~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

11.小夜鳴き鳥の唄(1)

その数日後のことだ。
静かな森の中を、僕が一人で歩いていると、どこからか、美しい小鳥のさえずりが聞こえて来た。
木漏れ日の中、いくら探し回っても、声の主は見つからない。
深い森だから、生い茂った木や葉っぱが、姿を隠してしまっているんだろう。
いい声なのにな……。
がっかりしたとき、僕は目覚めた。

「何だ、夢か……あれ? まだ聞こえる……」
僕は耳を澄ました。
歌声は、外から聞こえて来る。
この歌のせいで、あんな夢を見たんだな。
僕は、静かに窓を開け、バルコニーに出ていってみた。

大きな満月が綺麗な暖かな晩で、月光に煌々(こうこう)と照らし出された中庭は、一度だけ見に行ったことがある屋外劇場の舞台みたいだった。
色とりどりの花が咲き乱れている中に、声の主はいた。
白い月の光に、濡れたように輝く石のベンチに腰掛けて、長い髪をもてあそびながら、澄んだ声で歌っているその人の顔は、陰になって見えない。

こんな夜中に、誰だろう。お客さんが来てるって話も聞いてないけど。
でも、とってもイイ声だなぁ……。
僕は、本物の舞台を見ている気分になって、心に染み入る美しい歌声に、うっとりと聞きほれてしまっていた。

どれくらい経ったのだろう。
月が少し傾き始めた頃、ふと手を止めて顔を上げ、その人は立ち上がった。
夜目にも細いシルエット。
柔らかな光に浮かび上がったのは、僕よりもいくつか年上の、美しい女性だった。
紫がかった紅い髪をかき上げては下ろす、ほっそりとした腕、華奢な指先。
そのたび、彼女の長い髪は、流れる水みたいにサラサラと落ちていくんだ。
自分の歌声に陶酔しているのか、眼を閉じたまま、彼女は歌い続けた。

どこかで会ったことがある感じがする人だった。
でも、どこでだろう?
女性の肌は抜けるように白く、光の加減か青白くさえ見えて、まるで滑らかな陶器で出来ているみたい。
鼻も、すんなりと形がいい。
紅い唇は夜露に濡れたバラの花を思わせ、そこからあふれ出す声は、すらりとした姿には似合わないほど豊かだった。

その時、僕は息をのんだ。女性が眼を開けたからだ。
彼女の眼は、紫がかった紅色。
でも、僕が驚いたのはそのせいじゃない。
その瞳の中には、ダイアデムそっくりな金色の炎が、妖しい美しさを(たた)えてゆらゆらと踊っていたんだ。

思わず僕は、バルコニーから身を乗り出した。
眼を凝らしても、女性の頬には、彼みたいなそばかすは一つもない。
そして、胸元が大きく開いた薄紫色のドレスを着ているから、豊かな胸があるのがはっきり見えた。
うーん、やっぱり……ダイアデムじゃないのかな。
ひょっとして、彼のお姉さん……従姉妹(いとこ)とか?
頭をひねったとき、中庭を挟んだ部屋の窓が、勢いよく開けられた。

「そこにいるのは、フェレスか!?」
サマエル様は叫び、二階のバルコニーから飛び降りた。
ドキッとしたけど、もちろん大丈夫。
彼の背中には翼が生えてる。
サマエル様は、大きな月を背景にして力強く羽ばたき、女性のそばに舞い降りた。

「久しぶりね、サマエル」
女性は、にっこりした。
声もダイアデムそっくりだけど、話し方はやっぱり違う。
「ああ、フェレス……。
こんなに早く会ってくれるなんて……!」
サマエル様の声は震えている。

「意地を張っててごめんなさいね。
でも、わたくし、不安で……」
女性は眼を伏せた。
「いや、それは当然のことだ。
私のように問題の多い男が相手では、お前がためらうのも当たり前だ。
会ってもらえるまで、もっと長くかかると覚悟していたから、うれしいよ。
ああ、フェレス……私の炎の女神……」
サマエル様は女性の足下にひざまずき、ドレスの裾にキスした。

