~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

1.石の心(6)

「どこだ、ニュクス! さっきはすまなかった、謝る!」
“要石の間”に着くなり、タナトスはそう呼びかけた。
だが、石造りの部屋は冷たく静まり返り、どこからも応答はない。
「ニュクス? どこだ?」
あちらこちら視線を移しながら、魔界王は、黒衣の美女の姿を探し求める。
その眼に、かつて“黯黒の眸”を封じ込めていた結界の青白い光が、飛び込んで来た。

「……? あの結界は、すでに作動していないはずだが……まさか!」
タナトスは、魔法陣に駆け寄る。
ぼんやりとした光の中、ほこりにまみれた床に無造作に転がっていたのは、至宝の片割れ、“黯黒(あんこく)(ひとみ)”だった。

「何ゆえ、こんなところに落ちているのだ?
浮かんで回転しているのが常だというのに。
──()っ!」
眩しい光がスパークし、いぶかしげに宝石を拾おうとしたタナトスの手が、結界によって弾かれた。
「どういうことだ? この結界は、貴様が張ったものか、“黯黒の眸”?」
そう尋ねても、床に転がった宝石は黙したまま、王の姿さえその結晶面に映し出そうとはしなかった。

「一体どうしたのだ、“黯黒の眸”!
答えろ! 俺は貴様の主、魔界王タナトスだ!
何ゆえ返事をしない!?」
脅したりすかしたり、いくら呼びかけても、闇の宝石からは、どんな答えも返って来なかった。

かんかんに腹を立てて戻って来たタナトスは、そのうっぷんを弟と至宝の片割れにぶちまけた。
「可哀想に。お前に怒鳴られたことが、よっぽどショックだったのだね」
同情を禁じ得ないといった感じの声でサマエルが言うと、タナトスは弟を睨みつけた。
「前々から俺は、四六時中怒鳴りまくっていたぞ、どうして今さら!」

ダイアデムは、なっていないと言いたげに指を振った。
「ちっちっち、分かってねーな、二人共。そうじゃねーよ。
おい、タナトス。お前さっき、あいつになんて言ったんだ?」
「さっき? いつのことだ?」
けげんそうに訊き返して来るタナトスに、ダイアデムは苛つき、足を踏み鳴らした。
「──ボケ!
オレとニュクスが入って来たとき、何てったかって聞いてんだよ!」

「貴様! その言い草は何だ!」
乱暴な言葉遣いに腹を立てたタナトスは、またも少年に食ってかかる。
「……タナトス」
だが、サマエルが静かに声をかけると、我に返って弟を見、それから音を立てて椅子に座り込んだ。
「──ちっ!
ああ、あのときは、たしか、『暇なら“要石の間”で昼寝でもしていろ』、とか言ったように思うが。
それがどうかしたのか?」

「やれやれ、まだ分かんねーのか?
今はまだ昼間だろ、だから寝てるんだ、誰にも起こされねーようにって、結界まで張ってさ。
あいつは、ちゃんと、お前に言われた通りにやってんじゃねーか。なのに、何で怒るんだ?」
ダイアデムの言葉に、タナトスはあんぐりと口を開けた。
「お、俺の、命令を、守って……?
しかし……」

「あのな、お前がニュクスの体を創ってやって、たった一年半しか経ってねーんだろ?
大人のナリはしちゃいるが、ニュクスはまだ赤ん坊なんだよ。
元々精霊だし、ナマモノにとっちゃ当たり前のことも、何一つ知らねー。
シンハだってベリアルにくっついて、何年もかけて少しずつ、色んなこと教わったもんなんだぜ……“オレ”は、まだいなかったからな」
ダイアデムは、自分を指差し、続けた。

「けど、ニュクスは、“黯黒の眸”の化身ってだけで皆に敬遠されて、話相手もいねーし、心細くても、頼みの綱のお前は責任放棄と来てる。
結局、何で怒られるのかも分かんねーまま、あいつはただ、命令を忠実に実行するしかねーんだ」

