~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

2.花嫁候補(1)

その後、タナトスは懸命にニュクスを捜したが、汎魔殿は広く、わずかな手がかりすら、見つけ出すことは出来なかった。
日が経つに連れて彼の苛立ちは増し、政務への興味も急速に失せて、それまではきちんと出席していた会議にも、一切顔を出さなくなった。
さらには、しばしばふらりと汎魔殿を抜け出し、単身、王都バシレイアに出かけるなど、遊び歩くようになってしまった。
家臣達は困り果て、魔界王の下で魔界を四つに分割統治する一人、西のデーモン王パイモンが、タナトスを(いさ)める役を買って出た。

「陛下、失礼致します。パイモンでございます」
「何の用だ、俺は忙しい、後にしろ」
入室して来たデーモン王をろくに見もせず、タナトスは書類に眼を通しては、羽ペンを使い署名をし続ける。

その日、タナトスは最近には珍しく、執務室で仕事をしていた。
このところ、さすがに遊び過ぎたと反省し、(とどこお)っていた執務をせっせとこなしていたのだ。

「陛下、今日こそは話を聞いて頂きますぞ。どうかお手を休めて、お顔を上げて下さいませ」
威圧するような口調で言い、長身のパイモンはデスクに両手をついた。
タナトスは、険しい顔でデーモン王と視線を合わせた。
「……話だと? ふん、どうせ、遊びが過ぎるとかいう小言だろう。
だが、見えんのか、貴様。俺は今、こうして仕事をしているぞ、文句はなかろう」

「たまたま今日は、いらっしゃいましたな」
嫌味っぽくパイモンは答える。
「貴様の言いたいことなど、とっくに見越しておるわ、会議にも出ろと言うのだろうが?
ふん。どうせ俺はただ椅子に座り、首振り人形のように、貴様らが決定したことに同意を与えているだけに過ぎんというのにな。そんなに、飾りの王が必要か?」
冷ややかに、タナトスは決めつけた。

「飾りの王などと……ただ、下の者にも示しがつきませぬゆえ、毎回でなくとも、重要な会議の折には、是非ともご出席願いたく……」
「重要だと? この平和な状態で、俺が決断せねばならんような決定事項など、一体、どこにあるというのだ?
もういい。見ての通り仕事が溜まっている。
貴様らごときにとやかく言われんでも、今後、遊びはほどほどにしてやる、下がれ」
横柄に手を振り、仕事に戻ろうとする魔界王に、パイモンは食い下がった。
「いえ、西デーモン王たるわたくしめに免じて、今少し、お話をお聞き下さいませ」

「ちっ、何だ。さっさと言え」
タナトスは舌打ちしたものの、続きを促した。
パイモンは大きく息を吸い込み、口を開いた。
「それでは、申し上げますが。何ゆえ陛下は、お妃様をお決めになられぬのですか。
たった一人の弟君、サマエル殿下も魔界をお出になられ、お妃は、こともあろうに“焔の眸”閣下……失礼ながら、お子様は望めませぬ。
さらには、陛下、あの札付きの“黯黒の眸”を女の形にお創りなさるなど、お(たわむ)れも度が過ぎておりますぞ!
左様なことに、うつつを抜かしておられるお暇がおありなら、せめて幾人か、お妃候補を……」

「──黙れっ!」
タナトスは両手を机をたたきつけ、立ち上がった。
「陛下、お静まりを。お怒りは、ごもっともでございま……」
「何がごもっともだ、黙れと言っているのが聞こえんのか、貴様!」
「いいえ、黙りませぬ、是非とも……」
「いい加減にしろ、俺も遊びが過ぎたと思い、大人しく聞いていれば言いたい放題!
貴様がデーモン王などでなかったら、今すぐここで、息の根を止めてやるものを!」
魔界王は怒りに激しく身を震わせ、パイモンを睨みつけた。

「殺されても構いませぬ、わたくしは、魔界王家のために……」
「ふん、何が王家のためにだ、貴様らは俺を、種馬としか見ておらんのだ!
早めに子作りをさせ、意のままにならん俺よりも、傀儡(くぐつ)として扱いやすいガキを王位に就けたい、──それが、家臣どもの総意なのだな!
貴様らの言い分はよっく分かった。
つまるところ、何でもいい、女を連れて来て妃にすればいいのだろうが!」
言うが早いか彼は、扉に向かって突進して行った。

タナトスが、魔族の女性との間には子供を作ることが出来ないということは、極秘とされていて、ごく一部の者を除き、伝えられてはいない。
家臣達が知れば、タナトスの立場を揺るがす可能性があったからだ。
そのため、何も知らず良かれと思って忠告に来ているパイモンには、形だけでも妃候補を決めてやれば、デーモン王のみならず家臣達も納得し、穏便に事が済むはずで、それは彼にも分かっていた。
だが、“黯黒の眸”にまで話が及んだことが、苛立ちを(あお)る結果となり、彼はついに爆発してしまったのだった。

「あ!? へ、陛下、お待ちを! 陛下!
誰か、陛下をお止め申し上げろ!」
驚愕し、控えの間にいた小姓達に命を下すパイモンの声を背中に、タナトスは勢いよく執務室のドアを開け、回廊に出た。

「陛下、お待ち下さい、陛下!」
部屋の中からは、パイモンの声が追いかけて来る。
デーモン王の顔も小言も、金輪際(こんりんざい)見聞きしたくないと思ったタナトスは、舌打ちして左右を見回した。
人々が何事かと歩みを止め、小姓や兵士達が集まって来る。
このまま走っても、すぐに捕まりそうだった。
一瞬ためらったのち、彼は、本来汎魔殿の中では禁止されている、移動呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」

