~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

10.緑柱石の貴婦人(2)

何が起こったか分からず、あたふたしていた僕は、ようやく光が消えて、タィフィンの姿が再び現れたとき、息が止まりそうになった。
「あっ、タ、タィフィン、キミ、か、顔がっ!?」
「──顔!? わたくしの顔が、どうかしたのですか?」
彼女は、自分の頬に両手を当てた。

「ちょ、ちょっと待って、タィフィン……た、たしかここに……あった。
とにかく、これで見てごらんよ。キミ、ものすごく変わっちゃってるから」
僕は、机の引き出しを探って見つけ出した手鏡を、彼女に渡した。
「え、わたくしの、何が変わったと仰るのですか?」
タィフィンは、きょとんとした顔で鏡を受け取る。

「きゃっ!?」
顔が映った途端、彼女は小さく悲鳴を上げ、鏡を落とした。
それから、大慌てで拾い上げ、もう一度覗き込む。
「な、何、これ……一体、誰? ……も、もしかして、わたくしなの……!?
う、嘘……!」
しばらくの間、タィフィンは、鏡を見ながら、頬っぺたをなでたり引っ張ったり、ピタピタとたたいたりしていた。

「あのね、タィフィン、変わったのは顔だけじゃないんだよ。
でっかい鏡に、体全部映してみたら?」
「えっ、まさか……体もですか!?
──カンジュア!」
彼女は、大急ぎで呪文を唱え、大きな鏡を呼び出した。

髪は白く、結い方も地味……そこは変わらない。
でも、顔中にあったしわや染みは全部消えているし、曲がっていた腰はしゃんと伸びて少し背が高くなり、ローブから見えている手の指も、すべすべになっている。
その背中には、妖精のような透明な羽が虹色に輝いていた。
鏡に映っているのは、さっきまでの、よぼよぼのおばあさんじゃなかった。
美人とまではいかないけど、そこそこ可愛い、十代の女の子だったんだ。

自分の顔、そして全身をよくよく眺め、やっと納得が行くと、タィフィンの黒い瞳が喜びに輝いて、涙があふれ出した。
「わたくしに掛けられていた呪縛……天使の呪いが、ついに解けたのですね……!
ああ、シュネ様!」
「──わっ……!?」
いきなり彼女に抱きつかれて、僕は尻もちをついた。

「ありがとうございます、ありがとうございます、シュネ様……!
わあああん……!」
タィフィンは、僕に抱きついたまま、大声で泣き出した。
「よかったね、タィフィン……よかった……」
彼女の涙につられて、僕の眼からも涙が流れていく。

そのとき、サマエル様の心の声が、優しく語りかけてきた。
“それがキミの力だ……破壊や死をもたらすだけではなく、上手に導くことが出来れば、そんな風に、人を幸せにすることもできるのだよ”
「ホ、ホントに……? 僕の力で人が幸せに……?」
“そうだよ、キミの力でだ”

サマエル様と話している僕を、タィフィンがうっとりと見つめていた。
「素晴らしいお力ですわ……さすがは“レディ・オヴ・ベリル”様……」
「え、何、それ?」
僕が首をかしげると、サマエル様が教えてくれた。
“『エメラルドの貴婦人』と言う意味だよ。
魔界ではよく、そういう称号をつけて人を呼ぶのだ。
キミの力は、エメラルド色の龍の姿をしているからね”

「たしかに、僕の力が暴れるとき、緑色の龍みたいに見えるけど……貴婦人、なんてガラじゃないですよ、サマエル様……」
“そんなことはないさ。だが、無理は禁物だ、もうお休み、シュネ。
タィフィンの呪いを解くために、かなりの魔力を使ったはずだからね。
明日の朝、私の部屋に来てくれないか? 渡したいものがあるから”
「はい、分かりました。お休みなさい」
“お休み”

僕がサマエル様と話し終わると、タィフィンは立ち上がり、うやうやしくお辞儀をした。
「レディ・ベリル様、改めてお礼申し上げます。
このご恩は一生忘れません、ありがとうございました!」
「べ、別に……僕はただ、キミが十七歳で、普通の……そう、人間の女の子だったら、どんな風かなーって勝手に想像したら、なんか勝手に魔法が発動しちゃって、たまたまそれがうまくいっただけだから……。
そ、それに、その言い方はやめてよ。
『ベリル』って僕の本名だし、そう呼ばれるの、好きじゃないんだ、悪いけど」

「それは存じませんで、失礼致しました、申し訳ありません、シュネ様……」
タィフィンは、またていねいに頭を下げた。
「そ、そんなに気にしなくていいよ、やめてくれれば」
「ですが、重ねてお礼は申し上げさせて頂きます、ありがとうございました!
わたくしが欲しかったのは、まさしく、普通の少女の姿だったのです!
うれしくてうれしくて、一晩中、鏡の前で踊っていたいほどです、何て素晴らしいのでしょう……!
今日ほど、生きていてよかったと思えた日は、ございませんわ……!」
彼女は涙ぐんだ。

「そっか。とにかく、よかったね、ホントに」
僕のまぐれが、こんなに喜んでもらえるなんて。
タィフィンの喜びにあふれる心が伝わってきて、僕は久しぶりに、とってもハッピーな
気分になれた。
その後も、彼女は、何度も鏡を覗き込んだり、しわが消えたのを触って確かめたりしてはうれしそうにしていた。
けど、しばらくして、僕がにこにこしながら見ているのに気づくと、ぽっと顔を紅くした。

