2.花嫁候補(4)
翌日。
イシュタル叔母のお陰だろう、もはやタナトスのところに、苦情を言い立てに来る者は現れなかった。
それどころか、叔母の言った通り、汎魔殿の中を行く自分に向けられる貴族や女官達の視線が、少し前までとはまったく違っていることに、タナトスは気づいた。
「ふん……」
拍子抜けした彼は、汎魔殿では受けたこともない尊敬の眼差しに、どこか居心地の悪さを感じつつ、ともかく執務室へと入り、仕事をこなした。
その日は会議はなく、手が空いた午後、彼は好奇心も手伝って、自分が身請けした女達に会ってみることにした。
「女ども、入るぞ!」
案内も請わずに、後宮の、女達にあてがわれた部屋に入って行くと、動物めいた姿が一斉に駆け寄って来て、彼を取り囲み、口々に叫んだ。
「わあっ!」
「魔界王様だ!」
「ありがとうございます!」
「王様万歳!」
「うるさい! 一度にわめくな!」
タナトスは険しい顔で、女達を怒鳴りつけた。
「皆、静かにしな!」
そのとき、娼館アケロンで最初に出て来た一人、蛙に似た女が一喝して女達を黙らせた。
「魔界王様、あたい、皆を代表してお礼を言いいますだ。
助けてくれて、ありがとうございましただ!」
蛙女は、
「おう、お前は、たしか、最初に出て来た女の一人だな」
「オルプネですだ、魔界王様」
「……ああ、そんな名だったか。
そうだ、お前達も、俺に対しては称号などはいらん、名前で呼ぶがいい。
ところで、イシュタル叔母に聞いたが、身売りした者だけでなく、さらわれて来た者もいたそうだな」
「はい、魔界王様……いんや、ええっと、そのぉ……」
オルプネは口ごもり、困った顔で、うかがうようにタナトスを見た。
「何だ貴様、俺の名を知らんというのか!」
魔界王の眉間に、稲妻めいたものが走る。
すると、蛙女のすぐ後ろにいた、犬の姿をした女が急いで彼女に耳打ちをした。
「タナトス様だよ、オルプネ。お名前は、タナトス様」
オルプネは、ほっとしたようにうなずくと、深くお辞儀をした。
「す、すまねぇこってす、タナトス様。でも、あたい、このゴルギュラと……」
蛙女は、隣にいた蜥蜴の女を指差す。
「一緒にさらわれて来て、もうずっと……十年以上も、あの店、『アケロン』に閉じ込められてて、ろくすっぽ外にも出たことなくって。
そんだから、あんまし、魔界王様のお名前も、聞いたことなかっただ、本当にすんません……」
「タナトス様、オルプネを許してやって下せぇ。
あたしら庶民にゃ、尊い王様のお名前なんて、恐れ多くって、そんなにゃ話ん中にも、出て来ねかったんです……」
蜥蜴女も口を添える。
「もう、お名前は、しっかり覚えましたから、お許しを……!」
女達は、二人一緒に、ぺこぺこと頭を下げた。
たしかに、魔界で“魔界王”と言えば、現在、タナトスただ一人を指す。
日常生活に無関係な王の名前など、一般庶民にとっては、うろ覚えでも別に支障はないに決まっている。
当然タナトスにも、それくらいのことは分かっていたし、そんな細かいことをあげつらう気分でもなかった。
「ふん、そういうことなら仕方あるまい、もう気にするな。
ともかく、俺が身請けした以上、お前達は自由だ、どこへなりと行っていいぞ、家がある者は帰るがいい。
ここに残ってもいいが、下働きとして働くことになるぞ。
取りあえず後宮に連れて来たのだ、俺は間違っても、お前達を
タナトスは、きっぱりと言ってのけた。
パイモンを始めとした、口やかましい家臣達に当てつける目的は果たしたのだし、もはやこの女達に用はなかった。
