2.花嫁候補(3)
この噂は、数日と経たないうちに汎魔殿中を駆け巡り、タナトスの目論見通りに、大騒動が持ち上がった。
当然、パイモンは血相を変え、執務室に飛び込んで来た。
「陛下! あなた様が連れて参られた女達は、皆、いやしい花街の、しかも第一形態を持たぬ遊女どもだ、というのは
待ち構えていたタナトスは、いたずら小僧のように眼を輝かせ、答えた。
「ああ。貴様が、何でもいいから早く妃候補をと騒ぐから、わざわざ一等下賎な
「何と……何と情けない、これが魔界に君臨するお方の
パイモンは声を詰まらせ、首を横に振った。
「あっはっはっは!」
魔界王は高笑いしながら立ち上がると、パイモンに指を突きつけた。
「どうせ貴様は、俺がどんな女を選ぼうと、難癖をつけて来るのだろうが!
もういい、当分、貴様の顔は見たくもない、謹慎しておれ、追って沙汰する!」
「へ、陛下……!」
デーモン王は、わなわなと体を震わせた。
「黙れ! 俺が貴様を
──ヴェラウェハ!」
タナトスは、家臣を強制的に領地まで飛ばした。
次にやって来たのは、父親であるベルゼブル前王だった。
「タナトス、そなたは……」
現在の魔界王は眼を怒らせ、それ以上を言わせなかった。
「うるさい、今の王は俺だ、親父だとて、くちばしを挟むことは許さん!」
「何じゃと!」
「たとえ前王だろうと、俺のやり方に文句は言わせんと言っているのだ!
まだ何かほざくなら、魔封じの塔にぶち込んでやる、出て行け!」
タナトスは荒々しく叫び、父親を追い返した。
その後も、入れ代わり立ち代わり、他のデーモン王や大臣が押しかけて来ては、タナトスに苦情を申し立てた。
初めこそ楽しんでいた彼も、徐々に苛立ちを募らせ、ついに執務室を飛び出してしまった。
(──ち、忌々しい!)
自分で
「ここにいたのね、タナトス。捜したのよ」
「もう、うんざりだ! 誰が何と言おうと、俺は好きなようにやるからな!」
顔をしかめ、すぐさま移動しようとしたタナトスを、イシュタルは押し留めた。
「待って、タナトス。心配いらないわ、わたしはお前を支持するから」
想像したのと真逆な返事に、彼は動きを止めた。
「……何だと?」
「たしかにお前は、一時期執務をおろそかにして、遊び歩いていたわ。
それは責められるべきでしょう、でも、その後、自発的にやめたじゃない。
なのに、パイモンと来たら、戻って仕事をしているところへ押しかけて、がみがみ言って。
しかも、お前が嫌がると分かっているお妃の話題を、わざわざ持ち出して。
デーモン王達は、お前の出来が悪いと頭から決めつけて、良さをちっとも認めようとしないんですもの、お前が腹を立てるのも当然だわ。
タナトス、お前、“黯黒の眸”の件でも色々言われて、それでも我慢していたのよね、短気だのなんだのって、散々批判されていたから」
意外過ぎる答えに、タナトスは面食らい、無言で叔母を見つめた。
イシュタルは、にっこりした。
「ふふ、驚いた?
でも、わたし、今までも、幾度か忠告はしてきたのよ、デーモン王達には。
そんな調子では、いつかタナトスを追い詰めてしまうわよ、って」
「……そうだったのか」
「さっきも、パイモンに言ってやったわ。
タナトスは、今やれっきとした魔界の王、そうでなくとも、もういい大人なのだし、子供扱いや、過ぎた口出しはいらぬお節介よ、ってね」
「叔母上……」
まったくの予想外だったが、叔母が自分をようやく理解してくれたと思い、彼は頬を緩めた。
「それに、連れて来られた女達は、お前にとても感謝しているわよ。
王都や近郊から身売りした者だけでなく、奥地からさらわれて来た者もいたし」
「女達に会ったのか、叔母上」
「ええ、昨日ね。でも、あそこまで揃うと、何と言うか、見事だわね……」
「ああ、初めて見たとき、俺もそう思った。
勢いで全員買い取って来たのだが、考えてみれば、あんな低級な娼館に売られて喜ぶ女はおらんし、その点では、いいことをしたと言えるかも知れんな」
「そうね。後で後宮に行ってご覧なさい、大歓迎されるわよ。
それとね、意外でしょうけど、汎魔殿では好評を博しているのよ、今回のことは」
「……何だと、なぜだ?」
自分の行動が
「暇を持て余している宮廷
しかも、拉致された女達を助け出して来たなんて、美談じゃない。
実のところお前は、即位から今まで、皆が想像した以上に真面目に勤めを果たしているし、時折起こす奇抜な行動も、汎魔殿の住人には、退屈しのぎになる程度だわ。
だから、今回のお前の行動も、割と好意的に見られているのよね、頭の固い大臣達を除いては。
それを知らせに来たの、お前が腐っているだろうと思ってね」
イシュタルは微笑んだ。
「ふん、おだてても何も出んぞ」
そっけなく言いながらも、タナトスも釣られてにやりとした。
そんな彼の顔を、イシュタルは、爪先立って覗き込んだ。
「あら、お前、空腹なのじゃなくて?」
「ん? そういえば、最近、精気もあまり食っておらんな……」
「苛々していたのは、そのせいもあるのね。
ねぇ、久しぶりに、二人きりでゆっくりしないこと?
