5.闇の誘惑(1)
得体が知れない不気味な怪物の彫像が、カッと開けている。
その巨大な口こそが、地下迷宮へとつながる門だった。
人の背丈の二倍はあろうかという高さ、上部にびっしりと生えた牙からは、ぽたぽたと、
下部にも無数に生えている鋭い牙を避けながら、タナトスはその門をくぐり、ついに迷宮に足を踏み入れた。
夜目の利く魔族、その長である彼の視力をもってしても、底を見通すことができないほど深い闇が、どこまでも広がっている。
天然の地形であるとも、遥かなる太古、強大な魔力を持った者により、ただの一夜にして創り上げられたとも言われる、この暗黒の地下迷宮には、一片の地図さえ存在しない。
汎魔殿の地下深く、縦横無尽にトンネルが伸び、どこでどうつながっているのか、正確に把握している者は、もはや生者の中にはいないのだった。
タナトスは大きく息を吸い込み、無限の闇に向かって呼びかけた。
「──ニュクス……ニュクス! どこにいる、出て来てくれ!
事情は“焔の眸”から聞いた、俺は、そんなことはまったく気にせん!
それゆえ、帰って来てくれ!」
しかし、応えはなく、返って来るのは虚ろな
いくら“黯黒の眸”が気配を消す術に長けているとはいえ、迷宮の中に入れば、存在の片鱗くらいは感じられるのではないか……という彼の淡い期待は、完全に裏切られた。
(くそっ、自分自身の愚かさ加減には、まったく愛想が尽きるな!
自分を偽らずにいれば、こんなことにはならなかったのだ。
ニュクスも俺を恐れたりせずに、何があろうと、ダイアデム同様、打ち明けてくれたろうに!
考えてみると、逃げていたのは俺の方だったのか……)
タナトスは、おのれ自身を責めた。
目前には依然として、冥界に通じていると密かに噂されるほど入り組んでいる、果てさえ知れない暗闇が、彼のゆく手を阻んでいる。
恋しい相手のためとは言え、そんな迷宮の中を、あてどもなく進んで行かねばならない。
そう思うと、タナトスにしては珍しく、
無論、サマエルは、そのことも考慮に入れて兄を一人で行かせたのだったが。
彼は考えていた。
“黯黒の眸”は、暗い思考に反応しやすい。
あの単純なタナトスが、珍しくも負の思考に囚われている今なら、彼女もそれに引き寄せられ、戻っても来やすいだろう。
その後、もし仮に兄が意識を乗っ取られるようなことがあったとしても、代々の魔界王が施して来た強力な封印を破るのは、たやすいことではない。
それに、あのタナトスが、長い間取り憑かれているとは考えにくかった。
すぐに、兄はおのれを取り戻すはずで、それを待てばいいのだ。
(だが、もし万一、タナトスが、“黯黒の眸”の呪縛から逃れられないときは、情けは無用だ。
こともあろうに、現役の魔界王が臣下に操られたなどと知れたら最後、デーモン王達を始め、家臣達は、もはや、魔界王家には従うまい。
最悪の場合、口封じのため、プロケルにも気の毒だが消えてもらうしかない。
そう……名目は二人一緒に、転地療養ということにでもしておこうか)
そう考えているうち、彼は、黔龍がいなくなるのは、魔界にとっては痛手だということに気づいた。
四龍がそろわなければ、魔族の戦いに勝利はないのだから。
(ふむ、ではぜひとも“兄上”には、ニュクスの説得に成功してもらわなければならない、というわけだな……)
かつて、魔界一の策士と呼ばれた“カオスの貴公子”サマエルは、そんな風に様々な可能性を視野に入れ、考えを巡らせていたのだ。
並の者には決して
サマエルは、その唇に浮かぶ温かい笑みで、いつもは優しい印象を人に与えている。
しかし今、フードの陰の緋色の眼は少しも笑ってはいなかった。
こんな時のサマエルにダイアデムは怯え、逃げ出したくなってしまう。
と同時に、ひどく惹きつけられもするのだった。
サマエルもまた、こういうときの自分にダイアデムが戸惑うのを知っており、なるべく見せないよう心がけてはいた。
が、自分が少し距離をおくと、かえって彼の方から近づいてきてくれることが多いとも感じていて……それでわざと、冷たく取り澄ました顔を見せてみることもあった。
それでも、今回はサマエルにも、そこまで出来るほどの心の余裕はなかった。
彼はパチンと指を鳴らし、愛用の、一抱えもある巨大な水晶球を呼び出して、それを覗き込んだ。
「……ふうん、まだ出て来ないとはね。私が思っていたよりも、ニュクスはタナトスのことを大切に思っているらしい、これは意外な展開だな……。
それとも、タナトスは、彼女を創ったとき、よほど孤独を噛み締めていたのかな。
もしかしたら、他の誰をさて置いても、自分を大事に思ってくれるように、思いを込めてニュクスを創ったのかも知れない……あいつのことだ、無意識にだろうけれどね」
ダイアデムは、ぽりぽりと頭をかいた。
「そうかもしんねーけどさ……覗きかぁ? そーゆーのって、趣味じゃねーんだけどな……」
サマエルは微笑んだ。
「大丈夫、こちらの声は届かないようにしてある。
あいつに、覗いていることを悟られる心配はないさ」
「たしかにプライバシーの侵害ではありますが、この際は致し方ございませんでしょうな。
まかり間違ってタナトス様が取り憑かれ、操られてしまうようなことにでもなれば、それこそ一大事になりますぞ」
「ま、そりゃそーだ」
自分達の声は向こうには聞こえないと分かっていながら、プロケルとダイアデムの声は、知らず知らずに低くなる。
三人は、息を殺して水晶球に意識を集中した。
魔族の王の力をもってしても、“黯黒の眸”の気配を探り出すのは難しい。
タナトスは、いくつも枝分かれした通路の選択に苦慮していた。
(ちぃっ、サマエルめ、“黯黒の眸”の“気”など、まったく
くそっ、何ゆえ、魔界王たる俺がいつまでも、こんな
──こうなったら、あいつが自分から出て来るように仕向けてやる!)
