11.小夜鳴き鳥の唄(2)
朝になって、タィフィンがドアをノックした。
「シュネ様、朝でございますよ、起きて下さいませ。
お食事のご用意が整いました」
でも、昨夜、柄にもなく色んなことを考えて、ようやく明け方眠り込んだ僕は、すぐに起きることが出来なかった。
「ふああ……おはよう、タィフィン」
大あくびをしながらようやくドアを開けると、タィフィンが心配そうな顔で立っていた。
「どうなさったのですか? お体の具合でも……」
「ううん、平気。ただ、昨夜は考え事してて、あんまり寝てなくてさ」
「まあ。お館様にそうお知らせして、もう少しお眠りになった方が……」
「大丈夫だってば。すぐ行くから」
浴室に駆け込み、冷たい水でざばざばと顔を洗うと、やっと目が覚めた。
顔を上げた途端、誰かと眼が合い、僕はぎょっとした。
鏡に映った自分の顔だと気づいてからも、しばらく心臓がどきついていた。
……ふう。もう、何日も経つのに、まだ、この新しい顔や姿に慣れてないや……。
あ、いけない、サマエル様を待たせてたんだっけ。
僕は大急ぎで顔をふき、着替え始めた。
さすがに毎日ドレスってわけにはいかないし、そもそも一人じゃ着られない。
だから、最近の服は、普通のワンピースに落ち着いていた。
でも、昨夜のことを思い出すと、サマエル様の顔を見るのが、ちょっと気恥ずかしかった。
……あの後、二人はきっと……とか考えちゃうとね。
(え~い、僕が恥ずかしがってどうするんだよ?)
自分で突っ込み入れて、頭を切り替え、僕は食堂目がけて走った。
部屋の前で少し息を整え、いつものように元気よくあいさつしながら、ドアを開ける。
「おはようございます、サマエル様!」
「おはよう、シュネ。寝不足だって?」
そこには、いつもと変わらず優しい微笑みを浮かべたサマエル様がいた。
「あ、はい。
ネスター先生のこととか、学校のこととか色々考えてたら、寝そびれちゃって……」
「キミには、言葉では言い表せないほど感謝している。
キミがいたいのなら、いつまでいてくれても、構わないのだよ」
真剣なサマエル様の言葉に、僕は面食らった。
「え? 僕、感謝されるようなこと、何もしてないですよ?」
「いや、キミの存在そのものが、私とダイアデムの、先の見えない袋小路に落ち込んでいた関係を、風通しのよいものにしてくれた。
キミが立ち直る過程を見ていて、私達は、ほんの少し考え方を変えるだけで、こんなに前向きに生きられるのだ、ということを教えられたのだよ。
キミが来てくれなければ、まだ、私達は、出口のない迷宮を
ありがとう、シュネ」
サマエル様は立ち上がり、深々と頭を下げた。
僕は、どうしていいか分からなくなって、あたふたした。
「わ、わっ、そ、そんな、あ、頭なんて、下げないで下さいよ、サマエル様……!
ぼ、僕、大したこと、やっちゃいませんてば!
でも、役に立ててよかった、うまくいって、よかったですね。
……あ、あの、そういえば、ダイアデムは?
あ、違った、フェレ……いや、フェ、シア……でしたっけ?」
「“フェレス”は“猫”を意味する古代語で、かつての魔族の呼称でもあった。
それに、幼少の頃、私は、シンハのことを“大っきいニャンコ”と呼んでいたのでね。
気紛れで、そんな名をつけてしまったが、気に入ってくれているようだ。
今、彼女は疲れて眠っているよ、私のベッドで」
サマエル様は、幸せそうな笑みを浮かべた。
「ベ、ベッドで? サマエル様の……」
焦る僕にも気づかず、彼は、うっとりとした表情で宙を見上げた。
「結局、一晩中付き合わせてしまったからね。
彼女は、ほとんど睡眠は必要としないのだが……どうしても眠る必要があるときは、いつも地下室へ行って、本体である宝石に戻ってしまう。
だから、初めてなのだよ、化身が私の腕に安心し切って身を預け、眠ってくれるなんて……ああ……素晴らしい、夢のようだよ……。
フェレスは、寝顔までもが美しい……」
何て答えればいいのか分からず、僕は困ってしまった。
ダイアデムがいれば、何か突っ込み入れるところなんだろうけど。
あ、それは無理か。
彼……いや違った、彼女自身のことなんだもの……ああ、ややっこしいな、ホント。
仕方ないから、僕は、口の中でもぐもぐ返事をした。
「そ、そうですか、よ、よかった、ですね……」
でも、幸か不幸かサマエル様は陶酔し切っていて、僕の答えなんか聞いちゃいなかった。
「シンハの滑らかな毛皮に頬を
私の髪に合わせて少し紫をかけた、フェレスの紅い髪は……ずっと触れることが許されなかっただけに、触れるのがうれしくてたまらなくて……。
だから、ついつい朝まで、ブラッシングしてしまってね……」
「──はぁ? ブ、ブラッシング、ですかぁ? それも、一晩中?」
僕はあっけにとられた。
(大丈夫かなぁ……。サマエル様って、時々、ちょっと危ないんだよね……)
僕は声を出したつもりはなかったのに、まるでそれが聞こえたみたいに、サマエル様はふっと真顔に戻り、僕を真正面から見つめた。
「……事情を知らない人には変に思われてしまうのだろうが、“焔の眸”と私の間には語り尽くせないほど色々なことあったのでね……今、こうして普通に暮らせていること自体が、奇跡に近いのだよ」
「ふうん、そうなんですか。
