~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

1.石の心(5)

タナトスの姿が消えた途端、ダイアデムは顔を上げ、ぺろりと舌を出した。
「やーっと行ったな。へっ、手間がかかるヤツだぜ。
ホントはニュクスのこと、気になってしょーがねーくせによ」
「まあ、タナトスの心境も分からないでもないけれどね……」
サマエルがつぶやく。
ダイアデムは、はっと身を硬くした。
その瞳に、こっそり差した水ではなく、本物の涙が浮かび始める。
「お前があいつの肩持つなんて、やっぱ、オレ達が石だから……?」

サマエルは、否定の仕草をした。
「いや、そうではなく、彼らの関係は、私達同様、複雑だということさ。
魔界の君主と、重罪を犯した家臣という立場もあるしね。
タナトスが独断で罪を許しても、異議を唱える者はかなりいるはずだ。
それもあって、色々悩んでいるのだよ」

「そっか、ちゃんと考えてくれてたんだな」
ダイアデムは、胸をなで下ろした。
「もちろんさ。あいつが見かけほど不人情でないことは、お前も知っているだろう?
ニュクスも、もう少し付き合いが長くなれば、分かって来ると思うけれどね。
はっきりした女性が好みかと思っていたが、ずいぶん控え目な女性を創ったものだな……」

最後の方はつぶやきに近かったが、耳のいい“焔の眸”の化身には、明瞭に聞き取れた。
「お前も、そういう女が好みなのか?
ホントは“黯黒の眸”の相手はお前……“カオスの貴公子”のはずだったんだし、それとも、オレ達にもう飽きたのか?」

サマエルは、けげんそうな顔をした。
「そんなこと言ってやしないだろう? 
ふと、タナトスの好みが変わったのかなと思っただけだよ。
だが、あいつは、お前に言われると素直になるように思えるな。
昔、何かあったのかと勘繰ってしまうよ」

「えっ」
ダイアデムはぎくりとし、サマエルは少し淋しそうな表情になる。
「そう。やはり。だが、気にしなくていいのだよ。
お前は代々、魔界王の伴侶(はんりょ)と定められていたのだから、ベルゼブル陛下やタナトスの、夜の相手をするのも当然だ」

「汚らわしいって、思うだろ……」
化身はうつむいた。
「いいや」
静かに答える第二王子の顔を、少年は覗き込んだ。
「嘘だ! 正直に言えよ、平気なわけないだろ!
お前が嫌いな、いーや、憎んでるって言ってもいい連中と、オレは寝たんだぜ!?」

「それは……少しは引っ掛かるけれど、済んだことだ。
仕方がなかったことに、いつまでも執着するのはやめよう。
それに私だって、タナトスには散々(もてあそ)ばれているし、ね」
サマエルは淋しげな笑みを浮かべる。
「……そっか」
ダイアデムは、大きく息をついた。

「若い頃は、私を愛してくれるなら、誰でもいいと思っていた時期もあった。
しかし、今は違う、お前だけだ、“焔の眸”。
お前ほど類希(たぐいまれ)な存在には、滅多にお目にかかれない。まさしく希有(けう)の至宝と言える……」

ダイアデムは眼を伏せた。
「オレ、ベルゼブルが初めてだった。シンハは、好みじゃなかったみたいでさ。
けど、信じてくれよ、寝たのは一回ずつだけなんだ……」
「そういえばベルゼブル陛下は、美少年のハーレムを作っておいでだったね。
母上が亡くなってから……だそうだけれど」

「男相手なんか、超絶ヤだった。けど、魔界王の命令は絶対……。
あの夜も、必死に我慢してた。
でも、ゼーンの記憶……昔の恐怖が甦って来て、とうとう、思いっ切りゲロぶちまけちまってさ。
もう終わりだ、散々殴られたあげく壊されるんだって思ったら、震えが来て涙が止まんなくなって……。
でも、ベルゼブルは、怒るどころか謝って来てさ。
もう無理強いしないって……でも、信用できないって言ったら、自由行動を許すって書いた許可証くれたんだ。
どうしてかな。あんとき吐いた石が気に入ったのかも?
苦しくて、マジ死にそうだったお陰で、かなり質のいい石を創れたもんな」