「駄目よ、サマエル。立って。誰かに見られでもしたら……」
彼女は周囲を見回した。
サマエル様は(かぶり)を振った。
「笑いたい者には、笑わせておくさ。
私がお前に夢中なのは、魔界人なら誰でも知っていることだ。
ずっと女性でいてほしいなどと贅沢は言わない、お前がどんな姿をとろうと、構わないから……」

ああ、やっぱり、この人は、“焔の眸”の化身なんだ。
タィフィンが、『四つの姿を持っている』と言っていたし。

「サマエル……本当にいいの? 後悔しない?
わたくしは“石”、あなた達のように、心変わりなんてできない……。
もし、後になって『いらない』なんて言われたら、粉々に砕け散ってしまうわ……」

「バカな! この私が、そんなことを言うわけがないだろう!」
サマエル様は、自分の胸に手を当ててそう言い切った。
でもそれから、ちょっと顔を曇らせる。
「むしろ不安なのは、私の方だ。
また、何か余計なことを言って、お前に愛想を尽かされでもしたら……そう思っただけで、体が震える……。
私は軟弱者だから、タナトスのようにはなれない。
魔界の王にふさわしい、強い心は持っていないのだ。
そう、たとえ、私が継承権を捨てなくとも、お前は私を選ばなかっただろうな……」

女性は、首を横に振った。
「それは違いますわ。
第一あなたは、カオスの貴公子……歴代の魔界王よりも強大な魔力を持ち、魔界最強と(うた)われる、“紅龍軍”を()べる総帥(そうすい)ではありませんか。
そんな風に仰っては……」
サマエル様は肩をすくめた。
「それは皮肉かい?
紅龍軍を手に入れたのも、女性絡みだと知っているのだろう?」

「ふふっ、そうでしたわね。
あまりにあちこちで浮き名を流していらっしゃるから、さすがのわたくしも、すぐには思い出せませんでしたわ、浮気者さん」
ダイアデム……いや、フェレスは、くすくす笑った。
その紫がかった紅い瞳の金の炎が、いたずらっぽく輝くと、少年の面影が(よみがえ)る。

サマエル様は、昔から、かなりモテていたらしい。
彼女は全然気にしていないようだったけど、サマエル様は唇を噛んだ。
「すまない……。こんな私では、やはり……」
「いいえ。あなたがそうなったのも、すべてわたくし達のせい……。
責任は取らなくてはね」

「それは違うのではないか?
母の死はお前とは無関係だし、幼少の頃、私の孤独もシンハが埋めてくれた。
女性の色香に迷うのは、私の不徳の致すところだと思うのだが……」
そのとき、サマエル様は急に彼女の顔を見つめた。
声が、すがるような響きを帯びる。
「それとも母の死も……まさか、お前が……?
そ、そんなはずはないね、違うと言って……いや、正直に言っておくれ、フェレス……」

(えっ、まさか、そんなことまで……!?
いくらなんでもあんまりだ……違うと言ってあげて、ダイアデム。
これじゃ、サマエル様が可哀想過ぎるよ)
僕はぎゅっと手を握り締め、彼女の次の言葉を待ち受けた。

サマエル様の言葉に、フェレスもうつむく。
「信用がないのね。自業自得で、仕方がないことだけど……」
「い、いや、信じられないわけではないよ……。
私に何かを隠すことは、もうやめて欲しいだけだ……」

彼女はぱっと顔を上げた。
その瞳は猫の眼みたいにギラギラと凄味(すごみ)を帯びて光っている。
大きく息を吸い込み、思いつめた表情でフェレスは言った。
「それでは、もし、わたくしが、あなたの母上の死に関与していた、と言ったら……?
あなたは、どうなさるおつもり?」

