~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

2.花嫁候補(2)

着いたところは、元侯爵の行きつけだけあって、瀟洒(しょうしゃ)な宿屋だった。
老いた女主人は、マルショシアスが罪を許されて元の姿に戻ったことを、心から喜んでくれた。
それでも、話が娼館に及ぶと、若かりし頃の上品な美しさを残している顔をしかめた。
「まああ、最低の娼館ですって……?」
「そうだ。ゆえあって、どうしても行かねばならなくてな」
マルショシアスも、負けず劣らず難しい顔つきで答えた。

「……そうですか、分かりました。
わたくしの知っている限りでは、レテ街にある、『アケロン』というお店でございましょうね。
間違いなく最下層の娼館と存じますわ。お待ち下さいませ、ただ今、地図を……」
彼女は、ぱちんと指を鳴らして地図を呼び出し、そこに店の名と道順を記して、差し出した。

それを手にとり、タナトスは首をかしげた。
「レテ街だと? 聞いたことがないぞ。レテ河のそばにでもあるのか?」
侯爵も、物珍しげに地図を覗き込んだ。
「いえ、この地図では、もっと王都寄りですね」
魔界には、いくつかの川が流れているが、レテは『忘却』という意味を持つ。
その川を超えると、辺境地帯ということになっていた。

「ええ、ここからでも馬車で一時間ほどの距離でございますわ。
レテ街は、王都に近い割に瘴気(しょうき)が濃く、別名、『忘却の街』とも言われ、それこそ、低俗な店ばかり集まっている花街のようでございますね。
何もかも忘れたい男女が行きつく街、などと呼ばれているようでございますわ……」
女主人は、ゆっくりと首を横に振った。

「ふん、それで忘却の街か。まあいい、女、手間を取らせたな。
マルショシアス、行くぞ」
「は」
「お二人共、お気をつけて」
タナトスはマントを(ひるがえ)し、マルショシアスは女主人に目礼して、宿を後にする。

正体を隠すため、魔界の王族達は全身をすっぽりと黒いローブで覆い隠し、再び魔法で移動して、怪しげな建物が立ち並ぶ通りへと歩を進めていた。
すでに辺りは暗くなり、店々には灯りが点り始め、彼ら同様にローブを着た人々が行き交っていて、想像以上ににぎわっていた。

「むう、少々腹が減って来たぞ。ここらの料理屋で腹ごしらえするか」
タナトスが言うと、マルショシアスは首を横に振った。
「それはちょっと……おそらくこの通りにあるのは、あいまい宿だと思われますので」
「あいまい宿? 何だそれは」
「……つまり、表向きは茶屋や料理屋を装い、中で女に客を取らせる店のことでございますよ。
それに、このような場所で出される食事が、陛下のお口に合うとは、とても思えませんが」

タナトスは、深々とかぶったフードの奥で顔をしかめた。
「ち、『陛下』は使うな、こんなところで。いや、汎魔殿に戻っても、俺のことは名前で呼べ」
御意(ぎょい)。……あ、どうやらこの店のようです」 
マルショシアスは、手にした地図と看板を照合して言った。
そこには、かすれた汚い字で『アケロン』と書き殴ってあり、この界隈(かいわい)でも最もみすぼらしい店構えをしている。
灯りさえもが、他の店より暗いほどだった。

「……タナトス様、本当に、このようなところでよろしいので?」
侯爵は、おずおずと尋ねた。
ついさっきまで犬だったとはいえ、こんな薄汚い娼館に入っていくのは、気が進まなかった。
「ふん、嫌なら、貴様は外で待っておれ」
そう言い捨てたタナトスは、まったく()じる風もなく、ずんずんと中へ進んでゆく。
「あ、お待ちを! 左様なわけには参りません、露払いを仰せつかったのですから!」
慌ててマルショシアスは、魔界王の後に続いた。

「いらっしゃい。お二人様ね」
薄暗い娼館の案内には、厚化粧の太った中年女が一人、けだるそうに木の机にひじをつき、座っていた。
「いや、お客はこちらのお方だ。お前がカロンか?」
マルショシアスが問うと、女は立ち上がりもせず、上目遣いに彼を見た。
「そうだよ、あたしが渡し守さ、死人さん。さて、どんな娘がお好み?」

「一番醜い女を」
間髪(かんはつ)()れず、タナトスが答える。
侯爵はぎょっとし、物憂げな女の表情も、少しだけ動いた。
「……ふうん、あんたも物好きってわけだ。
ま、金さえ払ってもらえりゃ、こちとら客の趣味は問わないよ。
オルプネ、ゴルギュラ! お客だよ、ここにおいで!」

