1.石の心(1)
ありうべからざる強大な“気”の持ち主は、確信を込めた足取りで魔界の至宝に近づき、口を開いた。
「……ああ、そういえば、貴様はここに封じられていたのだったな、“
少しは反省したか?」
威厳のある声、命令することに慣れたその響き、青白い結界の光に浮かび上がる二本の角、
“黯黒の眸”は、それらすべてに見覚えがあった。
“……おう、サタナエルではないか。
決して光を反射することのない闇色の宝石が尋ねると、真の名をサタナエル、黔龍王とも呼ばれる魔界の君主タナトスは、軽く肩をすくめた。
「大したことではない。
たまには、汎魔殿の要所を見回って来いと、親父にせっつかれただけだ。
貴様のことなど、親父でさえすっかり忘れていたぞ」
“……左様であったか”
“黯黒の眸”は、つぶやくように答えた。
「何事もなくて残念だったな、このトラブルメーカーめ!
魔界はここのところ、この俺が暇を持て余すほど、まったくの平和だぞ、ざまあみろ!」
とても王とは思えないセリフをタナトスが吐くと、“黯黒の眸”の思念は、いかにも心外だと言いたげな響きを帯びた。
“……これはしたり。
平和と聞かば、落胆など致すわけもなかろうが”
「ふん……どうだかな」
苛立たしげな貴石の答えを、魔界の王は軽くいなす。
そして、部屋の中心に据えられている、巨大という他は特に変わったところもない岩に近寄ると、腰に手を当て仰ぎ見た。
何かを探し求めるように、隅々まで視線を走らせる。
しかし、いくら眼を凝らしても、選ばれた者しか読むことが出来ない特殊な碑文の文字に変化は見られず、他の異常も感知できなかった。
(ふん、特に変ったところはないな。
イシュタル叔母が、『ここに何か、新たな
“黯黒の眸”の封印その他にも、取り立てて変化はないが……)
彼は一人ごちた。
イシュタルは、タナトスの父、前魔界王ベルゼブルの異母妹に当たり、水晶占いに
“要石”は、その名のごとく、汎魔殿の土台を物理的に支えていると同時に、ここを中心として魔界全土を覆う強力な結界の発生源でもあった。
これに悪しき変化が起これば、魔界の命運をも左右しかねないのだ。
「さてと、用件は済んだ。邪魔をしたな、“黯黒の眸”」
見極めがついた魔界王は、すぐさま要石の間を去ろうとした。
その彼に向けて、宝石の精霊が名残惜しげに言葉をかける。
“行くか、サタナエルよ。せめて今少し、話し相手になってはくれぬか。
訪なう者も絶えて久しかったゆえ……ここ千年ほどは”
「貴様と口を利く必要はないし、その気も俺にはない」
気の短いタナトスの返事は、取り付く島もない。
だが、“黯黒の眸”は、現在の主である彼を引き留めずにはおれなかった。
“待たれよ、魔界の君主、我が主たるサタナエルよ!
千二百年はさすがに長い、我も、深く、本気で反省致しておるゆえ、何とぞ……”
刹那、タナトスの
「──しつこいぞ! 貴様のごたくなど聞く耳持たんわ!
いくら泣き言を並べようと、ここからは出してなどやらん!
すべてがややこしくなったのは、貴様のせいなのだからな!」
語気の荒さに、貴石の化身はうなだれたものの、言わずにはいられなかった。
“……慈悲を知らぬか、冷酷なる魔界の支配者よ”
「何が慈悲だ、冷酷だ!
貴様がそんな言葉を吐ける立場かどうか、よっく考えてみるのだな、このたわけ者!
元々、一万二千年前の戦でさえも、貴様が仕組んだことだったではないか!
あの戦いでは、人間のみならず、魔族も数え切れぬほど死んだ。
それゆえ、未だに宿敵天界との決着もつかず、それどころか、危く世界の破滅をも招くところだったのだぞ!
おのれの仕出かした事態の重大さをわきまえよ、テネブレ!」
タナトスは叫び、目前で揺らめく“黯黒の眸”の化身に向かって、指を突き付けた。
“我の行動が性急にすぎ、皆様にご迷惑をかけた段については、幾重にもお詫び致そう……申し訳ない。
冷静に顧みれば、他にも方法はあったと、今は我にも分かる……”
テネブレは、ぎこちなく頭を下げた。
結界に力の大部分を封じられているため、明確な形状は取れないでいる。
おぼろな影めいた姿によくよく眼を凝らすと、漆黒の眼を持ち、頭にねじくれた細い角が二本生えていることが、かろうじて見分けられる程度だった。
しかし、化身に向けられる魔界王の眼差しは、冬の嵐も同然だった。
「──ふん、今頃になってか!
遅きに失し、しかも口では何とでも言えるわ!
