1.石の心(5)
タナトスの姿が消えた途端、ダイアデムは顔を上げ、ぺろりと舌を出した。
「やーっと行ったな。へっ、手間がかかるヤツだぜ。
ホントはニュクスのこと、気になってしょーがねーくせによ」
「まあ、タナトスの心境も分からないでもないけれどね……」
サマエルがつぶやく。
ダイアデムは、はっと身を硬くした。
その瞳に、こっそり差した水ではなく、本物の涙が浮かび始める。
「お前があいつの肩持つなんて、やっぱ、オレ達が石だから……?」
サマエルは、否定の仕草をした。
「いや、そうではなく、彼らの関係は、私達同様、複雑だということさ。
魔界の君主と、重罪を犯した家臣という立場もあるしね。
タナトスが独断で罪を許しても、異議を唱える者はかなりいるはずだ。
それもあって、色々悩んでいるのだよ」
「そっか、ちゃんと考えてくれてたんだな」
ダイアデムは、胸をなで下ろした。
「もちろんさ。あいつが見かけほど不人情でないことは、お前も知っているだろう?
ニュクスも、もう少し付き合いが長くなれば、分かって来ると思うけれどね。
はっきりした女性が好みかと思っていたが、ずいぶん控え目な女性を創ったものだな……」
最後の方はつぶやきに近かったが、耳のいい“焔の眸”の化身には、明瞭に聞き取れた。
「お前も、そういう女が好みなのか?
ホントは“黯黒の眸”の相手はお前……“カオスの貴公子”のはずだったんだし、それとも、オレ達にもう飽きたのか?」
サマエルは、けげんそうな顔をした。
「そんなこと言ってやしないだろう?
ふと、タナトスの好みが変わったのかなと思っただけだよ。
だが、あいつは、お前に言われると素直になるように思えるな。
昔、何かあったのかと勘繰ってしまうよ」
「えっ」
ダイアデムはぎくりとし、サマエルは少し淋しそうな表情になる。
「そう。やはり。だが、気にしなくていいのだよ。
お前は代々、魔界王の
「汚らわしいって、思うだろ……」
化身はうつむいた。
「いいや」
静かに答える第二王子の顔を、少年は覗き込んだ。
「嘘だ! 正直に言えよ、平気なわけないだろ!
お前が嫌いな、いーや、憎んでるって言ってもいい連中と、オレは寝たんだぜ!?」
「それは……少しは引っ掛かるけれど、済んだことだ。
仕方がなかったことに、いつまでも執着するのはやめよう。
それに私だって、タナトスには散々
サマエルは淋しげな笑みを浮かべる。
「……そっか」
ダイアデムは、大きく息をついた。
「若い頃は、私を愛してくれるなら、誰でもいいと思っていた時期もあった。
しかし、今は違う、お前だけだ、“焔の眸”。
お前ほど
ダイアデムは眼を伏せた。
「オレ、ベルゼブルが初めてだった。シンハは、好みじゃなかったみたいでさ。
けど、信じてくれよ、寝たのは一回ずつだけなんだ……」
「そういえばベルゼブル陛下は、美少年のハーレムを作っておいでだったね。
母上が亡くなってから……だそうだけれど」
「男相手なんか、超絶ヤだった。けど、魔界王の命令は絶対……。
あの夜も、必死に我慢してた。
でも、ゼーンの記憶……昔の恐怖が甦って来て、とうとう、思いっ切りゲロぶちまけちまってさ。
もう終わりだ、散々殴られたあげく壊されるんだって思ったら、震えが来て涙が止まんなくなって……。
でも、ベルゼブルは、怒るどころか謝って来てさ。
もう無理強いしないって……でも、信用できないって言ったら、自由行動を許すって書いた許可証くれたんだ。
どうしてかな。あんとき吐いた石が気に入ったのかも?
