3.魔界の影(1)
目的地まではかなりの距離があったが、魔界王の力は強大である。
三人は一瞬で、荒涼たる魔界の奥地に到着していた。
「わあ!」
「なつかしいだよぉ!」
「……!」
女達は歓声を上げるも、タナトスは、危く咳き込みかけた。
辺り一面に、強力な瘴気が渦巻いていたのだ。
しかも、体中に湿気がじっとりとまといつき、それもまた呼吸を妨げる要因となっていた。
「……むう、聞きしに勝る、瘴気の濃さだな」
彼は急ぎ手を一振りし、自分の周りに結界を張る。
一方、女達は平気な顔で、瘴気にかすむ集落に向かって駆け出して行った。
「おーい! あたしら帰って来ただよぉ!」
「長老様! 今帰ったよ、オルプネだよぉ!」
「──ち」
タナトスもその後を追い、村に入って行った。
時折吹く突風は、さらに強力な瘴気を村の外から運び、周囲の風景や、石を積んで作られた家々を、汚らしい茶褐色に染めていた。
時に忘れられ、古ぼけた、みすぼらしい村だった。
(ふん、こんな瘴気まみれの、じめじめした薄汚い場所に長く住んでいたら、寿命が縮まるのも当たり前だな)
タナトスは一人ごちた。
「誰も出て来んようだが、どうしたのだ?」
先行した二人に追いつき、彼が尋ねると、女達は振り返り、答えた。
「この時間だと、多分、瘴気の谷に行ってるんだと思いますだ」
「ほう、瘴気の谷か。
俺はまだ、瘴気が噴き出すところを直接見たことがない、行ってみるか」
「そりゃいいだけんど。村を越えて、かなり行かなきゃならねぇだよ」
オルプネが、水かきのついた手で指差す先には、さらに煙って見える景色が広がっていた。
「それに、谷に行くんなら支度がいるだす、あたいらでもやっぱし、ろ過マスクくれぇはしねぇと、さすがに息がしんどいだすから」
「そんなものはいらん、俺が結界で囲んでやる。
手をつなげ。谷を思い浮かべろ」
タナトスの答えは、いつも通りそっけなかった。
手を一振りし、彼女達を結界で囲んでから、彼は呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
すぐに三人は、谷間の入り口に着いた。
巨大な灰色の岩がごろごろと転がり、一段と濃く立ち込める瘴気のせいで、水中にでもいるかのように、すべての物が揺らいで見える。
「……これは、想像以上だな……」
一歩結界の外に出ただけで、すさまじい臭気に襲われる羽目になるだろうとタナトスは考え、思わず鼻にしわを寄せた。
それに反して女達は、はしゃいでいると言ってもよかった。
「ここに来ると、村に帰って来たって感じがするねぇ!」
「ホントだわぁ!」
「そんなことより、村人どもはどこだ?」
顔をしかめたまま、タナトスは女達を急かした。
「あ、すんません。
ええっと……十年前と、噴き出すとこが変わってなければ、あっちだと思いますけんど」
オルプネが指差す方角に、タナトスは結界球を進めた。
いくらも行かないうちに、毒々しい茶褐色の気体が充満した場所に出た。
ごつごつした岩の間から、瘴気がひっきりなしに、すさまじい勢いで噴き出している。
もし、直接この中に入れば、自分の手の先さえ見えないだろう。
ろ過マスクをつけていたとしても、並の魔族ならすぐに呼吸困難を起こし、一日中作業するなど不可能と思われるこの谷の最深部に、うごめく人影があった。
「あ、いたいた!」
「皆! あたいら帰って来ただよぉ!」
女達が声を上げる。
「あんりゃあ、そこにいるのはオルプネかい?」
それに気づいた何人かの人影が、近寄って来た。
「そう、あたいだよ!」
「やっぱりそうだか!」
「おう、ゴルギュラじゃねぇだか、心配したぞ!」
「でも、元気そうだな」
「うん、皆も、元気でよかった」
「おや、そっちのお人は誰だぇ? 見かけねぇ顔だが、お客人かぇ?」
村人の一人が、タナトスに気づいて尋ねた。
「あ、そうだ、皆、聞いてけろ。このお方はタナトス様、今の魔界王様なんだよぉ」
オルプネが声を張り上げる。
「ひえっ!? そ、そんな偉ぇお方が、なしてこんだらとこさ……?