「ないないづくし、だね」
サマエルが穏やかに口をはさむと、ダイアデムはうなずいた。
「そーゆーこと。ベリアルは優しかったぜ、サマエル、お前に似て。
あ、お前がベリアルに似たのか」
「そうだね、きっと」
第二王子は微笑む。

自分のうかつさにようやく気づいたタナトスは、額に手を当て、重い息を吐いた。
「……なるほど、そうか、そういうことか……。
分かった、あいつにはできるだけ優しくしよう。これからも色々と教えてやる」
ダイアデムは、鼻にしわを寄せた。
「へん、気紛れに化身なんか創っちまった、お前が悪いんだからな」

「く、しつこいぞ、ダイアデム!
分かっていると言ってるだろうが!」
噛みつくように答える兄に、サマエルはにっこり笑いかけた。
「私は経験済みだが、子育てと言うのはなかなか大変だよ、タナトス。
ましてや彼女は、特別なのだからねぇ。
お前もそろそろ観念して、お妃を本格的に探してみてはどうだ?
いい乳母を見つければ、楽に子育てができると思うが」
「くそっ、黙れ、貴様の下知など受けん!」
タナトスは苛つき、またも大声を上げる。

ダイアデムがニヤニヤ笑いを浮かべながら、とどめを刺した。
「そーだよ、余計なお世話だよなぁ、タナトス。
せっかくこれから、ニュクスを理想の女にするために、あ~んなことや、こ~んなことを、手取り足取り、教えようとしてるってのに」
「うるさいぞっ、貴様ら、いい加減にしろっ!
用がないなら、とっとと人界に還れっ!」
魔界の王は、扉に向けて荒々しく手を振った。

「ひえ~、こわ~い!」
軽く両の拳を握って顔の前で合わせ、少しも怖くなさそうに紅毛の少年は言った。
サマエルは、こらえ切れずに声を押し殺して笑い始めた。
「くく……我々がいると、ニュクスと二人切りになれないものねぇ?
さ、お邪魔虫はとっとと退散するとしようか、ダイアデム」
「そっだね、ご馳走様~ってか?」
「早く消えろ!」

「ち、他人事だと思いおって!」
弟夫婦が去ると、タナトスは忌々(いまいま)しげに舌打ちした。
それでも、考えてみれば、自分とは多少違うものの、彼らも様々な試練を乗り越えて結ばれたのだった。
魔界王は、しばし複雑な表情で、弟と、様々な意味で特殊なその妻が出て行った豪華なドアを見つめていた。

日が沈み、辺りに漆黒の闇が立ち込める。
魔界の夜は、心の奥に潜む深い淵めいて、底が見えない。
いったんは闇に沈んだ汎魔殿のすべての回廊の燭台に灯りがともされるまで待ち、タナトスは、再び“要石の間”を訪れた。

「……おい、もう日も落ちたぞ、目覚めろ、“黯黒の眸”……」
淡い輝きに覆われた魔法陣に、恐る恐る声をかける。
だが、こんな地の底深くでは日没も分からないだろう。
一瞬、彼は、二度と“黯黒の眸”が目覚めないのではないかという危惧に捕らわれた。

“我を呼んだか、魔界の君主サタナエルよ……”
しかし、それは杞憂(きゆう)に終わり、静かな“黯黒の眸”の念話が、彼の心に流れ込んで来た。
「さっきはすまなかったな、“黯黒の眸”。
知っての通り俺は気が短い、つい説明するのがおっくうになり、怒鳴ってしまう。
だが、これからは遠慮せずに聞いてくれ、ちゃんと教えてやるから」