苦しくて、マジ死にそうだったお陰で、かなり質のいい石を創れたもんな」
“焔の眸”の化身であるダイアデムの体液は、すべて宝石となる。
苦痛や悲哀、喜びなど、伴う感情が激しければ激しいほど、生み出される貴石は美しいものになるのだった。
「……吐いた? そんなに酷くされたのか」
サマエルは痛ましそうな表情をしたが、ダイアデムの首は横に振られた。
「いや、ベルゼブルは優しかったぜ。けど、やっぱ、男相手はな」
「すまない、私もお前に酷いことをしたね……」
王子はうなだれた。
「いや、お前だったら構わねーよ、気にすんな」
「本当に?」
サマエルは半信半疑で尋ねる。
「うん、お前はモトの……ベリアルの生まれ変わりだしさ。
フェレスん時も、吐かなかったろ?」
「そうだね」
ほっとしたように、サマエルはうなずく。
「けど、タナトス相手は、やっぱダメだったな。
あいつ、戴冠式の晩、酔っ払った勢いでオレを寝室に引っ張り込んだんだ。
必死に耐えてたけど、とうとう限界来ちまってさ。
盛大にゲロ吐いた上、呼ぶ気なかったのに、長年の付き合いのせいか、ベルゼブルに、オレの叫びが届いちまって、それで……」
宝石の化身は、続きを映像としてサマエルに見せた。
タナトスは、烈火のごとく怒っていた。
しかし、ベルゼブルは一歩も引かず、自分が“焔の眸”に与えた許可証を見せ、傷ついた化身、『ゼーン』にも引き会わせた。
これで息子を納得させたと信じた前魔界王は、部屋を出て行った。
直後、新魔界王は結界を張り、許可証を手に取ると、ずたずたに破り捨て、化身を睨みつけた。
「こんなものがあるから親父ごときに頼りたくなるのだ、貴様はもう、俺のものだということを肝に銘じろ!
よくも俺の顔に泥を塗ったな、どうやって仕置してやろうか!
結界も張った、もう何があろうと、親父は助けに来んぞ!」
魔界王が代替わりするたび、“焔の眸”に対する扱いは変わる。
それを当然のことと受け止めていたダイアデムは、
「──カンジュア!
ほら、これで、好きなだけひっぱたけよ」
「何?」
「だってお前、オレが逆らうたびに『魔界王になったら目にもの見せてやる!』って怒鳴ってたろ」
「ふん」
一旦は受け取ったものの、魔界王はすぐに鞭を放り投げ、代わりに少年を抱き上げた。
「わ、何すんだよ!?」
「大人しくしろ、宝物庫まで行くだけだ」
「えっ?」
そのまま魔界王は彼を運び、巨人に扉を開けさせる。
宝物庫の中は相変わらず、色とりどりの宝石が
奥の部屋に進み、タナトスは周囲を見回す。
「そういえば、ベッドはどこだ?」
少年は悲しげに答えた。
「ンなもん、三十万年くらい前、取り上げられてそれっきりさ。
あーあ、独りぼっちでまたここに、ずっといなくちゃいけねーのか。
今度外に出られるのは、何千年先だろ……お前の結婚式か、ベルゼブルの葬式か?」
「何だと?」
魔界の君主は眉を寄せた。
「だって、オレらは許可がねーと、こっから出られねーんだ。
たまに会いに来てくれるヤツもいたけど、『また明日』なんて言っといて、女が出来たら、それっきり。
次に来たのは、五百年も後、その女との結婚式さ。
んで、文句言ったらひっぱたかれてよ。
ナマモノって、忘れっぽくってマジ信用できねー……ま、そいつもとっくに墓ン中だけどな」
ダイアデムは肩をすくめ、床の一角を指差す。
「ほら、あそこが寝場所。シンハが何十万年も寝そべってたから、すり減っちまった。
あ、直したりしねーでくれよ、他よりほんのちょびっとだけど、居心地がいーんだ。
そんくらいの自由なら、くれたっていいだろ?