「嫌だなぁ、そんなの分かってますよぉ、タナトス様。
後宮にゃ、綺麗な女の人が一杯いるだし、高貴なお方が、あたいらみてぇな半端もんを相手にする気がねぇことぐらい。
あんな店から救い出して下さっただけで、ありがてぇんだすから」
魔界王の許しを得たオルプネは安堵し、水かきのついた手を振って、ケロケロと声を上げた。
(……ほほう)
蛙が笑うのを初めて見たタナトスは、思わずしげしげと、その様子を見てしまった。
「おんや、珍しいですか? そうでしょねぇ、たーんとご覧下さいな」
蛙女は、そういう眼で見られることに慣れているのだろう、別に気にした風もない。
タナトスは慌てて言った。
「い、いや、分かっておればいい。
ああ、せっかく汎魔殿に来たのだ、話の種に、城内を見て回ってもいいぞ。
床に案内用の矢印がある、場所を告げればどこにでも行けるからな」
「え、いいんですかぁ!?」
オルプネは眼を輝かせ、女達を振り返った。
「皆、聞いたかい!? お城の中、見学していいんだってさ!」
「わあ、素敵!」
「いい土産話ができるわ!」
「お城の中が見れるなんて!」
女達は黄色い歓声を上げた。
顔をしかめたタナトスは、騒ぎを制して、忠告した。
「待て、お前達、単純に喜ぶな!
汎魔殿は広い。矢印があっても端から端まで歩けば何日もかかる、迷っても、捜してなどやらんからな、注意して歩けよ!」
「分かりましただぁ、タナトス様。
何から何まで、本当にありがとうございましただ、ほれ、皆も!」
蛙女が音頭を取ると、三十二人の女達は声をそろえ、タナトスにお辞儀をした。
「ありがとうございました!」
「ふん、もう礼などいい、聞き飽きた」
うんざりした口調で言い捨て、タナトスは部屋のソファに腰掛けた。
「それより、俺も退屈しているのだ、汎魔殿から、ろくに出られんのだからな。
自由がないと言う点では、俺とて、囲われている女と大して変わりがないわ。
そうだな、いい機会だ。お前らの村の話でも聞かせろ」
彼は、ぱちりと指を鳴らす。
たちまちその手に、ワインの入ったグラスが現れた。
オルプネは眼を丸くし、女達はざわついた。
「ええ、あたいらの? で、でも、ど田舎で、何にもねぇ村だよぉ?
瘴気のせいで、作物もあんまりできねぇだすし、さらわれて来てからの方が、いいもんが食えるようになったくれぇで……なぁ、ゴルギュラ」
話を振られた蜥蜴女は、こくこくとうなずいた。
「う、うん。アルキュラ村は、し、瘴気を封じ込めるために、作られた村だすし、何にも、ねぇだすよ……」
「何、瘴気を封じ込めるために作られただと? どういう意味だ?」
今度は、タナトスが眼を見張る。
「あれ、知らねぇんですかえ、タナトス様。
元は、大昔の王様の命令で、あたいらの村だけじゃなくてぇ、何百って村が奥地に作られたんだすよぉ、瘴気を噴き出す穴を、ふさぐためにさぁ」
「むう、そうだったか……?」
首をひねっているうち、タナトスは、魔界王になる直前、歴史を再学習した時のことを思い出した。
「……そういえば、移住初期の頃に、立ち込める瘴気を少しでも薄めようと、そうした試みが行われたのだったな……
だが、ほとんどの村が死滅し、放棄されたと聞いた。
その当時の村が、まだ残っていたとは」
「あたいらの村だけだすよぉ。
うんと離れてるとこに隣村があるんだすけんど、やっぱ昔、全員死んじまって、別んトコから移住して来たんだっていう話で。
村にゃ千百歳の長老様がいて、もう体は利かねぇのに口だけは達者で、皆に
