~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

2.花嫁候補(3)

この噂は、数日と経たないうちに汎魔殿中を駆け巡り、タナトスの目論見通りに、大騒動が持ち上がった。
当然、パイモンは血相を変え、執務室に飛び込んで来た。
「陛下! あなた様が連れて参られた女達は、皆、いやしい花街の、しかも第一形態を持たぬ遊女どもだ、というのは(まこと)ですか!?」

待ち構えていたタナトスは、いたずら小僧のように眼を輝かせ、答えた。
「ああ。貴様が、何でもいいから早く妃候補をと騒ぐから、わざわざ一等下賎な遊郭(ゆうかく)に乗り込んで大枚(たいまい)をはたき、買い込んで来てやったのだぞ。
()り取り見取りだ。どれが妃によかろうな? 俺は、蛙が気に入っているが、どうだ」
「何と……何と情けない、これが魔界に君臨するお方の所業(しょぎょう)とは……!」
パイモンは声を詰まらせ、首を横に振った。

「あっはっはっは!」
魔界王は高笑いしながら立ち上がると、パイモンに指を突きつけた。
「どうせ貴様は、俺がどんな女を選ぼうと、難癖をつけて来るのだろうが!
もういい、当分、貴様の顔は見たくもない、謹慎しておれ、追って沙汰する!」
「へ、陛下……!」
デーモン王は、わなわなと体を震わせた。
「黙れ! 俺が貴様を成敗(せいばい)せんうちに、失せろ!
──ヴェラウェハ!」
タナトスは、家臣を強制的に領地まで飛ばした。

次にやって来たのは、父親であるベルゼブル前王だった。
「タナトス、そなたは……」
現在の魔界王は眼を怒らせ、それ以上を言わせなかった。
「うるさい、今の王は俺だ、親父だとて、くちばしを挟むことは許さん!」
「何じゃと!」
「たとえ前王だろうと、俺のやり方に文句は言わせんと言っているのだ!
まだ何かほざくなら、魔封じの塔にぶち込んでやる、出て行け!」
タナトスは荒々しく叫び、父親を追い返した。

その後も、入れ代わり立ち代わり、他のデーモン王や大臣が押しかけて来ては、タナトスに苦情を申し立てた。
初めこそ楽しんでいた彼も、徐々に苛立ちを募らせ、ついに執務室を飛び出してしまった。

(──ち、忌々しい!)
自分で()いた種とはいえ、客間の一つに身を隠す羽目に陥り、憮然(ぶぜん)としていた魔界王を見つけ出したのは、叔母イシュタルだった。
「ここにいたのね、タナトス。捜したのよ」

「もう、うんざりだ! 誰が何と言おうと、俺は好きなようにやるからな!」
顔をしかめ、すぐさま移動しようとしたタナトスを、イシュタルは押し留めた。
「待って、タナトス。心配いらないわ、わたしはお前を支持するから」
想像したのと真逆な返事に、彼は動きを止めた。
「……何だと?」

「たしかにお前は、一時期執務をおろそかにして、遊び歩いていたわ。
それは責められるべきでしょう、でも、その後、自発的にやめたじゃない。
なのに、パイモンと来たら、戻って仕事をしているところへ押しかけて、がみがみ言って。
しかも、お前が嫌がると分かっているお妃の話題を、わざわざ持ち出して。
デーモン王達は、お前の出来が悪いと頭から決めつけて、良さをちっとも認めようとしないんですもの、お前が腹を立てるのも当然だわ。
タナトス、お前、“黯黒の眸”の件でも色々言われて、それでも我慢していたのよね、短気だのなんだのって、散々批判されていたから」

意外過ぎる答えに、タナトスは面食らい、無言で叔母を見つめた。
イシュタルは、にっこりした。
「ふふ、驚いた?
でも、わたし、今までも、幾度か忠告はしてきたのよ、デーモン王達には。
そんな調子では、いつかタナトスを追い詰めてしまうわよ、って」
「……そうだったのか」