ここにゃ誰も来ねーし、あそこだけ、ちっとみすぼらしくったってよ」
それを聞いたタナトスは顔をしかめ、呪文を唱えた。
「──カンジュア!
今日から、これで寝ろ」
「ひゃっ!?」
いきなり豪華なベッドの上に放り出された少年は、小さく悲鳴を上げた。
「今日はめでたい日だ、これで勘弁してやる。
明日は覚悟しておけ。たっぷりと思い知らせてやる、誰が貴様の主人かということをな!
朝一番に、俺の部屋へ来い!」
そう言い捨てて、タナトスは出て行く。
“焔の眸”は、遥かな過去から、魔界を支配するのにふさわしい王を選んで来た。
なのに、長い間、その重責に見合う待遇は与えられず、前魔界王ベルゼブルの代になってようやく、汎魔殿の中での自由を許されたのだった。
だが、タナトスが許可証を破り捨てたことで、それも終わりを告げた。
「明日っから地獄だなぁ……。けど、あいつが魔界王なんだ、仕方ねーや。
オレが苦しめば、王家の財政は
何万年か我慢して、また別なヤツを選ぶ……次のはマシだといーけどな。
いつまでンなこと、続けりゃいーんだか。ホントの自由が欲しいぜ……」
一万年ほども自由を
ように感じられて、宝石の少年は枕に顔を
紅い貴石が純白のシーツの上に転がる。
周囲で輝く宝石の群れは、長い年月の間に、彼が、苦痛や悲しみと共に生み出した物だった。
それでも、真新しいベッドの心地よさに誘われたのだろうか、普段はまったく睡眠を必要としない彼も、まるで魔法にでもかかったかのように、つい眠り込んでしまった。
「うわ、まずっ、寝ちまった!」
はっと飛び起きた時には、もう昼近かった。
「あーあ、今頃行ったらきっと、たくさんぶたれて、それからまた……ん?」
べそをかく彼の眼に、枕元のテーブルに乗っている、二本の巻物が映った。
見覚えのある方を広げてみる。
「こりゃ、昨夜破かれた、ベルゼブルの許可証じゃねーか。
んじゃ、こっちは……あ!」
二本目を開けた少年は、それをつかんだまま、魔界王の部屋に駆けて行った。
「タナトス、何だよ、これ!」
息を弾ませて扉を開けた彼をじろりと見やり、王は言った。
「俺は
彼が手に入れた二本目の巻物は、タナトスが書いた、新しい許可証だったのだ。
サマエルは、額に手を当て、ため息をついた。
鞭が出てきたところでは、ダイアデムを鞭打った数と同じだけ、兄を殴ってやりたそうな顔をした彼だったが。
「なるほど。一晩寝て、あいつも頭が冷えたのだろうね。
でも、忘れたのかい、ダイアデム。お前は一度死んで、復活したのだよ。
だから今のも、前世の記憶と言っていい。気にすることはないさ」
ダイアデムの顔が、ぱっと明るくなる。
「そっか! この体、お前が新しく創ってくれたんだっけ!
あ、そーだ!
──カンジュア!
これ、覚えてっか?」
呼び出された物を見て、サマエルは微笑んだ。
「まだ持っていてくれたのだね」
「うん、だって、お前が彫ってくれたもんだし、誰かから物もらったこと自体、初めてだったし。
ずっと、大事にしまっといたんだ」
化身が差し出す鎖の先に揺れていたのは、小さな木彫りのライオンだった。
大きさはウズラの卵ほど、両眼には小さなルビーが輝き、カッと口を開いている。
「あの頃は魔法が使えなかったから、地道に手彫りするしかなかったのだよ。
今見ると、下手過ぎて恥ずかしいな。
──オーラム!」
サマエルは、呪文で銀の鎖を金に変え、少年の首にかけた。
「ンなことねーって。オレ、これ好きだぜ。
──ああ、自由ってマジいーよな! もう、他のヤローを選ぶ必要がねーんだから!」
宝石の化身は夫に抱きつき、サマエルは、彼を優しく抱き締めた。