その声に応え、古びた階段をきしませて二人の女が下りて来ると、おかみは訊いた。
「さ、どっちがいいかね」
しかし、魔界の王族達は、度肝(どぎも)を抜かれ、答えることが出来ずにいた。
醜いなどという、月並みな理由からではない。
下着のような衣服しか身につけていないその女達は、人型をしていなかったのだ。
二人のうち、片方は青紫に輝くウロコに覆われた二足歩行の蜥蜴(とかげ)、そしてもう一方は、エメラルドグリーンが美しい、歩く(かえるだった。

「ほほ、びっくりしてるねぇ。話を聞いて来たんじゃなかったのかい?
それとも、想像以上だったのかね。
ここにいるのは、皆、魔族が普通持ってる“第一形態”を持たない娘ばかりなんだよ」
自慢げに、娼館のおかみは言った。
「何!? 第一形態を持たんだと……そんな馬鹿な!」
タナトスは思わず叫ぶ。

おかみは肩をすくめた。
「何にも知らないんだねぇ、お客さん。まあ、お大尽(だいじん)様方じゃ、知らなくて当然か。
でもね、普通の家にもごくたーまに、そういう子供は生まれるだろ。
それに魔界の奥地じゃ、濃過ぎる瘴気(しょうき)のせいで、生まれたときから第二形態じゃないと生き延びられないんだよ。
こういう娘達は短命だし、姿のせいでまともな職もない……結局、体を売るしかないのさ」

初めて聞く話に、タナトスとマルショシアスは言葉を失い、顔を見合わせた。
「知らないで来たんなら、ものは試しだ、一度買ってご覧、病み付きになるよ。
それとも、爬虫類(はちゅうるい)系はお好きじゃないのかね。
お望みならもっと毛色の変わったのも、色々取り揃えているんだがね……くくく」
おかみはいやらしく笑う。

「い、いや、この女達でいい。これで足りるか?」
我に返ったタナトスは、懐から革の袋を取り出し、中を開けて見せる。
色とりどりの宝石が、みすぼらしい机の上にざらざらとこぼれ出し、薄暗い灯りの下でさえも、その輝きは見間違えようもなかった。

「ひぇっ、ほ、宝石……本物かい、こんなに!?」
女は椅子から転げ落ちそうになり、泡を食ったマルショシアスは、主君を止めにかかった。
「そ、そんなに必要ございませんよ!
これでは一晩どころか、ここの娼婦全員を身請け出来てしまいます!」
「ふん、ではこの館にいる女、全部買い上げるとするか」
こともなげに、タナトスは答える。

おかみは眼を()いた。
「全員だって!? じょ、冗談じゃない、商売上がったりだよっ!」
「何だ、足りんのか?
では、これでどうだ」
タナトスは無造作に、宝石の袋をさらに一つ追加した。

“陛下、お(たわむ)れは……”
焦ったマルショシアスが念話で話し掛けてくるのを無視し、魔界王はさらに尋ねた。
「ところで、ここには何人いるのだ?」
「さ、三十二、ですよ、旦那。
で、でも、これじゃ足りませんねぇ、もう一袋、いえ二袋は欲しいところで……」
おかみはすでに、宝石の袋を二つ共、両腕で抱え込んでいた。
眼の色が変わっている。

「そうか」
タナトスは懐に手を入れると見せかけ、いきなりおかみの胸倉をつかんだ。
その衝撃で袋が床に落ち、輝く石が音を立てて床に散らばる。
「この業突(ごう つ)(ばばあ)め、身に過ぎた欲は破滅を招くぞ!
足りんというのなら、こいつをくれてやるが、どうだ!」
魔界王は腰に下げていた黄金の剣を抜き、光る刃を女の顔に突きつけた。

「ひぃい、だ、旦那、ご勘弁を!
お、お代は十分です、これで十分でございますぅ!」
おかみはガタガタ震え、手を合わせた。
「分かればいい、さあ、すぐに女どもを集めろ、一人残らずだ!」
タナトスは、乱暴に中年女を解放する。

「へ、へい、旦那!
何ぼーっとしてんだい、オルプネ、ゴルギュラ!
全員ここに連れて来な、早くするんだよ!」
おかみは、あっけに取られて事の成り行きを眺めていた女達に命じると、自分は、大急ぎで床の宝石を拾い集め始めた。
「はーい」
女達は二手に分かれ、(あわただ)しく同僚達を呼びに行く。

その隙に、念話でマルショシアスは王に尋ねた。
“タ、タナトス様、女達を集めて、どうなさるおつもりなので……”
“汎魔殿に連れて行く”
タナトスの答えは簡単明瞭だった。
“は、汎魔殿に!? こんな低級な色里(いろざと)の女どもを、ですか!?”

