5.闇の誘惑(2)
「プロケル、貴様!」
ニュクス共々、地下迷宮から強制的に出されたタナトスは、元公爵に食ってかかった。
しかし、この王に怒りをぶつけられることに慣れていたプロケルは、特にうろたえることもなく、うやうやしく頭を下げ、詫びを入れた。
「申し訳もございませぬ、タナトス様。されど、年寄りになりますると気が短うなりましてな。
一刻も早く、ご無事なお姿を拝見致したいがゆえの我がままでございます、平にご容赦……」
サマエルも、にっこりしながら老公爵に加勢する。
「タナトス、二人きりでいたかったところを悪いが。
問題は、まだすっかり解決したというわけではないのでね」
「それによぉ、タナトス。オレが見たトコ、お前、エサやり過ぎだぞ」
「何を言う、これしきのことで……!」
ダイアデムの言葉に、魔界の王は勢いよく振り向く。
途端に足元がふらついて、両足を踏ん張らなければならならなくなり、彼は面食らった顔をした。
「くっ、ど、どうしたのだ、力が入らんぞ……?」
「タナトス様!」
プロケルが急いで彼を支える。
ニュクスもまた、おろおろと主に取りすがった。
「タ、タナトス、すまぬ、妾が吸い過ぎたせいで……?」
「ほらみろ。ま、最初は加減が分かんねーのも無理ねーけどな。
サマエルだってさ、初めの時は飢え過ぎてて、オレの力をほとんど全部吸い取っちまって。
その上、オレをベッドに押し倒してさー、あん時は、さすがに参ったぜ」
第二王子は焦り、妻の言葉をさえぎった。
「ダイアデム、よ、よしておくれ、こんなところで、人聞きの悪い……!」
「ホントのことじゃん。
へへ~ん、逃げられないオレにその後何をしたか、みんなの前で言ってやろーかぁ?」
ダイアデムは、いたずらっ子のように瞳を輝かせる。
「……どうして? なぜ、今頃になって、そんな昔のことを蒸し返すのだね?
そんなに私に、恥をかかせたいのかい……?」
サマエルはうなだれた。
そんな彼のフードの奥を覗き込み、ダイアデムは念話を送った。
“お前がヤバイこと考えてっからさ。
今は私情を挟むのは禁物だぜ、魔界のことだけ考えてくれよな”
一瞬心臓の鼓動が激しくなるのを覚えたサマエルだったが、彼も魔界の王子、それを心の声にさえ現さない。
“一体何のことだね? さっぱり分からないが”
“ごまかしたってダ~メ、お前とは長いつきあいなんだからよ、バレバレだぜ。
さっき、タナトスが迷宮に入ったときさ。
お前、『このまんま、入り口塗り込めて『暗黒の瞳』に取り憑かせ、一生閉じ込めてやろか』とか、ンな、アブねーこと考えてたろーが?
邪魔んなるようなら、プロケルもまとめて始末しちまえ……とかさ”
今度こそサマエルは、息が止まりそうになった。
心の中で一つため息をついて気を取り直し、彼は妻に返事をした。
“やれやれ、お前には隠し事ができないね……。
お前の言う通り、たしかに一瞬だけれど、そう思ってしまったことは認めるよ……あ、それでさっきも、私にキスしたり、即刻タナトスを呼び戻すよう、主張したりしたのだね?”
“そーそ。お前ってば、殺気立って、超ヤバイ顔してたぜ。
だから、腹が
……ったく、困ったもんだ、そんなに憎いのかよぉ、たった二人の兄弟だってのにさ?”
ため息まじりの妻の念話に、サマエルもまた諦めたように答える。
“お互い様さ、タナトスもそう思っているのだからね……”
その時、気遣わしげにタナトスを介抱していたニュクスが、顔を上げた。
「なれど、“焔の眸”、サマエルは、おぬしに何をしたのだ?
