3.魔界の影(2)
こうして、半ば強制的に連れて来られたアルキュラ村の人々は、汎魔殿の住人から、おおむね歓迎された。
なまりがひどいために言葉が通じにくかったりはするものの、彼らは常に明るく、また文句一つ言わずよく働いたからだ。
前魔界王ベルゼブルを筆頭に、大臣やデーモン王達は眉をひそめていたが、イシュタルに釘を刺されただけではなく、これまでの村人達の
村人達にとっても、王宮での暮らしは天国だった。
地獄のような環境での重労働に比べれば、ここでの仕事は、楽をし過ぎて申し訳ないと感じてしまうほどの軽作業である。
また、汎魔殿では最低ランクの食事が、彼らには素晴らしいご馳走であり、そのことでも感激していた。
そうして、一月ほどが過ぎ、ようやく城での生活にもなじんだと思えた頃。
ぽつりぽつりと、体調を崩す村人達が出始めた。
激変した環境のせいと思われたが、中でも長老の病状は重く、余命幾ばくもないことは明らかで、もはや寿命と、本人も村人達も覚悟を決めていた。
「タナ、トス様……ほ、ほんに、ありがとう、ござい、ましただ。
これで……あの世で、胸を張って、ご先祖に、報告、出来ますだ……。
ついに、長年の苦労が、報われ……魔界王、様に……おらが村が、認めて頂けたと……ううっ」
ベッドに横たわった長老は、息も絶え絶えに、見舞いに来たタナトスに言った。
「気弱なことを言うな。せっかく汎魔殿に来たのだ、もう少し長生きして余生を楽しめ。
まだまだ、見聞きしていないことがたくさんあるぞ」
魔界王の答えに、長老は首を横に振った。
「い、いえ、もう、十分で、ございますだ……。
そ、それ、よりも、案じられますんは、まだ若い者達の、行く末で……タナ、トス様」
長老は涙を浮かべ、やせ衰えた手でタナトスの手を取った。
「分かった。心配するな、俺が最後まで、責任を持って連中の面倒を
心安んじて墓に入るがいい」
タナトスは力強く、長老の手を握り返す。
「あああ、ありがたや。
お、おらぁは、ほんに、幸せ者だす……!
代々の、長老の中で、よ……ようやく、使命を、果たし、ましただ……」
そう言うと、長老は息を引き取った。
幸福そうな死に顔だった。
「長老様!」
「長老様ー!」
詰め掛けていた村人達は一斉に泣き崩れた。
長老の葬儀は、汎魔殿をあげて盛大に行われ、その遺体は、広大な汎魔殿の敷地内にある、多大な功績を残した者のみが埋葬される“功労者の墓地”へと丁重に葬られた。
しかし、体調を崩す村人は後を絶たず、タナトスは、急ぎ魔法医達に、原因究明を命じた。
それでも、二週間と経たないうちに、オルプネとゴルギュラを除く全員が倒れ、寝込んでしまった。
主な症状は呼吸困難で、村人以外に症状が出る者はいなかったが、未知の流行病ではないかと汎魔殿の住人達は恐れた。
そこで、タナトスは皆の不安を考慮し、村人達を汎魔殿の一角に隔離して、原因が分かるまで、元気なオルプネとゴルギュラだけで彼らを看病することになった。
しかしその後も、村人達の病状は悪化の一途をたどり、苛ついたタナトスは魔法医達を急かしたが、原因は不明のままだった。
最初の者が倒れてから、一月半ほど経ったある日。
執務室に、魔法医の代表、エッカルト医師が報告に現れた。
「遅くなりまして申し訳ございません、タナトス様。
村人の体調不良の原因が、ようやく判明致しましたので、取り急ぎご報告に参じました」
「ああ、やっと分かったか。
──で? やはり、奥地の未知のウイルスか何かか?
ワクチンでも作れば、すぐ治るのだろう?」
「いえ、それが……」
魔法医は、答えにくそうに眼を伏せる。
タナトスは顔をしかめた。
「何だ、はっきり言え。まさか、不治の病とか言うのではなかろうな」
「いえ、左様なことではございませぬ」
そう言うと、エッカルトは顔を上げ、意を決したように話し始めた。
「タナトス様。彼らをただちに、アルキュラ村へ戻すことをお勧め致します。
さもなくば早晩、全員が死に至ることになると思われますゆえ」
「何だとぉ、全員死ぬ!?」
タナトスは思わず、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「オルプネとゴルギュラもか! あいつらは、何も症状が出ていないぞ!」
医者は、首を左右に振った。
「いいえ、おそらく近日中に、彼女らにも同様の症状が出て参ることでしょう、そして、長老の元へと旅立つことに……」
「一体どういうことだ! それほど酷い
言え、その病の名は何だ、何ゆえ、あやつらが死なねばならんのだ!」
タナトスは語気も荒く、魔法医を睨みつけた。
「この病には名はございませぬ、これは正確には、病とは呼べませぬゆえ。
何しろ、彼らのあの症状は、汎魔殿の清浄な空気に原因があるのでございますから」
エッカルトの言葉に、タナトスはぽかんと口を開けた。
「何、清浄な空気が原因……どういうことだ」
「様々な角度から調べましたところ、アルキュラ村の人々はもはや、瘴気なしには生きてゆけぬ体になってしまっており、汎魔殿のように、ほとんど瘴気が存在せぬ場所での生活は、残念ながら、ほぼ不可能かと思われます……。
おそらく、遥かな太古より、異常なまでに濃い瘴気の中で生活を続けて来たことによるものでしょう、彼らは、遺伝子レベルまで瘴気に順応している模様でございまして」
「なにぃ!? あんな有毒なものなしには、生きられん体だと!?