“それには及ばぬ。
おぬしは魔界の君主たる身、我ごとき下僕の面倒など見ておる暇はあるまい、もはや邪魔立ては致さぬ。
それにまた、この身が結界に封じられてさえおれば、家臣どもがいたずらに騒ぎ、おぬしを悩ますこともない……。
束の間であったが、初めて『楽しい』という感情を理解できたひとときであった……。
もっと前におぬしに会っていたならば、かつてのごとく、いらぬ殺生をする必要もなかったものを。
それだけが、悔いの残る事柄ではあるがな……”

「貴様、人間の姿が気に入ったと、その姿のままでいたいと、そしてもっと外界を見たいと言っていたではないか、もう諦めるのか!」
“肉体を与えられて一年半余……素晴らしき機会を与えられ、おぬしには深く感謝しておる。
されど、もはや十分堪能させてもらった。後は、再び眠りにつくのみ……”
「いや、許さん、貴様は魔界の至宝なのだ、魔界王たる俺に仕えねばならんのだ!」
タナトスは、だだっ子のように言い募った。

“たとえ、おぬしが我を(ゆる)そうとも、家臣らは、おいそれとは赦すまいぞ……”
「うるさい、俺は黔龍王タナトス、あやつらを束ねる魔界の王なのだ、文句は言わせん!
──(しろがね)の箱にて眠りし貴石、闇の象徴たる宝珠、魔界の至宝、“黯黒の眸”よ。
我、魔界王サタナエルが汝に命ずる、長き眠りより目覚め、ニュクスとなりて我に仕えよ!
──プレイサ・サージュ!」

タナトスが呪文を唱えると、魔法陣が眩しく輝いた。
一瞬後、光は消えて、黒衣の美女の姿があった。
保護欲をかき立てられるような、ほっそりとしたシルエット。
「出て来い、ニュクス」
「なれど、タナトス……」
ニュクスの漆黒の瞳が、ゆらゆらとたゆたう。

「出て来て、俺のそばにいてくれ。
それとも、お前は色々と理由をつけてはいるが……本当は、俺のことが嫌いなのか?」
常日頃、周りの者達に対しては、わざと、冷酷で我がままな振りをするのを楽しんでいる魔界王だったが、今、彼は、緋色の瞳に浮かんだ深い哀しみの色を悟られまいと眼を伏せていた。

「いいや」
か細い返事と共に、魔法陣の光が消えた。
タナトスが素早く手を差し出すと、ニュクスはおずおずとそれを取り、彼の目の前に立った。
「俺は何があってもお前を守る。約束する。
怒鳴るのが嫌だと言うのなら、直すように努力……いや、必ず直す!」
ニュクスはうなずいて手を引っ込めようとしたが、タナトスは放さなかった。

「放せ……」
「嫌だ。また魔法陣の中に戻る気だろう」
「……戻りはせぬ」
「本当だな」
タナトスが念を押すと、彼女はこくんと首を振った。
しかし、解放された手を胸の前で固く握り締め、後ろに下がりたいような素振りを見せる。

「怯えるな、逃げないでくれ、ニュクス。お前には決して、手荒な真似はせんから」
「……まことか?」
「ああ。女神アナテにかけて誓う」
タナトスは胸に手を当てて宣誓したが、ニュクスの瞳には、まだ怯えの色が深かった。

「そんなに俺が信用できんか、ニュクス、俺は」
「タナトス……妾は、妾は……どうすればよいか、分からぬのだ……」
ニュクスの体は、小刻みに震え出した。
そして、いきなりくるりと背を向け、走り出す。

虚を突かれ、タナトスは行動を起こすのが一瞬遅れた。
「ま、待て、行くな!」
「──ムーヴ!」
しかし、走りながら彼女は移動呪文を唱え、“要石の間”から消え失せた。

「なぜ逃げるのだ、ニュクス、戻れ!
戻って来い、戻って来てくれ───っ!!」
タナトスの叫びが、虚しく石造りの部屋にこだまする。
それを見守るかのようにそびえ立つ巨大な要石は、ひたすら沈黙を守っていた。