1.石の心(3)
シュネこと碧龍ベリルが、魔法学院に戻った数ヶ月後。
碧龍を見つけたことを報告するため、サマエルはダイアデムを連れ、汎魔殿へとやって来た。
その頃にはタナトスも、事前に申し出ておけば、彼の魔界への帰還を許すようになっていた。
人界と魔界をつなぐ次元回廊は、サマエルの子供部屋に設けられている。
二人が部屋から出た途端、美しい女性が声を掛けて来た。
「久しぶりだな、“焔の眸”。こちらに還って来ると聞いて、待っていた」
「えっ、誰だ? オレ、お前なんか知らねーぞ」
「……
鈴の音を転がすような、耳に心地よい響きに、思わずダイアデムの声が上ずる。
「ひ、人違い、じゃねーの……?」
「人違いなどではない、妾は、おぬしの帰りを待ちわびていた……」
美女のつぶらな黒曜石の瞳は、一心に彼に向けられている。
ゆるやかに背中を流れる
「? ? ……だ、誰だっけ……?」
ダイアデムは頭をひねり、懸命に思い出そうとした。
しかし、忘れることができないはずの記憶のどこを探っても、この美女に出会った事実を、見つけ出すことができない。
「お前が思い出せないはずはないだろう、ダイアデム……?」
低い声で話すサマエルの表情が、徐々にこわばってゆくのを眼の隅で捉えて、ますます彼は焦った。
「サ、サマエル、オ、オレ、ホントのホントーに知んねーんだよ、ウソじゃねーってば!
こ、こんなべっぴん、一度でも会ったら、わ、忘れるわけねーし……!」
しどろもどろに言い訳しているダイアデムの様子に、黒衣の美女は首をかしげた。
闇色の髪が、さらさらと肩に掛かる。
「おぬし、何を左様に焦っておるのだ?」
「な、何をって、お前……」
「……お邪魔のようだな。私は先にあいさつしてくるよ。
まごまごしていると、魔界王陛下のご機嫌を損ねるから」
言い捨てたサマエルは、一人でさっさと歩き出してしまった。
「あ! ま、待てよ、サマエル!
誤解だってば、オレを置いてくなよっ!」
「待て、話は終わっておらぬ」
慌てて第二王子の後を追いかけようとした少年の腕を、美女はつかんで引き留めた。
「な、何だよ、離せ!」
「待てと申すに」
女性の手をふりほどこうとしたが意外に力強く、魔界王の書斎へと急ぐサマエルの姿は、みるみる小さくなっていく。
「離せよっ! オレは話なんかねーぞ!」
「“カオスの貴公子”はいかが致したのだ?
大層不機嫌のように見受けられたが……」
「なに言ってんだ、てめーのせいだろ!
知り合いでもねーのに、なれなれしく声掛けてくんな、バカ!
……あ~あ、行っちまった……。
あいつ、ああ見えて、“超”が付くくらいの焼きもち妬きなんだぜ!
どうしてくれんだよ!」
ダイアデムは、名も知らぬ美女を睨みつけた。
どうやってサマエルの機嫌を直そうかと考えると、涙が出そうだった。
「おぬし、本当に妾のことが分からぬのか?
……ふむ……おぬしらも、妾が思うていたほどには、うまくいってはおらぬのだな……」
「何だとぉ、大きなお世話だ!
てめーホントに、何モンなんだよ!?」
「我が名はニュクス。タナトスはこの姿に、そう名を付けた」
美女は自分の胸に手を当てた。
「“ニュクス”? “夜”って意味だな……タナトスが名付けたって?
……あ、この“気”、お前、まさか……!」
首をひねったダイアデムは、ようやく相手の正体に気づいた。
「今頃分かったか、我が分身、“焔の眸”よ」
美女は微笑んだ。
「なんだ、てめーは、“黯黒の眸”かぁ!
けど、なんだってンな格好してんだよ。
あ、まさか……タナトスとデキたのか?」
「デキる、とは
美しい女性に真っ正面から訊かれて、ダイアデムは思わず言葉に詰まった。
「え、え、つ、つまり何つーか、その……」
「その言葉自体は知らぬが、おぬしの申したきことは、おおよそ理解できる。
されど、タナトスは妾を寝所に連れ込んだりはしておらぬぞ、サマエルとは違うてな」
ニュクスは、あくまでも真面目な顔だった。
「はぁ。分かってんなら訊くんじゃねーよ、……ったく!」
ダイアデムは大げさにため息をつき、同時に胸をなで下ろしていた。
この美女が“黯黒の眸”の化身なら、サマエルにも簡単に言い訳が立つというものだった。
元々一つの結晶から分かれた宝石、つまり兄弟なのだから。
「けど、お前、結構タナトスに気に入られてんじゃねーのか?