しかし、十年も村を離れていたオルプネ達は、今もぴんぴんしているではないか!」
タナトスは、勢いよく手を振った。
「彼女達は、例外的存在と申し上げてよろしいでしょう。
まず、二人が捕らえられておりましたレテ街は、王都の近くにありながら、瘴気の濃い場所でございました。
それに若さもあり、多少薄い瘴気にも体が慣れて、どうにか暮らせていたのでございましょう。
されど、他の者達は、彼女らよりも長い期間、強力な瘴気にさらされ、また、もはや順応が利く年齢ではなくなっておりましたため、こちらへ参ってすぐに、症状が出てしまったのだと考えられます」
「むう、あいつらを、辺境に戻さねばならんと言うのか、あんな、酷い環境に……」
貧しい村と、瘴気を噴き出す谷のすさまじい情景を思い出し、タナトスは思わず眉を寄せた。
エッカルトも、沈痛な面持ちでうなずいた。
「はい、まことに
彼らは、現在において瘴気がほとんど存在しませぬ王都バシレイア、及び汎魔殿には、長期間は住めぬ体なのです。
どれほどの瘴気濃度ならば生存出来ますかは、現時点では断言出来ませぬが、レテ街、あるいは、奥地との境にあるレテ河近辺でなくては、生きてはゆけぬと思われます」
「……くそ、魔法で何とかならんか、その遺伝子をいじるとか、どうにか出来んのか!?」
タナトスは、険しい顔で尋ねた。
「無論、それも考えました。なれど、事はそう容易には参りませぬ。
遺伝子を操作することにより、患者が死んでしまうのはまだましな方で、下手をすれば、すさまじい怪物を生み出す可能性もございますゆえ。
過去、“紅龍”は、そうやって出現したのだと伝承されておりますし。
やはり、幾世代かかけて徐々に遺伝子を戻していく、俗に言う“戻し交配”という手法を用いるのが、最も安全で確実な方法かと。
つまるところ、残念ながら、現在の村人の代におきましては、清浄な地での生活は不可能……。
それが、我らの考えでございます」
「……何ということだ。
俺は、長老と約束したのだぞ、責任を持ってヤツらの面倒を看ると。
それが、こんなことになるとは……」
さすがの魔界王も、この事態には頭を抱えた。
魔法医は否定の身振りをした。
「いえいえ、これは決して、タナトス様の
辺境に戻さねば、命に関わるのでございますから、致し方ないことかと……。
きちんと理由を説明致せば、村人にも道理が通ることと存じますが」
「──くそっ!」
タナトスは歯噛みし、壁を殴りつけた。
「力及ばず、申し訳もございませぬ」
エッカルトは、自分の落ち度のように、深々と頭を下げる。
それをじろりと見て、タナトスは言った。
「その
「はい。汎魔殿におります魔法医のみならず、魔法医ギルドの総意でございますゆえ」
医者はきっぱりと言い切り、続けた。
「これはおそらく、祖先の、壮大なる人体実験だったのではございますまいか、この魔界で、魔族が生き延びる方策を探るための。
その試練に耐え、立派に使命を果たした彼らを、再び荒地に追いやることは、心苦しい限りではございますが。
そして……こう申しては何でございますが、アルキュラ村の村人は、今や、最も魔界に適応した種族なのやも知れませぬなぁ……」
エッカルトの言葉の最後は、ため息に近かった。
「…………」
タナトスは無言で唇を噛み締めると、椅子に座り直し、考え込んだ。
ややあって、気を取り直した魔界の王は立ち上がり、魔法医に命じた。
「分かった。ついて来い。あいつらに話をせねばならん。
これ以上、死人が出るのは
「は。お供致します」
二人は重い足取りで、村人達が隔離されている一角へと向かった。
その道すがら、タナトスは、村人に何と言って切り出したものかと迷った。
ようやく功績が認められ、汎魔殿に住むことが出来たと喜んでいる彼らを、再び辺境の村に戻し、あの惨めな、見捨てられた暮らしを続けさせなければならないと考えると、どうしても気分が沈んでいく。
彼らしくもなく、迷い続けていた魔界の王は、村人達が収容されている部屋の前に着いた瞬間、心を決めた。
勢いよくドアを開け、タナトスは大声で告げた。
「今から貴様らを村に帰す。泣き言は言うな。そして、二度と戻って来ることは許さん!」
言うなり彼は、まだ事態が飲み込めず面食らい、咳き込んでいる村人を、ベッドごと片っ端から辺境の地、アルキュラ村へと飛ばし始めた。
「な、何をなさいます、タナトス様! おやめ下さいませ、まだ話が……!」
「うるさい! こやつらはどうせ、ここに置いておけば死ぬのだろう!
ならば、四の五の言わせず、村に帰せばいいのだ!
──くそ、ちまちま送るのは面倒だ、どけ!」
慌てて止めに入るエッカルトを突き飛ばして外へ追いやると、タナトスは自分も部屋を飛び出し、手荒くドアを閉めて呪文を唱えた。
「──ヴェラウェハ!」
途端に、目の前にあった扉がかき消えた。
消滅したのはドアだけではなく、部屋があったところには、ただぽかりと空間があるばかり。
石組みだけが残っていた。
タナトスは、中にいた村人達ごと、部屋そのものを村へ移送してしまったのだ。
「タ、タナトス様、何と、無茶なことをなさる……」
魔法医は、自身が仕える主の魔力の強さと、その無謀な使い方に、ただ目を見張っていた。
艱難辛苦(かんなんしんく)
困難にあって苦しみ悩むこと。