い、いや、それより、皆、ほれ、ぼさっと突っ立ってんじゃねぇ、御前だぞ、ひざまずかねぇか!」
黒い犬の姿の村人が声をかけ、全員が大慌てで、足場の悪い岩場に膝をつく。
タナトスは、彼らに向かって手を振った。
「そんな礼儀などいらん、俺は貴様らを王都に連れて行くために来たのだ。
村人はこれで全部か?」
「へ、へぇ、村にいるのはこれで全員ですだ、魔界王様。
けど、おら達を王都にって……?
か、勘弁して下せぇ、お、おら達、何にも悪いことしてねぇですだよぉ。
ただ、昔の魔界王様に言われた通り、こうして毎日せっせと、瘴気の穴をふさいでるだけで、何もそんな……」
罪人として連行されてしまうと勘違いした黒犬の村人は、祈るように手を合わせた。
「安心しろ、俺は貴様らを捕らえに来たのではない、その逆に、ねぎらいに来たのだ。
長の年月、ご苦労だったな」
「へええっ!?
いぇえ、とんでもねぇこってす。
ま、魔界王様が……わざわざこんな田舎に来て頂いた上、おら達をねぎらって下さるなんて、信じらんねぇだ……ありがてぇ、涙が出ますだ!」
黒犬の男を筆頭に、村人達は彼を伏し拝んだ。
「顔を上げろ。
もはや貴様らは、こんな空気の汚れた場所で、手作業で瘴気の穴をふさぐなどといった、時代錯誤の作業をする必要はないぞ。
こんな辺ぴな場所で、うまく連絡が行かなかったのだろうが、結界で瘴気を防ぐことが出来るようになって久しいのだからな。
仕事がないという心配もいらん、汎魔殿で働けるよう、俺が取り計らってやるつもりだ」
「ほ、本当ですだか、魔界王様!?
お、おら達を、お城で働かせて下さると仰る!?」
男は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
その後ろで、村人達もざわついている。
「ああそうだ。
だが、こんな場所には長居は無用だな、詳しい話は村に戻ってからしてやる、先に行っているぞ」
タナトスは結界球を反転させ、さっさと谷間を後にする。
村に戻って待つことしばし、村人達が駆け足でやって来た。
結界から出たオルプネとゴルギュラは、全員と抱き合い、再会を喜んだ。
その間中、タナトスは苛々と足を組替えながらも、どうにか急かすことを思い留まっていた。
それが一段落し、興奮が収まった彼女達は、尋ねた。
「あ、でも、なして長老様の姿が見えねぇんだ?」
「家にもいなかっただけんど、どうしただ?」
村人達は顔を見合わせ、代表して、またも黒犬の男が答えた。
「……実は、長老様は、最近、めっきり体が弱くなっちまってな。
村に住むのはもう無理になって、隣村に住まわせてもらってるだよ。
そんで、今はおらが、長老様に代わって皆をまとめてるんだが」
「ええっ、長老様が!?」
「そげに具合、悪いんだか?」
オルプネとゴルギュラが心配そうに尋ねると、男は肩をすくめた。
「いやいや、口はまだまだ達者だけんど、さすがに体の方は、寄る年波には勝てねぇんだなぁ。
それにほれ、やっぱ隣村なら、アルキュラよか、少しは瘴気が薄いだろがよ。
んで、静養さ行ってけろって、皆で意見しただけんど、長老様ぁなかなか首を縦に振らなぐてなぁ。
連れてくのに難儀しただよ」
「……そっか。
あ、あのぉ、タナトス様……言いにくいんだけんどもぉ……」
おずおずと切り出すオルプネに、タナトスは舌打ちした。
「──ち。その、隣村にいる年寄りも一緒に連れて行けと言うのか」
「へ、へぇ、この通り、お願ぇしますだ」
「ねぎらいのお言葉、長老にも聞かせてやりてぇんです、お願ぇしますだ、これ、この通り……」