あ、タィフィンから、ちょっとだけ聞きましたけど、色々あったってことは」
「幼い頃、私は、シンハにブラシをかけては迷惑がられていたのだよ。
後で知ったが、彼は触れられるのが大嫌いだったのだ。
しかし、子供は恐いもの知らずだからね。彼もいつもは我慢してくれていたのだが、ある時、たまたま虫の居所が悪くて、思い切り噛みつかれたときがあって……。
私は痛みをこらえながら、本気で殺す気なら、喉に噛みつけばいいと言った……。
すると彼は、やられたらやり返すものだろう、仕返しはしないのかと訊いて来てね。
そこで私は、生きていても何もいいことなどないから、早く殺してくれと頼んだ。
お前のその牙で、母様のところへ行かせて、とね……。
そして、無言で私を睨み続けている彼に手を差し伸べたら、彼は毛を逆立て、死にたくば勝手に死ね、これ以上触れるなと、私の手を思いきり引っかき、宝物庫に帰ってしまったのだ。
私は手の傷などより、心の方が痛かった……。
彼に謝り続けながら、一晩中泣き続けたよ……」
(うわあ、何だか壮絶だなぁ……)
こっちまで痛いような気分になって来て、僕は思わず手をさすった。
そういえば、シンハは、ワルプルギスの時も、サマエル様にケガさせてたもんな……。
「あの……彼ってずっと、そんな感じだったんですか?」
おずおずと訊いてみると、サマエル様は否定の仕草をした。
「いいや、シンハだって、いつも私に辛く当たっていたわけではないよ。
その後、泣き疲れて眠った私が目覚めたとき、彼は温かな肉球で私の傷に触れ、癒してくれていた。
詫びながら、優しく私の涙を舌でなめ取ってくれたのだ」
「……ああ、それで、ダイアデムの様子が変だったのかな……」
初めてこのお屋敷に来たとき、髪をいじられるのを嫌がって、ダイアデムが逃げて来たときのことを、僕は思い出した。
彼はあのとき、眼にいっぱい涙を溜めていたっけ。
昔のことを思い出していたんだろうな。
「私にとってシンハは、父であり母であり、唯一の友でもあり……幼い子供が、安心してすがることの出来るすべてだったのだ……。
彼が子守りをしてくれたお陰で、私はあの冷たい宮殿の中でも、何とか生き延びることが出来たのだからね……。
彼と、そうしていられたのは、ほんの五十年ほどだったけれど……。
それが……十四年前になるのか、久しぶりにダイアデムに会うことになり、様々な出来事があって……ようやく、こうして、伴侶として暮らせるようになったというわけさ。
ああ、いけない、せっかくの料理が冷めてしまうね、食べながら話そう。
頂くよ、タィフィン」
給仕をしていいかどうか、困った様子のタィフィンにサマエル様は気づき、ナイフとフォークを取り上げた。
僕も、それにならう。
「あ、そうですね、じゃあ、頂きます。
うん、今日も美味しいよ、タィフィン」
「いつもながら、素晴らしい料理だ」
「ありがとうございます」
タィフィンは、にっこりした。
僕が呪いを解いてからは、当然だけど、彼女はいつも、姿を現しているようになっていた。
食事をしているサマエル様は、いつもと変わらなかったけど、その表情は、かなり明るくなったみたいな感じがした。
子供の頃からそんなに辛い思いばかりしてたんじゃ、たしかに絶望しちゃって暗くもなるよね……。
そう考えると、僕はやっぱり恵まれてるんだ。
たった七歳まででも、幸せに暮らした記憶があるもんね。
ただ、お父さんとお母さんのことを思い出すと、まだ心は痛むけど……。
サマエル様にもダイアデムにも、楽しかった思い出はあんまりないんだな。
「でも……」
食べながら考えていたら、つい口に出てしまった。
サマエル様の手が止まる。
「何だね?」
「あ、違います、いいんです……独り言ですから」
「言ってみてくれないか?
キミの言葉は、私にとって導きの灯りのような、そんな気がするから」
「僕の言葉なんて、そんな大層なものじゃないですよ。
けど……今思ったんですけどね。
いつまでも、辛かった思い出に浸り込んで泣いてるより、これからのことを……これから、幸せになることを考えた方がいいんじゃないのかなぁ、って……。
死んだ人は帰って来ないし、過去は変えられないけど……未来なら、変えてく余地はいっぱいあるんじゃないかなぁ、って……そう思えて……」
「たしかにキミは幸運の女神だよ、シュネ、私達にとって。
後でフェレスにも教えよう、キミがそう言っていたと……。
キミの言葉は、過去に縛られ、身動きの取れない我々を解放してくれる呪文のようだよ……」
「だから、そんなに、ほめないで下さいってば。
僕は……バカだから、あんまり深刻に考え続けられないんですよ。
それだけなんです」
僕が手を振り回してたら、タィフィンが口を挟んできた。
「そのように卑下なさる必要はございませんわ、シュネ様。
あなた様のお心は、真っ直ぐで、しかも、しなやかでおいでです。
もっと、ご自分を信じて進んでいかれれば、きっと素晴らしい魔法使いにおなりですわ」
「ほ、ほめ過ぎだってば、タィフィン」
僕は、ほっぺたが熱くなって、照れ隠しに頭をかいた。
サマエル様は、優しく微笑んでうなずいてた。
その日、サマエル様は、早くフェレスのそばに帰りたいみたいだったし、僕も眠かったので、授業は休みになった。