ちょうどベッドもあるし、誰もこんなところに、わたし達がいるなんて思わないでしょう……?」
イシュタルは、誘うような仕草をして見せた。
するりとドレスが脱げて足元に落ち、見事な裸身が
「……親父はいいのか?」
タナトスにしては珍しく、声には少しためらいがあった。
イシュタルは
「お前が気にするなんてね。
大丈夫……というより、あの方は、もうお年寄りだから……実はわたしも、空腹なのよ、とても……」
「そういうことか。では、遠慮なく頂くとしよう」
タナトスは叔母を抱きしめ、口づけた。
汗に濡れ、乱れた銀髪を整えながら、イシュタルはタナトスに声をかけた。
「お前ときたら、いつもわたしを抱きながら、サマエルを呼ぶのね。
たまには、わたしの名を呼んで欲しいものだわ」
隣に横たわる、弟によく似た顔をした叔母の、均整の取れた
それを堪能していたタナトスはベッドの上に起き上がり、肩をすくめて言い返した。
「そういう叔母上こそ、親父を呼んでいたが」
「えっ、……」
虚を突かれ、イシュタルは絶句する。
「くく、冗談だ、俺と違って叔母上は、ちゃんと区別をつけているさ。
というより、俺と、しょぼくれた親父とでは、間違えようがないというべきか?」
彼は笑い、若い肉体を見せつけるように、胸を張った。
イシュタルは、すねたように頬を膨らませた。
「……もう。お前は、サマエルとわたしを比べているんでしょう。
どうせわたしは、あの子の代用品よ」
「ふん、俺をサマエルと比べているのは、叔母上の方だろう!
本気のあいつに抱かれたいと思ってな!」
タナトスの声に冷ややかさが戻る。
イシュタルはそれを否定せず、言った。
「タナトス。そろそろ仕事にお戻りなさい。
他のデーモン王や家臣達にも、話は通しておいたから、もうお前を悩ます者はいないはずよ」
「ふん、仕方あるまいな」
顔をしかめ、タナトスは魔法で服を着る。
一旦は晴れた心が、また曇ってくるのを彼は感じた。
今の魔界には、自分のことだけを見、心から思ってくれる者はいないのだ、と……。
執務室に戻り、書類を片付けていたとき、彼はふと思い出した。
弟と共に人界へと赴くことになった、“焔の眸”の化身との会話を。
魔界王家の守護精霊としての任を解かれ、サマエルと一緒にいられるようになったというのに、なぜか化身は、さほどうれしそうではなかった。
そして別れの日、ダイアデムは上目遣いに訊いて来たのだ。
「……なあ、タナトス。オレ、ホントに行っていいのか?」
タナトスは不審に思い、訊き返した。
「何だ、貴様、今さら。自由になりたいと言っていたくせに。
サマエルと共に暮らすのは嫌か?」
「そうじゃねーよ、ただ……お前が一人になっちまうだろ」
意外な返答に、彼はあっけにとられた。
「何を言っている、俺は……」
「だって、お前も結構、孤立無援じゃねーか。周りは頭の固いジジイばっかでさ。
その上で、魔界の至宝っていう後ろ盾がなくなっちまうんだぜ。
お前、マジに、やっていけんのか?」
「うるさい、それくらいで俺が参るとでも思っているのか、たわけ者!
貴様、以前のように俺に弄ばれ、
そう叫んでしまってから、すぐに魔界の王は後悔した。
宝石の化身の体に激しい
「済まん、ダイアデム……だが、サマエルなら、俺より遥かに優しいはずだ。
あいつを頼む、俺なら一人でも大丈夫だ」
タナトスは語調を和らげたが、少年は、うずくまったまま首を横に振った。
「オレ、ホントに自由になってもいいのかなぁ……」
「何?」
「縛られた生活に慣れてたからかな、何か急に……怖くなって……」
「ふん、貴様は今まで、汎魔殿の中では勝手気ままに振舞っていたではないか、行動範囲が多少広くなるだけのことだろう、何を怖がることがある」
「そりゃそうだけど、さ……」
ダイアデムは、まだ自信がなさそうに眼を伏せていた。
短気なタナトスは、再び声を荒げた。
「ならば、俺が命じてやる!
“焔の眸”よ、我、魔界王サタナエルが命じる、貴様は今後、弟サマエルと常に行動を共にし、ヤツの正気を保つことのみに心を砕け!
これが魔界王として出す、俺の最後の命令だ、分かったか!」
「うん」
ようやくダイアデムはうなずいた。
それから、胸に手を当てて深々と頭を下げ、シンハの声で言った。
『黔龍王、サタナエル陛下。
我、“焔の眸”は、陛下の命に従い、弟君、ルキフェル殿下の元へ参る。
自由を
「長の勤め、大儀であった、“焔の眸”よ。
さあ、さっさと行ってしまえ、サマエルの頭が、またおかしくならんうちにな!」
「うん、ありがと、タナトス!」
少年は元気よく答え、手を振って駆けて行った。
あのときタナトスは、去っていくダイアデムに、ジルを重ね合わせてしまっていた。
(……結局は、誰も、俺を選んではくれんのだ!)
彼はうつむき、両の拳を力一杯、机にたたきつけた。