、共に生きて楽しい思いをしたい、とは思うが。
俺にとって人生とは楽しむことだ。まだ、俺は、楽しみ尽くしてはおらんからな」
タナトスはニュクスの息を確かめ、意識を失っているだけと知ると、安堵した。
彼女のドレスの乱れを直し、髪を優しくなでてやる。
「はん、さっすがは“この世の君主”、いっつも生きることに前向きだよな。
けど、ニュクスが特別だってサマエルが言った意味、分かっただろ。
最初にお前が感じた通り、こいつはヤバイんだ。
んな嫁さんもらったら、命がいくつあっても足りやしねーぜ、やっぱ諦めた方が……」
「黙れ! ニュクスが一人前になるまで面倒を見ろ、とかほざいたのは、貴様だぞ!
今さら途中で、放り出せと言うのか!」
暗い口調のダイアデムの言葉を、タナトスは最後まで言わせなかった。
「あん時はそう言ったけどさ。んなことになるなんて思わなかったし。
けど……本気なんだな、お前」
「当たり前だ!
俺は、サマエルのように、好きでもない女に甘い言葉を掛ける気にはならん、偽りの恋などいらんからな」
タナトスはきっぱりと言い切った。
ダイアデムは、かつての主人……自分が魔界王に選んだ男の顔を、初めて見るかのように、まじまじと見つめた。
「ふうん。そんなに真剣に“黯黒の眸”のこと思っててくれてたのか。
なら、話は別だ、オレが引き受けるよ、残りの闇の力を。
そうすりゃ、テネブレは、オレの中に封じておける」
「い、や……そ、れは、あまり、勧められ、ないね。
テネブレが、お前を、乗っ取ってしまう、ことも、あり得る、から」
その時、かすれてはいたが、聞き慣れた声が聞こえてきて、一同は、はっとした。
「サマエル!」
「殿下、ご無事で……」
妻と元公爵に助け起こされて、サマエルはゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう、心配を掛けたね、ダイアデム、プロケルも」
「サマエル、オレのこと分かるんだな? 頭、おかしくなってないな?」
「分かるとも。いつもと同じ程度にしか狂っていないよ。幸か不幸か、ね」
「──バカ!」
胸に飛び込んで来た妻を、サマエルは受けとめて微笑んだ。
「すまないね、また死に損なってしまった。
駄目男を相手にする苦労は、まだ当分続きそうだよ」
「るせー、オレを置いて
震え声で叫び、少年は彼にしがみつく。
「ああ。すまなかった」
そんな弟夫婦に、複雑な視線を注いでいたタナトスは、つかつかと近づいていき、冷ややかに声をかけた。
「サマエル、貴様! 何ゆえ、主たる俺に一言の断りなく、“黯黒の眸”を連れ出した?」
サマエルは顔を上げもせず、静かに尋ね返した。
「彼に聞かなかったのか?」
「大方は聞いた。しかし、初めに言えば済むことではないか!」
「一刻を争う状態だったからね」
「それに致しても、ちゃんと説明して頂きませんと、我らも困惑致しますぞ、サマエル様。
お聞き及びの通り、タナトス陛下は、心より“黯黒の眸”殿を想っておられるのですからな」
プロケルが口を挟んだ。
「“陛下”はよせと言っているだろう、プロケル」
タナトスは、苛立たしげに元公爵を睨む。
まだ、やらなければならないことが控えている、早く終わらせてしまおうと思ったサマエルは、心満たされる妻の温もりから、渋々身を離した。
「ダイアデム、後でまたちゃんと話し合おう。タナトス、説明も後だ。
ニュクスが眠っているうちに“闇の力”を封印しなければならないが、私は、もはや飽和状態だ。
本気で彼女を、
「分かった。だが、後で一発殴らせろ、気が治まらん」
「ご随意に、兄上。いえ、魔界王陛下」
「貴様、またそれか!」
「タナトス様……」
「ちっ!」
プロケルにたしなめられたタナトスは、舌打ちした。
顔をしかめつつも、彼は急いでテネブレを封じる呪文を唱え始める。
「──闇に属する者、“黯黒の眸”の第一化身テネブレよ、その身邪悪にして魔界に仇なすものなれば、“闇の貴公子”たる魔界の王、黔龍王サタナエルの名に於て、汝の身を永久に封じる。
我が魔力の一部となりて、我が体内で久遠の眠りにつくがよい、テネブレ!
──サムナス!」
「ぎゃあああ!」
苦しみ悶えるニュクスの体から、黒い煙状のものが立ち昇る。
細く曲がりくねった角を持つ禍々しい姿のそれは、すぐに崩れ、魔界王の体内に吸い込まれていった。
「うわっ! く、くそっ、何だこれは……!」
直後、タナトスは、体を二つに折って苦しみ出した。
「ど、どうなされたのです、タナトス様!」
とっさに、プロケルが彼の体を支える。
サマエルは、にっこりした。
「ああ、うっかり教えるのを忘れていたよ。
“黯黒の眸”は、神族の手によって創られ、さらに永の年月、魔界の神殿に祭られていた貴石。
弱ってはいても、単純な呪文で封じるなど出来はしない。
結界を使うのも、知っての通り不十分。
私のように体内に吸収し、同化するのが確実だが、そのためには“闇の力”……負の感情の集合体と戦い、従わせなければならない。
お前の中にあるのは、“黯黒の眸”が集めた力の極々一部。
私のものよりは、遙かに屈伏させることはたやすいはず、少しばかり苦しいが、愛する女性を得られるのなら、安いものだろう?」
「貴様! うっかりだと! うわ……!」
つかみかかろうとしたタナトスの手は空を切り、がくんと膝をつく。
「タナトス様!」
「うるさい!」
手を貸そうとするプロケルを振り払い、タナトスはよろよろと立ち上がる。
「ま、魔界の王ともあろうものが、これしき……!」