「さっきも、パイモンに言ってやったわ。
タナトスは、今やれっきとした魔界の王、そうでなくとも、もういい大人なのだし、子供扱いや、過ぎた口出しはいらぬお節介よ、ってね」
「叔母上……」
まったくの予想外だったが、叔母が自分をようやく理解してくれたと思い、彼は頬を緩めた。

「それに、連れて来られた女達は、お前にとても感謝しているわよ。
王都や近郊から身売りした者だけでなく、奥地からさらわれて来た者もいたし」
「女達に会ったのか、叔母上」
「ええ、昨日ね。でも、あそこまで揃うと、何と言うか、見事だわね……」
「ああ、初めて見たとき、俺もそう思った。
勢いで全員買い取って来たのだが、考えてみれば、あんな低級な娼館に売られて喜ぶ女はおらんし、その点では、いいことをしたと言えるかも知れんな」

「そうね。後で後宮に行ってご覧なさい、大歓迎されるわよ。
それとね、意外でしょうけど、汎魔殿では好評を博しているのよ、今回のことは」
「……何だと、なぜだ?」
自分の行動が顰蹙(ひんしゅく)を買っていると思い込んでいたタナトスは、理由が分からず首をかしげた。

「暇を持て余している宮廷(すずめ)達には、いい話題提供になったということよ。
しかも、拉致された女達を助け出して来たなんて、美談じゃない。
実のところお前は、即位から今まで、皆が想像した以上に真面目に勤めを果たしているし、時折起こす奇抜な行動も、汎魔殿の住人には、退屈しのぎになる程度だわ。
だから、今回のお前の行動も、割と好意的に見られているのよね、頭の固い大臣達を除いては。
それを知らせに来たの、お前が腐っているだろうと思ってね」
イシュタルは微笑んだ。

「ふん、おだてても何も出んぞ」
そっけなく言いながらも、タナトスも釣られてにやりとした。
そんな彼の顔を、イシュタルは、爪先立って覗き込んだ。
「あら、お前、空腹なのじゃなくて?」
「ん? そういえば、最近、精気もあまり食っておらんな……」

「苛々していたのは、そのせいもあるのね。
ねぇ、久しぶりに、二人きりでゆっくりしないこと?
ちょうどベッドもあるし、誰もこんなところに、わたし達がいるなんて思わないでしょう……?」
イシュタルは、誘うような仕草をして見せた。
するりとドレスが脱げて足元に落ち、見事な裸身が(あらわ)になる。

「……親父はいいのか?」
タナトスにしては珍しく、声には少しためらいがあった。
イシュタルは(おい)の首に手を回し、その耳元でささやく。
「お前が気にするなんてね。
大丈夫……というより、あの方は、もうお年寄りだから……実はわたしも、空腹なのよ、とても……」
「そういうことか。では、遠慮なく頂くとしよう」
タナトスは叔母を抱きしめ、口づけた。

汗に濡れ、乱れた銀髪を整えながら、イシュタルはタナトスに声をかけた。
「お前ときたら、いつもわたしを抱きながら、サマエルを呼ぶのね。
たまには、わたしの名を呼んで欲しいものだわ」
隣に横たわる、弟によく似た顔をした叔母の、均整の取れた姿態(したい)
それを堪能していたタナトスはベッドの上に起き上がり、肩をすくめて言い返した。
「そういう叔母上こそ、親父を呼んでいたが」

「えっ、……」
虚を突かれ、イシュタルは絶句する。
「くく、冗談だ、俺と違って叔母上は、ちゃんと区別をつけているさ。
というより、俺と、しょぼくれた親父とでは、間違えようがないというべきか?」
彼は笑い、若い肉体を見せつけるように、胸を張った。