たちまちタナトスは、汎魔殿の門の前に来ていた。
(さわ)やかな一陣の風が吹き抜け、彼の髪とマントをはためかせる。
頭上には、広々とした空が広がっていた。
「……あーあ、せいせいしたな。まったく小うるさいパイモンめが」
生き返った気分になり、彼は大きく伸びをした。

「タ、タナトス陛下……!?」
突如現れた彼を見て、うなだれて門のそばにたたずんでいた青い毛並みのケルベロスが、ぎょっとしたように後ずさる。
「貴様、マルショシアスだな。まだ犬のままか」
タナトスは、三つ首の番犬を冷たく見下ろした。

御意(ぎょい)……。
“焔の眸”閣下が取り成して下さいましたが、ベルゼブル陛下のご裁定では、やはり一生、犬として過ごすようにと……」
元侯爵、マルショシアスはうなだれた。
「ふん、生かされているだけでもありがたいと思え。
ところで貴様、妻子はいるのか?」

魔犬は、真ん中の首だけを持ち上げ、力なく横に振った。
「いえ、どちらもおりません。側女(そばめ)達にも子はなく、すべて里に帰しました。
侯爵領にただ一人残っております妹は体が弱く、また、わたくしが犯した罪のため、婿のなり手もないでしょう。
わたくしの生殖能力は止められておりますし、由緒ある侯爵家も、これにて断絶となりそうです。
自業自得ではありますが……」

タナトスは眉間に険しくしわを刻んだ。
「ふん、どいつもこいつも。
俺もたった今、口うるさいパイモンの小言から逃れて来たところだ。
まったく、血筋が絶えるのどうのこうのと、ガタガタ騒ぎ立ておって!」
「そ、それは非常な一大事でございましょう、陛下。
特に王家ともなれば、魔界人の心の()り所でございますよ。
天界に勝つ、そのためには我ら魔族が、王家の下で団結することが、何より大事なのでございますから」

「ち、貴様までうだうだ言うか」
不快な話題から遠ざかろうと、(きびす)を返しかけたタナトスは、ふと、あることを思いついて立ち止まった。
「そうだ、マルショシアス。俺は今、是非とも行きたい場所があるのだ。
貴様、一番下等な娼館を知らんか?」
「……は?」
マルショシアスは、ぽかんと王を見上げる。

「聞こえなかったのか、最も下等な娼館を知らんかと聞いたのだ。
娼館にもランクがあるだろう、その中で一等程度が低く、女も、二目と見られんような醜悪な者しかおらん、そんなところだ」
元侯爵は、六つの紅い眼を丸くした。
「そ、そのような下賎(げせん)な場所に、一体どんなご用が……。
あ、いえ、魔界の王ともあろうお方ならば、どのような高貴な美姫(びき)も思いのままでございましょうに……」

「この際、女なら何でもいい、というより、酷ければ酷いほどいいのだ。
そうだ、貴様、俺の露払いをするなら、今すぐ元に戻してやる。
俺に従え、マルショシアス。どうだ、悪い話ではなかろう」
「で、ですが、前魔界王ベルゼブル様のご裁定を(くつがえ)すようなことをなさいましたら、陛下への風当たりが、一層強くなるのではございませんか?」
心配そうにマルショシアスは問い返した。
彼はベルゼブルと話した折、デーモン王達の、タナトスに対しての評価を聞いたのだ。

「ふん、くそ親父がどうした、今の王は俺だ。
それにどうせ家臣どもは、俺が何をどうしようとすべてが気に入らず、ピーチク騒ぎ立てるに決まっているのだからな。
それより貴様、元の姿に戻りたくないのか!」
タナトスは、脅すように指を突きつける。

「そ、それは、無論、戻して頂けるのでしたら、いかなることであろうとも、喜んでさせて頂きますが……」
「よし、決まりだな。
魔界の侯爵、マルショシアスよ、三つ首の魔犬、ケルベロスの風姿より、おのれの本源たる肉体へと復せ!
──フェアデンデルング!」
せっかちなタナトスは、速攻で呪文を唱えた。

番犬の姿が輝きに包まれ、直後、マルショシアスは、あれほど望んだ魔界の貴族の姿へと、ついに戻っていた。
「おおお!」
元侯爵は、感慨深げに自分の手や足、体を見回し、動かし、触れてもみた。
背中に流した髪は魔犬だったときと同じ、鮮やかな青色で、眼は紅く、肌は日に焼けて体は引き締まり、背はタナトスより少し低い。
年の頃は、人間で言えば三十前半といったところだった。

貴族にふさわしい黒いシルクの服に身を包んだ彼は、地面に片膝をつき、喜びを噛み締めるように、うやうやしく頭を下げた。
「タナトス陛下、お礼の言葉もございません!
このマルショシアス、今後は命に替えても、陛下に忠誠を尽くすことを、お誓い致します!」

「そんなことより、さっきの続きだ、知っているのか、いないのか」
マルショシアスの感激など意に介さず、短気なタナトスは答えを急かす。
「ええ……お尋ねは、娼館……でございましたな、最下等の。
むむ……」
マルショシアスは、首をひねり、ちょっとの間、考えた。
「左様ですな……わたくしの定宿(じょうやど)の女主人でしたら、顔が広く、存じておるやも知れませんが」

「よし、では、その宿に案内しろ」
「しかし、本当によろしいので?」
「しつこいぞ、ケダモノに戻りたいのか、貴様!」
タナトスは、彼を睨みつけた。
「わ、分かりました、それではご案内致します、お手を拝借(はいしゃく)
──ムーヴ!」
マルショシアスは、魔界王の手を取って呪文を唱え、二人は汎魔殿の門前から姿を消した。

露払(つゆはら)い

貴人の先に立って道を開くこと。また、その役を務める人。転じて、行列などの先導をすること。また、その人。