“焔の眸”の化身であるダイアデムの体液は、すべて宝石となる。
苦痛や悲哀、喜びなど、伴う感情が激しければ激しいほど、生み出される貴石は美しいものになるのだった。

「……吐いた? そんなに酷くされたのか」
サマエルは痛ましそうな表情をしたが、ダイアデムの首は横に振られた。
「いや、ベルゼブルは優しかったぜ。けど、やっぱ、男相手はな」
「すまない、私もお前に酷いことをしたね……」
王子はうなだれた。

「いや、お前だったら構わねーよ、気にすんな」
「本当に?」
サマエルは半信半疑で尋ねる。
「うん、お前はモトの……ベリアルの生まれ変わりだしさ。
フェレスん時も、吐かなかったろ?」
「そうだね」
ほっとしたように、サマエルはうなずく。

「けど、タナトス相手は、やっぱダメだったな。
あいつ、戴冠式の晩、酔っ払った勢いでオレを寝室に引っ張り込んだんだ。
必死に耐えてたけど、とうとう限界来ちまってさ。
盛大にゲロ吐いた上、呼ぶ気なかったのに、長年の付き合いのせいか、ベルゼブルに、オレの叫びが届いちまって、それで……」
宝石の化身は、続きを映像としてサマエルに見せた。

タナトスは、烈火のごとく怒っていた。
しかし、ベルゼブルは一歩も引かず、自分が“焔の眸”に与えた許可証を見せ、傷ついた化身、『ゼーン』にも引き会わせた。
これで息子を納得させたと信じた前魔界王は、部屋を出て行った。

直後、新魔界王は結界を張り、許可証を手に取ると、ずたずたに破り捨て、化身を睨みつけた。
「こんなものがあるから親父ごときに頼りたくなるのだ、貴様はもう、俺のものだということを肝に銘じろ!
よくも俺の顔に泥を塗ったな、どうやって仕置してやろうか!
結界も張った、もう何があろうと、親父は助けに来んぞ!」

魔界王が代替わりするたび、“焔の眸”に対する扱いは変わる。
それを当然のことと受け止めていたダイアデムは、(むち)を呼び出した。
「──カンジュア!
ほら、これで、好きなだけひっぱたけよ」
「何?」
「だってお前、オレが逆らうたびに『魔界王になったら目にもの見せてやる!』って怒鳴ってたろ」

「ふん」
一旦は受け取ったものの、魔界王はすぐに鞭を放り投げ、代わりに少年を抱き上げた。
「わ、何すんだよ!?」
「大人しくしろ、宝物庫まで行くだけだ」
「えっ?」

そのまま魔界王は彼を運び、巨人に扉を開けさせる。
宝物庫の中は相変わらず、色とりどりの宝石が燦然(さんぜん)と輝いていた。
奥の部屋に進み、タナトスは周囲を見回す。
「そういえば、ベッドはどこだ?」

少年は悲しげに答えた。
「ンなもん、三十万年くらい前、取り上げられてそれっきりさ。
あーあ、独りぼっちでまたここに、ずっといなくちゃいけねーのか。
今度外に出られるのは、何千年先だろ……お前の結婚式か、ベルゼブルの葬式か?」
「何だと?」
魔界の君主は眉を寄せた。

「だって、オレらは許可がねーと、こっから出られねーんだ。
たまに会いに来てくれるヤツもいたけど、『また明日』なんて言っといて、女が出来たら、それっきり。
次に来たのは、五百年も後、その女との結婚式さ。
んで、文句言ったらひっぱたかれてよ。
ナマモノって、忘れっぽくってマジ信用できねー……ま、そいつもとっくに墓ン中だけどな」

ダイアデムは肩をすくめ、床の一角を指差す。
「ほら、あそこが寝場所。シンハが何十万年も寝そべってたから、すり減っちまった。
あ、直したりしねーでくれよ、他よりほんのちょびっとだけど、居心地がいーんだ。
そんくらいの自由なら、くれたっていいだろ?
ここにゃ誰も来ねーし、あそこだけ、ちっとみすぼらしくったってよ」