二人の女達は手を合わせ、地面に
「お願ぇしますだ、長老様もお連れ下せぇ!」
村人達も声を揃え、土下座をした。
「……ふん、面倒だが、仕方あるまい。
一番の生き証人と言っても過言ではないのだからな、その年寄りは。
是非ともねぎらい、余生を安楽に暮らせるよう取り計らってやることが王たる俺の責務だろう。
貴様ら。汎魔殿に着いたなら、まずは、ぬくぬくと平和を享受している貴族どもに今までの苦労を語って聞かせ、先祖の苦難を思い出させてやるがいい。
そら、いつまでそうしている気だ、立っていいぞ、皆の者!」
タナトスは、手を振って村人達を促す。
それから、思い切り渋い顔をした。
「しかし、大昔のたわけ者どもの尻拭いを、なぜ俺の代でせねばならんのか、その点は大いに不満だがな!」
「す、済みませんだ、タナトス様。
け、けど、長老様は、あたいらにとって、すっごく大事な……」
あたふたと言い訳するオルプネを、タナトスはさえぎった。
「気にするな、お前達に腹を立てているのではない。
惰性で王位を継いで来た、先祖代々の愚王どもに対して怒りを感じているだけだ。
──さあ、さっさと、そのジジイを連れに行くぞ、隣村を思い浮かべろ!」
タナトスは、ひやりとしたオルプネの手を無造作に握る。
「へ、へぇ。んじゃあ皆、待っててけろ。すぐ、長老様を連れて来るだよ」
「そんじゃあ、おらも一緒に行きますだ。
長老様を預けてる家に、ご案内しますで」
黒犬の男が進み出る。
「ああ、案内しろ」
隣村に着くと、過剰に歓待されることを好まないタナトスは言った。
「おい、貴様ら、俺のことは言うなよ。
これ以上、歓迎だの何だのとされると、時間ばかりかかって面倒だ」
「わ、分かりましただ。では、こっちですだ」
それから、彼らは黒犬に先導されて、長老が預けられている家に向かった。
引き取ることを告げられた村人は、少し驚きはしたものの、それを歓迎した。
貧乏なのは、この村もアルキュラと大差なかったため、食い
「……迎えに来て頂けたんはありがたいだすが、あんた様は……。
何やら、他のお人とは、どこか違いなさるようだけんど」
さすがは年の功、長老は、タナトスの尋常ならざる魔力に気づいていた。
“俺の正体は、村に帰ってからこいつらに聞け”
タナトスは念話でそっけなく答え、女の冷たい手を握る。
「用件は済んだ、帰るぞ、オルプネ」
「は、はい」
蛙女は、急いで老人と黒犬の男の手を取った。
それを目の隅で捉えて、魔界の王は呪文を唱える。
「──ムーヴ!」
こうして、アルキュラ村へと戻って来た長老は、オルプネ達から説明を聞き、感涙にむせんだ。
「おうおう、魔界王様……待っていた甲斐がありましただ。
ワシはもう、今すぐ死んでもいいですだ」
「ふん、まったく年寄りというものは、涙もろいものだな」
それに感銘を受けることもなく、タナトスは村人を急かした。
「さあ、貴様ら、さっさと支度をしろ、出来次第、すぐ出発するぞ!
のろのろしているヤツは、置いていくからな!」
タナトスが本気で、自分達を汎魔殿に連れて行く気で入ることを知り、村人達は大慌てで支度にかかる。
オルプネとゴルギュラは、長老の支度を手伝う。
全員の準備が終わると、タナトスは馬車を呼び出し、村人を載せて汎魔殿へと向かった。
carry out a contract
契約を交わす。契約を結ぶ。契約を履行する。(挿絵の言葉)
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