「ニュクス! “黯黒の眸”よ、出て来い!
──聞け! 貴様は空腹なのだろう、俺が魔力を分けてやる!
そうすれば、誰かに取り憑いて闇の感情を吸い取る必要など、もはやなくなるのだ!
現に、サマエルはそうやって、“焔の眸”から魔力を与えられている、あいつはもう、女の精気を吸わずにすむようになっているのだぞ!」
気を高めてそう叫んだ後、タナトスは待ちの姿勢に入った。
「……遅い! “黯黒の眸”よ、出て来い! ニュクス!」
しかし、短気な彼はそう長くは待てず、すぐにまた叫び始めた。
彼が大声を出すたびに、紅い魔力が勢いよく体からほとばしる。
闇に
だが……。
いくらタナトスが気を高めて呼びかけても、“黯黒の眸”は、一向に姿を現そうとはしなかった。
「──はぁ、はぁ……く、くそっ、サ、サマエルめ……!
す、すぐ出て来るなどと、いい加減なことをほざきおって……!
──ウッ、ゲホ、ゲホッ……くっ、戻ったら八つ裂きにしてやる!
くそぉ、もう、堪忍袋の緒が切れたぞ、出て来んのなら、それでいい!
“黯黒の眸”め、貴様ごと、迷宮を破壊し尽くしてやる──!」
激しい怒りと共に、魔力が放出されて真紅の渦となり、タナトスの体を取り巻いてゆく。
彼の怒りに、迷宮を覆っている結界が同調し、みしみしときしみ出した。
「あーあ……ついにキレちまった、もー、後先考えてないぜ、あのバカ。
どーするよ、サマエル」
あきれて振り返るダイアデムを、サマエルが制す。
「──お待ち。来たよ」
「おお、参りましたか」
「やっとかよ」
元・魔界公と宝石の化身は、急いで水晶球に目を凝らす。
「魔界王よ、この地下迷宮を破壊すれば、上階部の汎魔殿も無事ではすむまいぞ」
聞き覚えのある気配と声に、透明な水晶球の中に映し出されたタナトスの姿がさっと振り向く。
黒ずくめの美しい女が、闇の中から湧き出たようにそこに立っていた。
「き──貴様が、すぐに出て来ないからだっ!」
しかし、緋色の眼を燃え上がらせ、荒い息遣いをしたタナトスの鋭い語気は、ニュクスを怯えさせた。
「……っ!」
声なき叫びを上げて、美女が身を退く。
思わずダイアデムは、自分の額をぴしゃりとたたいた。
「あのバカ! せっかく、ニュクスが出て来たってのに。
……ったく、声くれー、も少し優しくかけらんねーのかよ!」
案の定、震え上がったニュクスは、再び闇に溶け込んでいこうとする。
タナトスは、その手をわしづかみし、力任せに引き寄せた。
「どこに行く気だ、ニュクス」
「離せ、タナトス。
「咎や資格などと、四の五のほざくな!
そんなことはどうでもいい、俺はお前を愛している、もうどこにも行かせん。
お前は俺のものだ!」
そう言うとタナトスは、荒っぽくニュクスに口づけた。
「ひょー、やったね!」
ダイアデムは、パチンと指を鳴らす。
サマエルは、取り立てて表情を変えなかった。
「……いや、これでようやく第一段階突破、というところだ。
だがまあ、すぐ引っ張り出すのも気がひけるし、少し二人切りにしておいてあげようか?」
「いーや、エサのやり過ぎが心配だ、あいつに恨まれてもいーから、すぐ戻した方がいい!」
ダイアデムはきっぱりと言い切った。
プロケルは、心の底からほっとしたように、深々と頭を下げる。
「お二方には、お礼の言葉もございません。
ならばそれがしが、タナトス様にお声をおかけ致しましょう。
なに、この年寄りが多少恨まれたところで、老い先短い身ですからな」
「よし、任せた!」
「そうか、助かるよ」
“タナトス様、即刻お出まし願います!”
“何だと、プロケル、貴様!”
プロケルは、魔界王の抗議も怒りも意に介さず、強引に迷宮から引っ張り出した。