タナトスは、にやりと笑った。
“ああ、そうだ。パイモンが、何でもいいから、早く妃候補を決めろとうるさいのでな。
これだけ候補がいれば、ヤツも満足だろうさ!”
“えええっ!?”
ようやく、とんでもないことに荷担させられたことに気づいた侯爵は、腰を抜かしそうになった。
だが、短気な王に逆らえば、すぐまた犬に戻されてしまうだろう。
そう思った彼は、意見は差し控えることにした。

そして娼婦達が集まり始めると、マルショシアスだけでなく、タナトスも眼を見張ることとなった。
次から次へと現れたのは、おかみの言った通り、様々な形状をした女達……蜥蜴や蛙だけでなく、綺麗な毛並みの三毛猫や、黒光りする犬、さらに驚いたことには、バッタやイナゴなど、昆虫に近い姿の者までいたのだ。
さすがに虫女達は、体の方は人型に近かったが。

「……すごい。これだけ集まると壮観ですね」
マルショシアスはつぶやく。
「ふん、第二形態でいるときでも、これほどの人数が、いちどきに集まることは珍しいからな……」
第二形態を持たないタナトスの返事は、どこかうらやましげだった。
「そうだ、貴様、女どもを運ぶ馬車を出しておけ」
「は」
急いで侯爵は、娼館の外へと駆け出してゆく。

「支度が整いました」
マルショシアスが戻って来てそう告げると、タナトスは女達に向かって宣言した。
「お前達は俺が買い取った。外の馬車に乗れ」
女達はどこに連れて行かれるのかと不安な顔で、ぞろぞろと、彼と侯爵の後をついて戸口に向かう。

魔界王は侯爵に念話を送った。
“さて、マルショシアス、貴様はこの後どうする気だ?
どうせ領地に帰っても恥さらしだろう、宦官(かんがん)として、後宮で仕えているがいい”
一瞬ためらった後、マルショシアスは同意した。
“……御意。ですが、妹にだけは、会って安心させてやりたく存じます。
一旦領地に帰ることを、お許し願えませんでしょうか”

“ならば、三日経ったら戻って来い。
貴様の妹には、俺の権限で適当な婿を見繕(み つくろ)ってやる、それで文句はなかろう”
“ありがたき幸せ。まずは汎魔殿までお送り致しましょう、どうぞ、馬車へ”
“俺は貴様の隣でいい、女どもの化粧臭さにはうんざりだからな。
くく、今から楽しみだ、パイモンはどんな顔をすることやら!”

タナトスは、これから汎魔殿で巻き起こるであろう大騒ぎを想像して、うきうきしながら御者(ぎょしゃ)席の侯爵の隣に座る。
「では、参ります。
──ヴェラウェハ!」
マルショシアスは、遠距離移動の呪文を唱え、馬車を汎魔殿の門前へと運んだ。

アケロン河  

「喜びのない河」と訳される。「嘆きの河」「苦悩の河」などとも。
 日本の三途の川と同じ意味を持ち、死者は冥界に行くため渡し守のカロンに小銭を支払う。
(これを踏まえて、マルショシアスと娼館のおかみは話している。つまりおかみの名前もカロンではない)

 アケロンは、ギリシア神話での冥府の河(の神)。
 現在のギリシア北西部、イピロス地方に実在する河の名でもある。
 アフリカメンガタスズメ(蛾)の学名の語源。
 ティターンに河の水を与えたことで地上を追われ、冥府の河となった。
 悲嘆の河を司る神。 ヘリオスとガイアの子。

 三人の妻がいる。
 ゴルギュラ アケロンの息子の、アスカラポスの母。
 オルプネ  黄泉の国のニンフ。こちらがアスカラポスの母とする説も。
 ステュクス 冥界の河(の女神)。憎悪の河を司る。

 ちなみに、ペロポネソス半島のタイナロンの洞窟から冥界へ入る事ができるとされるが、ケルベロスが見張る冥界の入り口までには5つの川がある。
 ステュクス(憎悪)、アケロン(悲嘆)、コキュートス(号泣)、レテ(忘却)、ピュリプレゲトン(火炎)。

大尽(だいじん)  

1 財産を多く持っている人。財産家。大金持ち。
2 遊里で多くの金を使って豪遊する客。

宦官(かんがん)  

東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた、去勢された男子。中国・オスマン帝国・ムガール帝国などに多かった。
王や後宮に近接しているため勢力を得やすく、政治に種々の影響を及ぼした。宦者(かんじゃ)。