3.魔界の影(4)
その後、タナトスは、パイモンの謹慎処分を解き、汎魔殿に呼び戻した。
「タナトス様、ご無礼の数々、平にご容赦……」
深々と頭を下げるデーモン王をさえぎり、彼は言った。
「もういい、どうせ貴様、反省などしておらんのだろう」
「いえ、まさか、そのような」
「ふん、俺の気紛れに振り回され、内心うんざりしている癖に。
まあいい、貴様がおらんと魔界の内政が
相手の心を読んだようにタナトスは言い、扉に向かって手を振った。
「……は」
パイモンは、それ以上は何も言わず、礼をして退出しようとする。
その彼に、タナトスは声をかけた。
「ああ、それとな、真面目に妃を
「タナトス様、それほど、後宮の女達には興味がないと仰せられますか。
一体、どのような女ならよろしいと?」
立ち止まったデーモン王は、上目遣いに尋ねる。
(……そういう単純なことではないのだがな。ふん、この際だ、はっきりさせておくか)
一瞬迷ったタナトスも、ずっと極秘としていたことを告げる時期が来たと感じ、口を開いた。
「よく聞け、パイモン。俺は、魔族の女は妊娠させられんのだ。
たとえ
以前、クニークルスの女性が産んだ奇形の赤ん坊、そのことも含めて口外しないよう、タナトスは魔法医に固く命じていたのだった。
予想外の話を耳にしたデーモン王は、気が遠くなりそうな眼をした。
「な、何ですと、さ、左様な話、初めて聞きましたぞ!」
「当たり前だ、ただでさえ貴様らは、俺が王位に
その上で、またも魔界王家の血が薄まるような女を娶ることしか出来んと知れば、さらに反対する者が増えるに決まっているだろう」
「た、たしかに左様でございますが。
それでは、あなた様も、ベルゼブル陛下とご同様に、人族から王妃を探さねばならぬということですな……?」
パイモンは、ため息交じりに尋ねた。
タナトスは肩をすくめた。
「ふん、どうだかな。魔法医は、人族の女なら可能性はあると言っていたが、それも気休めかも知れん。
よかったな、パイモン」
「な、何がよかったと仰るのですか、このような一大事!」
パイモンは頭から湯気を立てて、彼に詰め寄った。
「分からんのか、俺を王位から引きずり降ろす、立派な口実が出来たろうが。
子種がない男など、
もはや、“焔の眸”もおらん、俺が魔界王にふさわしくないと考えるなら、家臣全員の署名でも集めて、
そうだ、どうせなら、パイモン、貴様が王位に就くがいい」
タナトスは、平然と答えた。
「な、何を仰います、左様な
「そういえば、貴様には娘がいたな、そいつをサマエルのところに送り込み、子を孕ませて後宮に入れ、俺の子だということにして世継ぎにする、というのはどうだ?
貴様は、次代の魔界王の祖父、思うがままに
まるっきり他人事のように、タナトスは言ってのけた。
「タナトス様! わたくしめを、そんな権力に踊らされる男とお思いか!」
怒りに震えるパイモンに目もくれず、淡々とタナトスは続ける。
「それに、“焔の眸”は、サマエルを選んだ。
つまり、ヤツが真に魔界王に就けたかったのは、俺ではなく、弟の方だったのだろう。
しかし、サマエルは魔界を出ていたし、貴様らの反対を押し切り、魔界王に据えるのは面倒だったか、その自由がなかったかだ」
「陛下……」
思わずパイモンは、タナトスが嫌う敬称を使ってしまったが、それに対する反応はなかった。
「心配無用だ、俺の代わりが見つかるまでは、大人しく、執務でも何でもこなしてやる。
サマエルが種馬として不足と言うのなら、貴様が選んだ男に種をつけさせ、娘を後宮に連れて来るがいい。
さあ、もう用はない、下がれ」
タナトスは力なく手を振り、パイモンを下がらせた。
それからの魔界王は、本当に静かになってしまった。
黙々と執務をこなし、怒りを
そして、いつもどこか遠くを見ているような眼差しを宙に投げかけ、その
こうして、怒りっぽく、激しい気性を眠らせてしまったタナトスの様子には、どこか痛々しいものがあり、それと同時に汎魔殿もまた、火の消えたようになってしまった。
女官や召使達は声を上げて笑うことはなくなり、話をするときも声をひそめ、足音を立てないよう、忍び足で歩くありさまだった。
宮廷人達もまた同様で、毎夜のように開かれていた舞踏会も、誰言うことなく、自粛されるようになってしまった。
当然、彼らは退屈を持て余し始め、古くからいる重臣達が、魔界王を縛りつけていると不満を述べる者もいた。
責任を感じたパイモンは、イシュタルに相談を持ちかけた。
だが、彼女も、タナトスの生殖能力については初耳だった。
「そうだったの、可哀想に。それもあって荒れていたのね……知らなかったわ。
でも、わたしが前々から言っていたでしょう。このままでは、タナトスを追い詰めてしまうわよと。
言い返す元気があるうちはいいの、でも、ひとたび心を閉ざしてしまったら……殻に閉じこもったあの子を引っ張り出すのは、正直、とても大変なのよ、パイモン」