後学のために聞いておきたい、教えてはくれぬか」
その問いかけに、弱り切ってプロケルとニュクスに支えられていたにも関わらず、タナトスはにやりとした。
「そうだな、俺もぜひ聞きたいものだ。詳しく聞かせろ、ダイアデム」
「へへぇ、そんなに聞きたい? じゃあ、教えてやるよ」
「やめておくれ、ダイアデム、お願いだから、あの時のことは、もう……!」
サマエルの哀願も気に止めず、ダイアデムは話し始めた。
「こいつはな、ベッドにオレを押さえ込んで、もー一度唇を合わせて来たのさ。
オレは、もうダメだって覚悟を決めた。魔力すっからかんにされて、消されちまうんだって……。
けど違ってた。オレを押さえつけたのは、女を振るための芝居だったんだぜ、あきれたことに。
その女ってのが、ライラ。今のリオンの恋人さ」
「ライラ? ……ああ、イナンナの子孫で、彼女に瓜二つの女性だったな。
だが、本当にそれだけか?」
タナトスは、疑いの眼差しをサマエルに向ける。
「へっ、ンな偉そーに言える立場かよ、お前?」
ダイアデムは、かつての主人に言い返した。
「なに?」
「お前こそ、オレにしたこと忘れたのか、ってゆってんだよ!
あの、魔界王になった日の夜、お前は、オレをどうしたんだっけな!?」
ダイアデムは、自分の胸をたたいて見せた。
さっと、魔界王の顔から血の気が引いた。
「あ、いや、それは……」
「どうした、タナトス、顔色が悪いぞ。
どうやら身に覚えがあるようだな……?」
彼らの間に何があったかを、妻に聞いてとっくに知っていたサマエルだったが、わざと冷ややかな視線を兄に送った。
ダイアデムもそれに便乗して、夫に身をすり寄せた。
「そーなんだ、サマエル。聞いてくれよぉ。
あん時、こいつときたらさぁ、オレを……」
「よ、よせ、ダイアデム!
貴様こそ、サマエルに知られればまずいのだろうが!」
タナトスは、焦って両手を振り回した。
「へん、男らしく認めろよ。お前、魔界の王なんだろ!」
紅毛の少年は、タナトスに指を突きつけた。
「妾も聞きたい。“焔の眸”はこの通り、正直に話してくれた。
それにおぬしは妾に、『何でも聞いてくれ、ちゃんと説明するから』と申したのではないか?」
ニュクスまでが口を出すと、タナトスは唇を噛んだ。
「くっ、そんなに聞きたいなら教えてやる!
俺は、戴冠式の後、ダイアデムを寝室に呼び出し、
あの時の仕返しがしたいのだろう、“焔の眸”!
貴様が吐き、泣き出してしまうまで、嫌がっていながら抵抗できずにいたことに、俺は気づきもしなかったのだからな!」
一息にそこまで言うと、タナトスは淋しげな微笑みを浮かべ、ニュクスの漆黒の瞳を見つめた。
「俺に愛想が尽きたろう? せっかく戻って来てくれたのに、こんな話を聞いたのではな……」
しかし、きょとんとした顔で、“黯黒の眸”は答えた。
「何ゆえ愛想を尽かさねばならぬ? おぬしは魔界王、我ら“眸”の主人。
その話ならば、すでに聞き及んでおったし、第一、主人が下僕に夜伽を命じたとて、何の不具合がある?」
続けて、ダイアデムが言った。
「サマエルもそう言ってくれたぜ。
それに、たとえ、進んで身を任せたんだとしたって、過去のことは気にしないって」
「ダ、ダイアデム──サマエル……貴様ら、俺をはめたな……!」
歯ぎしりをしながら、タナトスは二人を睨みつける。
それに答えるサマエルもまた、苛立ちが声に出るのを隠そうともしなかった。
「そう、たしかに、とっくの昔に聞いていたさ。
だが仕返しをしたかったのは私で、ダイアデムはそれに乗っただけなのだから、彼を責めないで欲しいね。