さっと、サマエル様の顔色が変わる。
でも、それも一瞬のことだった。
すぐに彼は落ち着きを取り戻し、穏やかに答えた。
「たとえ、お前が手を下したとしても、過去のことは過去のこと、私の気持ちは変わらないよ。
前にも誓ったように、昔のことで責めはしない、信じてくれ、フェレス」

サマエル様の答えにびっくりして、僕は口がぽかんと開けてしまった。
僕だったら多分、許せない。きっと、怒って責めてしまうと思う……。

フェレスは、眼を紅く燃え上がらせた。
「──バカ! わたくし達は、魔界王家の守護精霊だったのよ!
もし真実だったら、とっくに告白してるわ、あなたにはもう、何の隠し事もしていない!」
けれど、すぐに辛そうな口調に戻って彼女は言った。
「……でも、悪かったと思ってるわ。
もっとちゃんとした……温かい家庭で育っていれば、あなたは別の人生を歩んでいたかも知れないのに……」

僕は胸をなで下ろし、サマエル様の声も、一層優しくなる。
「疑ってすまなかったね、許しておくれ。
だが、冷静に考えてごらん。
お前が私に何もしなかったとしても、タナトスやベルゼブル陛下が、私を可愛がってくれるわけがない……なぜなら、私を産んだせいで、母上は亡くなったのだから……。
つまり、どう転んでも、私の性格は暗いままだったのさ、フェレス」

「そうね……でもわたくし達、あなたには酷いことばかりして来たような気がして……。
今でも、自分を許せないのよ……」
フェレスは眼を伏せた。

「……そうか。
どうしても責任を取りたいと言うのなら、これから先も、ずっとそばにいてくれないか?
私を幸せにしてくれることが、あまりいい表現ではないが……お前の罪滅ぼしになるのかも知れないよ」
「ええ、サマエル。わたくしを必要として下さるなら、いつまででもご一緒します」
フェレスは、にっこり笑い、優雅にお辞儀をした。

「ありがとう、フェレス……私の美しきアダマスよ……。
そう言ってくれるのを、どんなに待ちわびていたことか……!」
「いえ、わたくしはダイアモンドでは……」
「分かっているよ。
たとえ、お前が道端の名もなき石だとしても、私にとっては何者にも代えがたい、至上の宝だ。
やっと、やっと、手に入れた……」
サマエル様は、彼女の、ユリのように白い手をそっと取った。
まるで、また拒絶されてしまうのではないかと怯えてるみたいに。
でも、フェレスは、嫌がったり逃げたりせず、うるんだ瞳で彼を見上げている。

「天界人でさえ魂を奪われ魅了される、類希な美しさを持つお前……。
“黄金の箱の主、王の杖、魔界の王冠、貴石の王”……数多(あまた)の名を持つ魔界の至宝、“焔の眸”よ……。
そのお前を独り占めする責めは、すべて私が負う、だから……」
サマエル様は彼女を優しく抱き寄せ、二人の顔が近づく。
フェレスは静かに眼をつぶり、もうすぐ唇が触れ合うというとき、サマエル様が、すっと手を振った。

その途端、黒い雲が月を覆い隠し、辺りが真っ暗になった。
思わず声を上げそうになった僕は、口を押さえて部屋に戻り、そっと窓を閉めてベッドに座り込んだ。
(はー、びっくりした……)
心臓はまだドキついてる。
フェレスはともかく、サマエル様は、僕が見てるのに気づいていたらしい。

(夜目が利くから、暗くても見えるんだけど、二人の邪魔はしたくないし。
これでハッピーエンドだな。
けど、僕、このままここにいたら、お邪魔虫になっちゃう。
それに、ケジメはつけなくちゃいけないよね、やっぱり……)
僕は窓に背を向け、ひざを抱えて考え込んだ。

アダマス adamas
 「征服しがたい」という意味のギリシャ語。ダイアモンドの語源。
 a(否定辞)+damazein(征服する)