「申し訳もございませぬ。
なれど、イシュタル殿下以外におすがり出来るお方は、もはや魔界には……」
パイモンはうなだれた。
「そうは言っても、わたしは本当のところ、タナトスとは相性がよくないのよ、困ったわねぇ。
一番いいのは、“焔の眸”に魔界へ来てもらい、タナトスに意見してもらうことだけれど、彼はもう、魔界王家には関わりたくないでしょうし……」
イシュタルは考え込んだ。
「失礼ながら、イシュタル殿下。
以前、タナトス陛下が王位に就くのを渋られた折、サマエル殿下を説得し、魔界までお連れして頂いたことがございましたな、今回もお願い出来ぬでしょうか」
イシュタルは否定の身振りをした。
「残念だけれど、わたしは今、魔界を動けないわ。ベルゼブル様のお加減がよくないの。
今、お薬が効いて眠ってらっしゃるから、こうして話も出来ているけれど、目覚めてらっしゃるときは、片時も、わたしをそばから離そうとはなさらないのよ」
「何と、ベルゼブル陛下が! 一体、どちらがお悪いので!?」
デーモン王は驚き、立ち上がった。
「いえ、特別に、どこかお悪いところがあるわけではないのだけれどね。
でも、もうお年ということだけでなく、何か、心にかかっていることがおありになるようで……最近では、夜もうなされて、よくお休みになれないでいらっしゃるのよ」
イシュタルの美しい顔が
パイモンも顔を曇らせた。
「それは、ご心配なことでございますな……。
かと申しまして、わたくしが人界に参りましても、“焔の眸”閣下は元より、サマエル殿下も、お聞き入れ下さいますかどうか」
「たしかにそうね、多分、二人共、お前達にはいい心象を持っていないでしょ。……誰か、いないかしら……」
しばし考えを巡らしていたイシュタルは、ぽんと手を打った。
「そうだわ、プロケルがいるじゃない。
人界でサマエルとも暮らしたことがあるし、彼なら、タナトスにも直言できるわ。
きっと、年の甲で、何とかしてくれるのじゃないかしら」
「おお、プロケル殿下に。それはよきお考え。
さっそくわたくし、殿下の領地へと飛びます、では、これにて」
デーモン王は、礼をして退出し、即刻、プロケル公爵の元へと向かった。
氷剣公の城に着いてみると、プロケルは、庭で樹木の手入れをしているという。
中庭に面したテラスへと通されたパイモンは、出された茶にも手をつけず、ベンチにも座らずに、後ろで手を組んで落ち着きなく歩き回り、引退した元公爵が現れるのを待った。
「お待たせして申し訳ない、パイモン殿。
暇を持て余しておってな、最近では、庭師の真似事などしてみておるのだよ。
……それにしても、いかがされた? 顔色が優れぬように見受けられるが」
つばの広い帽子をかぶったプロケルは、首に巻いた布で汗をぬぐいながら、いぶかしげな顔をした。
「突然の訪問、さぞやご不快に思ったことと存知まするが、実は……」
元公爵は、前置きなしに切り出すデーモン王の話を、最後まで静かに聞いていた。
「……左様なわけにて、タナトス陛下は、あまりにも無気力になってしまわれ、家臣一同、困惑しておる次第。
それにまた、ベルゼブル陛下のお加減がよろくしなく、イシュタル殿下は、身動きがお取りになれぬとの
その上で、公爵様が、よきお考えをお持ちではないかとの殿下のご意見を頂きまして、こうして参上
「ベルゼブル陛下が!? むう、それはいかん。
さっそく、お見舞いに馳せ参じねば」
カップを下ろし、プロケルは立ち上がりかける。
「いやいや、ああ、無論、ご心配ではございましょうが、ベルゼブル陛下は、何分ご高齢ゆえ、ご病気とまでは……。
それよりもと申せば
あたふたとパイモンが言うと、プロケルは帽子を脱ぎ、デーモン王をじっと見つめた。
「……のう、パイモン殿。
差し出がましいやも知れぬが、タナトス様には、お心を少し、お休めになって頂く時間を差し上げてはいかがかな」
「お心を、お休めになる時間ですと……?」
「“黯黒の眸”とのことや、その村人の件でご心痛が重なり、今のタナトス様は少々、神経が参っておいでではないかと思うのだが。
あの方は、王としての責務を重く受け止めておいでだ、だからこそ、王子であったときのように、人界に入り浸るようなこともなさらずにいたのであろう。
時には、お一人にして差し上げ、また、羽目を外すことを多目に見る度量の広さも必要ではないのかな?」
「ご忠告、痛み入ります、なれど……」
「貴殿の心持も分かるが、あまりに事を
一月ほど様子を見て、タナトス様の
時が解決してくれることもある……今は、あまり騒がぬ方がよいのではないかとも思うのだがの?」
「分かりました。その折には、改めてお迎えに参りますゆえ、何とぞよしなに」
パイモンは深々と礼をし、プロケルの城を辞した。
きうつ【気鬱】
気分がふさぐこと。気分がはればれしないこと。また、そのさま。