それを聞いたタナトスは顔をしかめ、呪文を唱えた。
「──カンジュア!
今日から、これで寝ろ」
「ひゃっ!?」
いきなり豪華なベッドの上に放り出された少年は、小さく悲鳴を上げた。

「今日はめでたい日だ、これで勘弁してやる。
明日は覚悟しておけ。たっぷりと思い知らせてやる、誰が貴様の主人かということをな!
朝一番に、俺の部屋へ来い!」
そう言い捨てて、タナトスは出て行く。

“焔の眸”は、遥かな過去から、魔界を支配するのにふさわしい王を選んで来た。
なのに、長い間、その重責に見合う待遇は与えられず、前魔界王ベルゼブルの代になってようやく、汎魔殿の中での自由を許されたのだった。
だが、タナトスが許可証を破り捨てたことで、それも終わりを告げた。

「明日っから地獄だなぁ……。けど、あいつが魔界王なんだ、仕方ねーや。
オレが苦しめば、王家の財政は(うるお)うんだし……。
何万年か我慢して、また別なヤツを選ぶ……次のはマシだといーけどな。
いつまでンなこと、続けりゃいーんだか。ホントの自由が欲しいぜ……」

一万年ほども自由を謳歌(おうか)した後で、突然その権利を奪われるのは、ひどく耐えがたいことの
ように感じられて、宝石の少年は枕に顔を(うず)め、すすり泣いた。
紅い貴石が純白のシーツの上に転がる。
周囲で輝く宝石の群れは、長い年月の間に、彼が、苦痛や悲しみと共に生み出した物だった。

それでも、真新しいベッドの心地よさに誘われたのだろうか、普段はまったく睡眠を必要としない彼も、まるで魔法にでもかかったかのように、つい眠り込んでしまった。

「うわ、まずっ、寝ちまった!」
はっと飛び起きた時には、もう昼近かった。
「あーあ、今頃行ったらきっと、たくさんぶたれて、それからまた……ん?」
べそをかく彼の眼に、枕元のテーブルに乗っている、二本の巻物が映った。
見覚えのある方を広げてみる。
「こりゃ、昨夜破かれた、ベルゼブルの許可証じゃねーか。
んじゃ、こっちは……あ!」
二本目を開けた少年は、それをつかんだまま、魔界王の部屋に駆けて行った。

「タナトス、何だよ、これ!」
息を弾ませて扉を開けた彼をじろりと見やり、王は言った。
「俺は(こび)を売るヤツは好かん、今まで通りにしていろ。それからな、過去の(くず)共と、俺を同一視するな、たわけ」
彼が手に入れた二本目の巻物は、タナトスが書いた、新しい許可証だったのだ。

サマエルは、額に手を当て、ため息をついた。
鞭が出てきたところでは、ダイアデムを鞭打った数と同じだけ、兄を殴ってやりたそうな顔をした彼だったが。
「なるほど。一晩寝て、あいつも頭が冷えたのだろうね。
でも、忘れたのかい、ダイアデム。お前は一度死んで、復活したのだよ。
だから今のも、前世の記憶と言っていい。気にすることはないさ」

ダイアデムの顔が、ぱっと明るくなる。
「そっか! この体、お前が新しく創ってくれたんだっけ!
あ、そーだ!
──カンジュア!
これ、覚えてっか?」
呼び出された物を見て、サマエルは微笑んだ。
「まだ持っていてくれたのだね」

「うん、だって、お前が彫ってくれたもんだし、誰かから物もらったこと自体、初めてだったし。
ずっと、大事にしまっといたんだ」
化身が差し出す鎖の先に揺れていたのは、小さな木彫りのライオンだった。
大きさはウズラの卵ほど、両眼には小さなルビーが輝き、カッと口を開いている。

「あの頃は魔法が使えなかったから、地道に手彫りするしかなかったのだよ。
今見ると、下手過ぎて恥ずかしいな。
──オーラム!」
サマエルは、呪文で銀の鎖を金に変え、少年の首にかけた。
「ンなことねーって。オレ、これ好きだぜ。
──ああ、自由ってマジいーよな! もう、他のヤローを選ぶ必要がねーんだから!」
宝石の化身は夫に抱きつき、サマエルは、彼を優しく抱き締めた。