あたいらがさらわれて来てから、もう十年以上経っちまってるだし、長老様はまだ生きていなさるだかねぇ、他の皆もどうしてるだか……」
蛙女は遠い眼をした。
「ふん、そんな何もないところでも帰りたいのか」
「そりゃそうだすよぉ、生まれた村ですもん。
ま、おっとうもおっかあも、とっくに死んじまってるですけど。
あそこじゃ皆、瘴気のせいか、寿命が短くってねぇ、せいぜい千二百歳までしか生きられねぇだす。
ホントは、もっといい、せめてもっと作物が実る土地に移りたいって、村の人は話してんだけんど、何しろ貧乏で、引っ越す金もねぇもんで……」
「なにぃ、寿命が千二百年だと!? クニークルスよりも短いではないか!」
タナトスは驚き、叱りつけるように叫ぶ。
蛙女は悲しげにうなずいた。
「ええ、多分、あたいらの村が、魔界で一番寿命が短い気がするだす。
あ、そういやクニークルスも、大昔にゃ、奥地にいた種族だって聞いたですよ。
それが、いつの代かの魔界王様の眼に留まり、お城の菜園を任されるようになったそうで。
長老は、頑張ってりゃいつか、自分らも認めてもらえるって口癖みてぇに言ってただけんど、村人はもう、たったの四十人しきゃ残ってねぇだすし。
しかも、若もんは、もうあたいとゴルギュラだけになっちまってたんだす。
そんな
「ふうむ……」
タナトスは驚きから覚めると、言った。
「そうと聞けば、放っておくわけにもいくまい。
村人を全員奥地から引き上げさせ、今まで苦労をかけた分、ねぎらってやらねば。
もう瘴気の封じ込めなど、とっくに必要なくなっている、こうして強大な結界を張り、瘴気を防ぐことができているのだからな」
「ええっ、全員を引き上げさせるですだぁ!?
そ、そりゃうれしいだすけんど、でも……あたいらはこんな姿だし、王都に出て来たって、見世物になっちまうだけじゃねぇですだろか。
それに、アケロンのおかみが言ったみてぇに、まともな働き口だってありゃしねぇですだよ……」
蛙女はうつむき、首を横に振る。
その横で、蜥蜴女もうなだれていた。
「ふん、村人の二十や三十、この汎魔殿に置くことなど
雑用はいくらでもあるからな。
それに、城内を歩いてみれば分かることだが、貴族でも獣の頭を持つ者も結構いるぞ。
仕事ができさえすれば、蛇だろうが豚だろうが、俺は姿形は問わん」
「村の人が、全員、お城で暮らせる!? ほ、ホントですかえ、タナトス様。
あたい達のために、そんなことまで……信じられねぇだすよぉ」
「す、すごいよ、オルプネ。すぐ、皆に知らせなきゃ!」
蜥蜴女ははしゃぎ、紫の舌で、ぺろりと唇をなめた。
「そうだな、ちょうど今、手が空いているし、行ってやるか」
タナトスはそう言い、パンパンと手を鳴らす。
「お呼びでしょうか、タナトス様」
現れた女官に、彼は告げた。
「イシュタル叔母上に伝言を。
『俺は今から、例の女達の村に行き、村人を全員ここに連れて来る』と」
「かしこまりました」
女官は問い返すこともなく、一礼して引き下がる。
「これでよし。叔母上に行き先を告げておけば、文句も言われんだろう。
さあ、お前達、俺と手をつなげ。そして思い浮かべろ、故郷の村を」
「はい!」
二人の女は、喜んでタナトスの手を取る。
魔界王は、彼女達の思念を受けて場所を特定し、呪文を唱えた。
「──ヴェラウェハ!」
アルキュラ
ケルト語で「谷間の地」。新約聖書に出て来るガラテア。
中世はアンゴラ(毛皮で有名)現在はトルコの首都アンカラ。
地名の世界地図/文春新書より