「す、すみません、一人ではしゃいでしまいまして。
シュネ様、お疲れでしょう、今日は本当に、もうお休みになられた方がよろしいですよ」
「うん。あ、ホントだ……もう、体に力が入らないや……」
気づいたら、疲れ切っていて、立っているのもやっとだった。
「大丈夫ですか、シュネ様」
そんな僕の手を取り、タィフィンは、ベッドまで連れて行ってくれた。

布団をかけてもらって、ほっとした途端、僕は気づいた。
「あ、そういえば、サマエル様に、話し合いがどうなったのか、聞くの忘れちゃったな……」
でも、さっき、念話したとき、サマエル様は、何となく幸せそうだった。
そうだ、いつもよりも、声が弾んでいた。
きっと、うまく行ったんじゃないだろうか。

でも、僕とサマエル様の会話の内容を知らないタィフィンは言った。
「昔から“焔の眸”様は、王権の象徴であると同時に、不吉の象徴とも言われていまして。
『不必要に関われば、魔界の統治者にさえ不幸が降りかかる』とも言い伝えられてきました……。
そういうこともあって、ダイアデム様は、お館様とも距離を置こうとなさっているのではないでしょうか……」

「ふうん、そうなの……でも、少しだけなら分かる気がするな……。
僕も、ついさっきまでは、自分を……おぞましい、バケモノみたいに感じてたから……」
「シュネ様、そんな……」
黒い瞳を(かげ)らせるタィフィンに、僕はにっこり微笑みかけた。
「ああ、今は違うよ。キミのお陰だ、ありがとう、タィフィン」
「え? わたくしが、何を致しましたのでしょうか?」
タィフィンは眼を見開いた。

「キミが、僕のまぐれを、とっても喜んでくれたからだよ。
この力を使って、ただ壊すことだけじゃなく、人に喜んでもらえるようなこともできるなら、僕の生きてる意味も少しはあるかな……って、思えて来たのさ」
僕は、元々単純なせいか、喜びに眼を輝かせて、僕を崇拝の眼差しで見てるタィフィンのお陰で、立ち直りのきっかけをつかむことが出来たんだ。

僕の言葉に、彼女は、にっこりした。
とても可愛らしい笑顔だった。
「お役に立てて光栄でございます。
ほんの少しでも、ご恩返しになったでしょうか?」
「うん、とっても役に立ったよ。
それにさ、さっき話したとき、サマエル様の声、とっても明るかったんだ。
きっと、ダイアデムと仲直り出来たんだよ」

「まあ、そうですか、よかった!
でも、もうお休み下さいませ、明日は、もっともっと素敵な日になりそうな予感がしますわ」
彼女は、眼をキラキラさせてる。
「うん、そうだね……きっと……すごく、いい……日……」
その眼に吸い込まれるように、いつの間にか僕は眠り込んでいた。
とても安らかな眠りに。
それまで毎日見ていた悪夢は、今夜は訪れては来なかった。

次の日、僕は、かなり早くに眼が覚めた。
起きてみると、まだちょっとふらつく感じが残ってる。
昨日はやっぱり、思っていた以上に魔力を使ったみたいだった。
なるべくゆっくりと、ベッドから降りたんだけど、やっぱり頭がふらふらする。
タィフィンを呼び出そうとして、僕は思い留まった。
昨夜のあの様子じゃ、彼女は夜遅くまでずっと、鏡を覗いていたに決まっている……僕なら絶対、そうするもの。
そしたら、当然、まだぐっすり眠ってるはず。起こすのは可哀想だ。

あ、そういえば、サマエル様に呼ばれてたんだっけ……でも、この時間じゃ、彼もまだ寝てるな、きっと。
久しぶりに会うんだし、顔くらい洗いたいな……そう思ったけど、この調子からいくと、魔力はまだ戻ってないみたいだった。
無理をしないことにして、そろそろと壁を伝いながら歩き、僕はバスルームに向かった。
ありがたいことに、ドアにたどり着いた頃には、ふらつきは治まっていた。
頭を振ってみたけど、もう何ともない。僕は胸をなで下ろした。

「よかった。あ、じゃあ、まだ時間も早いし、ついでにお風呂入ろっと」
ここんところ体力がなくて、魔法で綺麗にしてもらっていたから、たまには入浴して、さっぱりしたかったんだ。
「──やっほう!」
裸になって豪華な湯船に飛び込むと、水しぶきが上がり、湯気がもうもうと上がる。

僕は、湯船の中をばしゃばしゃ泳いだ。
ちょっとお行儀が悪いけど、誰も見てないし、構わないよね。
でも、はしゃいでばかりもいられないし、のぼせちゃう。
僕は、掛け流しの温泉にゆったりと漬かり、生き返った気分になった。

「……あれ……?」
湯船から上がり、体を洗い始めたとき、僕は左肩に、紅い(あざ)が戻って来ていることに気づいた。
でも、それは、幼い頃見慣れていた痣とはまるっきり形が変わってしまって、燃え上がる炎のような形になっていたんだ。

「前は、こんな形じゃなかったのに、何で……あ!?」
目線を下ろしたとき、僕はまた、はっとした。
「む、胸……が」
触ってみたら、やっぱりある。
昨日までぺったんこだったのに、かなり大きくなってるみたい……って、これは一体、どういうことなんだろう。

「な、何か変だぞ、僕の体。何が起きてるんだ!?」
大急ぎでお湯をかぶって石けんを洗い流し、裸のまま、僕は脱衣所の鏡に突進する。
「──な、何だよ、これぇ……!?」
そこに映ってるものを見た僕は、思わず絶叫してしまった。
ほっぺたをつねってみたけど、夢じゃない。
「ぼ、僕、い、一体全体、どうなっちゃったんだあ……!?」
自分の眼が信じられず、僕は頭を抱えた。
僕の体は、何から何まで……それこそ、劇的に変化してしまっていたんだ。