そうじゃなきゃ、絶対“要石の間”から出してもらえねーだろ。
お前、散々なこと仕出かしたんだからさ」
ダイアデムの言葉に、ニュクスの整った顔が曇る。
「……そなた、左様に思うか?」
「ああ」
「妾も左様に思うておった……なれど、この頃タナトスは妾を避けておるゆえ、しかとは分からぬのだ……」
「ははん……で、オレが、どーやってサマエルとうまくやってっか、知りたくなったワケだ」
そう言いながら、紅い髪をかき上げる少年の左手に、深い青色を
ニュクスは、それをうらやましげに見た。
「……アイシスの形見か」
「ああ、これな。
サマエルが、受け取ってくれねーと死ぬって泣きついてくっからよ……死ねやしねーのにな。
けど、お前も大変だなー、タナトスの野郎ときたら、ガキと大差ねーし。
ええと、じゃあ、まず、いつ頃からその姿でいるんだ?」
ダイアデムは改めて尋ねた。
「……かれこれ、一年半ほどになろうか」
「へー、結構経ってるじゃん。
タナトスは、初めっから、お前のこと無視してたんか?」
ニュクスは、否定の身振りをした。
「いや、初めのうちは色々と教えてくれ、汎魔殿内をみずから案内してくれもした……。
それゆえ妾も懸命に、魔界人として知っていて
だが、一通りそれが済むと、妾がついて参るのを嫌うようになり……。
妾のどこが悪いか、教えてくれるよう懇願しても、特に理由はないと……」
「ふ~ん……」
一心同体と言っていい存在だと知っていても、見とれてしまうほどの美貌には、思いつめた表情が浮かんでいる。
これはかなり深刻な事態かも知れないと、ダイアデムは思った。
考え事をするときの癖で、紅い髪をくるくると指に巻き付けながら、彼はしばし考えを巡らす。
だが、すぐには結論は出せそうもなかった。
「うーん、も少し詳しく聞かせろよ、ニュクス。そんだけじゃ、やっぱオレにも分かんねーよ」
「左様か。なれど、何を話せばよいのだ?」
ニュクスは優雅に首をかしげた。
「そうだなぁ……。
タナトスは後宮もちゃんと持ってるし、サマエルと女の取り合いしたくらいだし、別に女嫌いじゃねーはずだしな……」
ダイアデムは腕を組み、頭をひねった。
それから、はっとしたように顔を上げる。
「そーいや、その、超べっぴんの姿は、誰の体をかっぱらったんだ?」
美女は、またも否定の仕草をした。
「いや、これは奪ったものではない。
たしかに妾は、
それゆえこたびは、タナトスに、新たなる風姿を創り出してもろうたのだ」
「な~る、それでかぁ!」
ダイアデムは、ぽんと手を打ち、大声で笑い出した。
「ぷっ、くふふふ、あは、あはははは……!」
“黯黒の眸”の化身は、三日月形に整った眉をひそめた。
「何がおかしいのだ? 妾は真剣に……!」
「くくっ、悪りー、悪りー。
けどさぁ、タナトスって……そーゆートコ、ホント似てるよな、あの兄弟って……ぷぷっ!」
“焔の眸”は何とか笑いを納めようとするも、ついまた噴き出してしまう。
「一体、何ゆえ笑うのか?
“カオスの貴公子”が、関わりあると申すか?
妾にはまったく理解できぬ」
兄弟石が苛立ち始めたのを感じたダイアデムは、ようやく笑いを止め、真顔になった。
「つまり、タナトスはお前に
サマエルとおんなじに、うっかり、自分の理想の女を創っちまったってわけさ」
予想もしなかった答えに、ニュクスの黒曜石の瞳が大きく見開かれる。
「まさか……」
「絶対そーだって。
オレから見てもお前、超色っぺーし……だからさっきも、サマエルのヤツ、妬いたんだぜ。
けど、タナトスは、超プライド高いからなー。
主人格の自分から、
けど、諦めようって思ってもさ、お前の顔見ると、こう、むらむらっと来て、押し倒したくなったり、夜も、ベッドん中で一人でモンモンとして……だから避けてるんだぜ、きっと」
「左様であったか。ならば、
我らは、主のためのみに存在する。何ゆえタナトスは、一人で思い悩んでおるのであろうな?」
ニュクスは、抜けるように白い首をかしげ、その仕草でサラサラと顔にかかってきた、黒の絹糸そっくりの髪をかき上げた。
そんなニュクスを、ダイアデムは指差した。
「そう、その仕草。お前は無意識なんだろが、ものすっごく色っぺーんだよな。
うん、もちろんタナトスだって、お前が拒まねー……っていうか、喜んで従うことは知ってるさ。
けどよ、あいつはオレで懲りてっからなぁ……」
「? おぬしで懲りている、とはどういう意味だ?」
ニュクスの無心な問いかけに、ダイアデムの表情が
紅い瞳の奥の金色の炎が、か細く揺れる。
「あいつが、オレをベッドに連れ込んだことあんの、知ってんだろ……」
ニュクスも眼を伏せ、小声になる。
「……それ以上申さずともよい。ならば、現時点では、いかに対処すればよいのであろうな」
ダイアデムは、頭を切り替え、元気よく顔を上げた。
「そんじゃあまず、タナトスんトコに行こうぜ。サマエルの誤解も解かなきゃなんねーしさ。
それによ、放っとくと、あいつらまたケンカするだろ?
あげくタナトスはサマエルを殴り倒して、ヤッちまおうとするに決まってんだ。
ホントしょーがねーったら。もうあいつはオレのもんだってのに!」
ニュクスは、美しい顔をうつむかせ、胸の前で手を握り締めた。
「なれどタナトスは、妾に会うてくれるであろうか……」
「ンな顔すんなって。自分のせいじゃねーんだって分かっただけでも、気が楽だろ?
それによ、サマエルにも相談してみようぜ。
オレらよか、タナトスのこと分かってるはずだしよ、きっといい知恵貸してくれるさ」
「左様か。おぬしは肉体を持って、はや五十万余年……妾には先輩とも兄とも申すべき者。
やはり話してよかった」
張りつめていたニュクスの表情が、ようやく柔らかくなる。
ダイアデムの瞳の炎も優しく揺れて、彼は、にっと笑った。
「先輩なんて、ンな大げさなもんじゃねーけどよ。ま、お互い頑張ろうぜ、兄弟」
精霊達は連れ立って歩き出した。