イシュタルは、すねたように頬を膨らませた。
「……もう。お前は、サマエルとわたしを比べているんでしょう。
どうせわたしは、あの子の代用品よ」
「ふん、俺をサマエルと比べているのは、叔母上の方だろう!
本気のあいつに抱かれたいと思ってな!」
タナトスの声に冷ややかさが戻る。

イシュタルはそれを否定せず、言った。
「タナトス。そろそろ仕事にお戻りなさい。
他のデーモン王や家臣達にも、話は通しておいたから、もうお前を悩ます者はいないはずよ」
「ふん、仕方あるまいな」
顔をしかめ、タナトスは魔法で服を着る。
一旦は晴れた心が、また曇ってくるのを彼は感じた。
今の魔界には、自分のことだけを見、心から思ってくれる者はいないのだ、と……。

執務室に戻り、書類を片付けていたとき、彼はふと思い出した。
弟と共に人界へと赴くことになった、“焔の眸”の化身との会話を。
魔界王家の守護精霊としての任を解かれ、サマエルと一緒にいられるようになったというのに、なぜか化身は、さほどうれしそうではなかった。

そして別れの日、ダイアデムは上目遣いに訊いて来たのだ。
「……なあ、タナトス。オレ、ホントに行っていいのか?」
タナトスは不審に思い、訊き返した。
「何だ、貴様、今さら。自由になりたいと言っていたくせに。
サマエルと共に暮らすのは嫌か?」

「そうじゃねーよ、ただ……お前が一人になっちまうだろ」
意外な返答に、彼はあっけにとられた。
「何を言っている、俺は……」
「だって、お前も結構、孤立無援じゃねーか。周りは頭の固いジジイばっかでさ。
その上で、魔界の至宝っていう後ろ盾がなくなっちまうんだぜ。
お前、マジに、やっていけんのか?」

「うるさい、それくらいで俺が参るとでも思っているのか、たわけ者!
貴様、以前のように俺に弄ばれ、反吐(へど)を吐かされるような暮らしに戻りたいと言う気か!」
そう叫んでしまってから、すぐに魔界の王は後悔した。
宝石の化身の体に激しい戦慄(せんりつ)が走り、肩を抱いてうずくまってしまったのだ。

「済まん、ダイアデム……だが、サマエルなら、俺より遥かに優しいはずだ。
あいつを頼む、俺なら一人でも大丈夫だ」
タナトスは語調を和らげたが、少年は、うずくまったまま首を横に振った。
「オレ、ホントに自由になってもいいのかなぁ……」
「何?」

「縛られた生活に慣れてたからかな、何か急に……怖くなって……」
「ふん、貴様は今まで、汎魔殿の中では勝手気ままに振舞っていたではないか、行動範囲が多少広くなるだけのことだろう、何を怖がることがある」
「そりゃそうだけど、さ……」
ダイアデムは、まだ自信がなさそうに眼を伏せていた。

短気なタナトスは、再び声を荒げた。
「ならば、俺が命じてやる!
“焔の眸”よ、我、魔界王サタナエルが命じる、貴様は今後、弟サマエルと常に行動を共にし、ヤツの正気を保つことのみに心を砕け!
これが魔界王として出す、俺の最後の命令だ、分かったか!」

「うん」
ようやくダイアデムはうなずいた。
それから、胸に手を当てて深々と頭を下げ、シンハの声で言った。
『黔龍王、サタナエル陛下。
我、“焔の眸”は、陛下の命に従い、弟君、ルキフェル殿下の元へ参る。
自由を(たまわ)り、深く感謝申し上げる』

「長の勤め、大儀であった、“焔の眸”よ。
さあ、さっさと行ってしまえ、サマエルの頭が、またおかしくならんうちにな!」
「うん、ありがと、タナトス!」
少年は元気よく答え、手を振って駆けて行った。

あのときタナトスは、去っていくダイアデムに、ジルを重ね合わせてしまっていた。
(……結局は、誰も、俺を選んではくれんのだ!)
彼はうつむき、両の拳を力一杯、机にたたきつけた。