それにしたところで、考えてみるがいい、いくらしもべだからと言って、後宮の女性でもない者の意志も確かめずに夜伽をさせるとは……。
魔界では身分制度は絶対だ、彼が拒否できるわけがない。
いつものことだが、お前は傲慢過ぎるのではないのか?」
常日頃は、たとえ誤りを指摘されようとも、決して反省などしないタナトスも、今回は助けてもらったこともあり、また、自分の身に置き換えてみれば、弟の腹立ちももっともだと思った。
「分かった。ならば改めて謝罪しよう、許してくれ、ダイアデム」
そう言って、彼は頭を下げる。
紅毛の少年は、首を振った。
「もー千二百年も前のことだし、オレは気にしてねーけどよ。
でも“黯黒の眸”のことは、下僕だなんて思わないでくれよな」
「当然だ、妃のことを
苛立たしげに、タナトスは答える。
「おお、もう夜が明けて参りましたぞ。
お体も心配でございます、少し休息を取られてはいかがですかな、タナトス様」
プロケルが口を添えると、虚勢を張っていたものの、実際はかなり弱っていたタナトスは、その気になった。
「そうだな。少々休むとするか。他のことは、体力が戻った後だ」
そのとき、突如サマエルがニュクスの手を取り、抱き上げた。
「いい機会だ。お前が休んでいる間……明日の朝まで彼女を貸してもらうよ、タナトス」
「サ、サマエル、何を致す!? 降ろせ!」
「いいから、大人しくしておいで、ニュクス」
サマエルはもがく“黯黒の眸”の化身をがっちりと押さえ、決して降ろそうとはしなかった。
「ニュクスに何をする、貴様! ……く!」
驚いたタナトスが、二人のそばに寄ろうとするが、足に力が入らない。
「では、ごきげんよう、兄上。──ムーヴ!」
暴れる美女を抱いたまま、サマエルは呪文を唱え、消え失せた。
消える寸前、弟の唇に、意味ありげな微笑みが浮かんでいたのを、タナトスは見逃さなかった。
「くそっ、サマエル、どこに行きおったのだ!」
魔界王は叫び、後を追おうとするものの、弱り切った体では、自力で立っていることもおぼつかなかった。
「あ、あいつめ──!
俺はちゃんと謝ったではないか! それなのに、なぜニュクスをさらう!」
ダイアデムは再び、不良少年のような
「分かんねーのかよ、タナトス。
あのセリフ、お前がジルを借りたときとおんなじだぜ……?」
「くそっ、何て根暗なヤツだ、俺が昔ジルにしたことを、まだ根に持っていたのか!?」
「それに致しましても、それがしめには分かりかねますな。
わざわざ手を貸して下さり、せっかく“黯黒の眸”殿が無事戻ったと言うのに、何ゆえ、サマエル殿下は、かようなことをなされるのか……?」
琥珀色の瞳を曇らせて、いぶかしげにプロケルがつぶやく。
その疑問は、同時に、魔界王のものでもあった。
「たしかにな。
最初から、ヤツが自分で地下へ行った方が手っ取り早いはずだ……というか、元々ヤツは、“黯黒の眸”から力を得たのだぞ、今さらニュクスを手に入れて、どうする気なのだ……?」
首をかしげていたタナトスは、紅毛の少年と眼が合うと残りの力を振り絞り、紅い眼に凶暴な光をたぎらせて、彼に詰め寄った。
「ダイアデム、ヤツはどこに行ったのだ、貴様は知っているのだろう!
さっさと教えろ! さもないと、俺は貴様を……!」
魔界王の剣幕に
「さもないと、どうするってんだ?
念のため言っとくけど、またオレに何かしたら、サマエルのヤツ、今度こそマジギレして、“黯黒の眸”を粉々にしちまうぜ?」
「何だと貴様!」
タナトスは荒っぽく、少年のえり首をつかんだ。