覚えておけ! 貴様の
“信じて頂けぬのも止むを得まい……我の行動を
それが巡り巡って『焔の眸』を消滅させることとなり……その瞬間は我にも感じられた……。
まさしく予言通りにな……”
それを聞くと、タナトスは少し冷静さを取り戻した。
「む、貴様も知っていたのか? “焔の眸”が、サマエルに破壊されるということを」
“遙かなる太古、『焔の眸』と我とは、一つの結晶より分かたれたものでありしこと、存じておいでであろう、サタナエルよ。
それゆえ、あやつが視る『夢』は全て、我にも視える。
あの折、人界と結び、天界に戦いを挑みしところで時期
テネブレの言葉に、一旦は静まったタナトスの瞳が、再び紅く燃え上がった。
「何だと、貴様ごときに何が分かる、この
人間との同盟がうまくいけば、我らが勝っていたに決まっていようが!」
“……まことに左様であったであろうか?
我のみならず、『焔の眸』にも、それは叶わぬことと分かっておったのだぞ”
「何っ!? あいつもグルだったのか!?」
“そうは申しておらぬ。
なれど、シンハも、あの時点では我が方に勝ち目なし、と予知しておった。
あやつはかつて、決して外れぬ予知力を持ちし者、『予言の獅子』でありしゆえ”
「俺を
あいつは、一言もそんな話は言ってはおらなんだわ!」
タナトスは、疑り深そうな響きが声に出るのを隠そうともしなかった。
“忘れたか、黔龍王よ。
『焔の眸』は、長の年月、魔界王の意に沿わぬことは、口に上らすことすら、許されておらなんだことを”
「む、そうだったな……。
あの後ヤツが“ダイアデム”の姿を得て初めて、自由に振舞う権利を与えられたのだったな、親父に」
“新たなる予言によれば、四龍が揃わねば、魔界の宿願は叶わぬ。
当時、我らが手中には『紅龍』のみ。
しかも、ルキフェルは未だ幼く、みずからの力を制御するも叶わぬほど……。
かような状況で勝てると思い込めたは、そなたとバアル・ゼブルくらいなものであろう。
それゆえ我は、何者にも知らせず行動に出たのだ。人の世の、一時的退行も辞さずに”
意外な告白に、タナトスの眼が大きく見開かれた。
一万年以上も昔、“黯黒の眸”が盗み出され、それをきっかけに起きた魔族対人族の戦は、人族を、あわや絶滅と言うところまで追い込んだ。
だが、その戦を起こした元凶が、実は“黯黒の眸”自身だったということが、千二百年前、とある事件により発覚した。
そして現在に至るまで、誰もが皆、“黯黒の眸”が退屈しのぎに起こしたものだと思い込んでいたのだった。
宝石の精霊……テネブレ自身が、そう宣言していたせいもあるのだが。
「何……だと? 貴様が、あんなことを仕出かしたのは、魔界のためだったと言うのか?
ただの気紛れや、単なる暇潰しではなく……?」
それでもまだ、タナトスの眼差しには疑いの色が濃かった。
テネブレはうなずき、さらに付け加えた。
“左様、未だ分からぬのか? タナトス。
強大なる力を持ちし四頭の龍が必要なのだ……勝利のためには”
「ふうむ……」
少しの間、化身の話を
「“朱龍”が見つかり、そして“焔の眸”も復活した。
残りは“碧龍”だけか。恩着せがましく、ここから出せと言うつもりか?」
“解放を願い出る気など、毛頭ない。
我も魔界王家に仕える身、魔界王たるそなたの意に従い、四頭の龍が揃うを楽しみに、
ただ、時折……数年に一度で構わぬゆえ、訪うて戴けるならば、比類なき喜び”
“黯黒の眸”は、胸に手を当てお辞儀をした。
タナトスはまたも眉間にしわを寄せ、テネブレの禍々しい姿を見据えた。
「ふん、さっきから聞いていれば、ずいぶんしおらしいことを言うようになったものだな、“黯黒の眸”。
今度は何を企んでいる?」
“企んでなどおらぬ。我が大人しゅうしておっては不服か? サタナエル”
タナトスは肩をすくめた。
「不服ではない。ただ少々、退屈でな……最近は」
“退屈? よもや、あの小生意気な紅毛の童子が気に入りだったと申すのか?
ならば、何ゆえ“焔の眸”を、サマエルにくれてやったり致したのか”
“黯黒の眸”が何を考えているにせよ、それを簡単に白状はすまい。
そう考えたタナトスは深追いせず、話題の転換に乗ってやることにした。
「ふん、さほど気に入っていたわけではないさ。
だが面と向かっては
それでも、俺は精霊のお守など必要とはせん。
しかしだ、サマエルのたわけは、ああやって気を紛らす玩具でも与えておかんとな。
ちょっとしたことで、一々ぶち切れて暴れられては、はた迷惑この上ない」
“ルキフェルか……『紅龍』は
テネブレは考え込むように言った。
「ちっ、俺も堕ちたものだ、貴様に同情されるようではな。
……まあいい、戻るとするか」
“さらばだ、黔龍王よ。先ほども申したが、時にはこの闇の間で、世間話でもして頂けるとありがたいが……”
「ああ、気が向いたら来てやる。
──ムーヴ!」
魔界王タナトスが去ると、テネブレのあいまいな姿もふっと消えた。
そして“黯黒の眸”は、青白い光を放つ魔法陣の中で、決して光を反射することのない暗い結晶面に思いを閉じ込め、ゆっくりと回転するという日常に戻った。