10.緑柱石の貴婦人(1)
サマエル様達が話し合いに行ってから、数日が過ぎた。
僕は、ようやくベッドから出て、部屋を歩き回れるようになった。
「かなりお元気になられましたね。
シュネ様に魔力をお分けしたとき、お館様のお力が完全でいらっしゃったなら、ご回復も、もっとお早かったと思うのですけれど……ワルプルギスの後でしたからねぇ」
「えっ!?」
見えない使い魔、タィフィンにそう言われて初めて、僕は、倒れたとき魔力をくれたのがサマエル様だった、ということに気づいた。
「そ、そっか、僕って、ホント、バカだ。
あのとき、サマエル様は疲れ切ってて、その上シンハと喧嘩して、ケガもしてた……それでも頑張って僕を助けてくれたのに、僕ったら、死にたいなんて、泣きついちゃったんだ……」
多分、僕の七歳の誕生日にも、同じ事が起こったんだろう。
サマエル様の言うように、僕を助けたせいでお母さんは弱って、そして……。
改めて思うと、サマエル様と、記憶の中のお母さんは、雰囲気がとても似ているような気がする。
だから、考え方も似ていて、おんなじことをしたんじゃないだろうか……。
でも、サマエル様が助かって、本当によかった。
後は、ダイアデムとうまくいってくれればいいな……。
「ね、タィフィン、サマエル様達は、どう?
話し合いはうまくいってるの?」
ベッドに座って僕が訊くと、一瞬黙り込んで、使い魔は答えた。
「お話し合いは、一旦休止されていらっしゃるようです。
わたくしも詳しくは存じませんが、お二方の間には、とても複雑なご事情がおありになるようでございます。
それで、時間がかかっておられるのでしょう」
「もし、またワルプルギスの時みたいになっちゃって、止める人もいなかったら……。
だって、人間の僕は、彼らほど長生き出来ないもの……」
シンハの激しい怒りを思い出し、僕は思わず身震いした。
そしたら、肩に手が置かれた感触がした。
「シュネ様、心配はご無用ですよ」
「……タィフィン?」
眼を凝らしても、やっぱり何も見えない。
この使い魔の姿を見てみたい、僕は初めて強くそう思った。
何かにすがりたい気分になってたのかも知れない。
「シュネ様がいらしてから、ダイアデム様は、以前のように地下室でばかりお過ごしになるようなことは減りましたし。
お館様も、ダイアデム様がお優しくなったとお喜びになり、シュネ様のことを『幸運の女神』と仰っておいでだったくらいです」
「そうだったの。こんな僕でも二人の役に立ってたんだ、よかった……!
じゃあ、希望があるよね、僕、ずっとこのまんまじゃないかって心配になって……」
「魔族には時間がございますもの。何万年かかっても、お二方ならば……」
「そうだよね」
僕がうなずいた時、聞き覚えのある声が聞こえて来た。
“具合ハドウダ、しゅね”
ドアが開き、入って来たのは、銀色の毛並みをした大きな狼だった。
「ケルベロス! 来てくれたんだ!」
「彼はずっと、お館様とあなたの心配ばかりしていたのですよ」
“ソウダ、居テモ立ッテモ、居ラレナカッタ。
彼女ハ元気ニナッタヨウダガ、オ館様ノゴ様子ハ、
ケルベロスは、遠慮するように入り口近くで、尋ねた。
「心配ないわ。お館様は、お休み中だから会えないけれど」
タィフィンの声が答えた。
「ここにおいでよ、ケルベロス。せっかく来てくれたんだし」
手招きすると、狼は尻尾を振りながらベッドに近づいて来て、僕の顔をなめ回した。
“しゅね、心配シタゾ!”
「く、くすぐったいよ、ケルベロス」
銀色の毛並みをなでていくうちに、心が
「動物に触れると癒されますよね、シュネ様」
僕の心を読んだみたいに、透明な使い魔が言った。
たしかに、彼と一緒にいると、何だかほっとする。
彼は、普通の犬と違って臭くない。
毛並みもすごく綺麗で、ふさふさ。
きっと、魔法で体を洗えるからだろう。
“我ノ魔力モ少シ分ケテヤロウ、マタ外ヘモ出ラレルヨウニ”
ケルベロスは、僕のおでこに鼻をつけた。
「いいよ、大丈夫だから……」
そう言ったときにはもう、何か温かいものが僕に流れ込んで来ていた。
「少しでいいわよ、ケルベロス。
シュネ様は順調に回復なさっているし、わたしも時々、お分けしているから」
「えっ、タィフィン、キミも……?」
「ええ、あなた様は、お一人ではないのですよ。
ですから、お命を粗末になさるようなことだけは……」
「うん、分かったよ。ありがとう、タィフィン、ケルベロス。
僕もう、絶対、死のうなんてしないから」
「さ、ケルベロス、シュネ様は、お休みの時間だから、帰りなさい。
お館様がお目覚めになったら、すぐに教えるから」
“デハ、帰ルトシヨウ。早クヨクナルヨウ、祈ッテイルゾ、しゅね”
「うん、じゃあね、ケルベロス。また来て」
“サラバダ”
狼は部屋を出て行き、その後ろで、自然とドアが閉まった。
「シュネ様、お召し替えを。お口もおすすぎ下さい」
着替え終って、空中に浮いたコップを手に取りうがいをすると、温められたタオルが、顔を綺麗にふいてくれる。
「ありがとう。すっきりしたよ」
「本当に落ち着かれたご様子で、わたくしも安心致しました」
きっと、ニッコリしながら、言ってるんだろうな。
いつもタィフィンは、そんな感じの声で言う。
多分、女の子なんだろうな、とは思うんだけど……。
見えないから、よく分からない。
ここら辺にいるんだろうと見当をつけて、僕は、使い魔に話しかけた。
「ねぇ、タィフィン、訊いてもいい?」
「はい、何でございましょうか」
「キミは、女の子なんだよね?」
「……はい、一応、女でございます。
でなければ、お館様が、若い女性のお世話をするようにと、お言いつけになるはずがございませんでしょう」
「じゃ、もう一つ、聞いていい?
ずっと気になってたんだけど、キミは、どうしていつも透明なの?
もしかして、体がないの?」
そしたら、タィフィンは、言葉をなくしたみたいに黙り込んでしまった。
「あ、ご、ごめん、僕、何か悪いこと聞いちゃった?」
「いいえ……わたくしはとても醜いので、人前には出たくないのです……皆様がご気分を悪くなさると思いますので……」
いつも明るい彼女の声がすごく暗くなり、僕は、自分の軽率さを悔やんだ。
「ごめんね、タィフィン。僕って、余計なことばっかり言ってる、ひどいヤツだね。
知らない間に、他の人を傷つけてるんだ……」
「いいえ、シュネ様は、お優しい方ですよ。
本当にひどい人なら、他人を傷つけても、気にも止めないでしょうから」
「……そう、かな」
「ええ、わたくしは幸せ者です。
お館様を始め、奥方様もシュネ様も、お仕えするのは皆、お優しい方ばかりで。
ですから、シュネ様。お館様のお振る舞いを、責めないで差し上げて下さいませ」
「え、どうして責めるの?」
僕は首をかしげたけど、すぐに気づいた。
「……ああ、一緒に死んじゃおうとしたことなら、気にしてないよ。
サマエル様は優し過ぎるんだ。
それに、ダイアデムも、何だかんだ言っても、優しいよね」
「ええ、そうですね。以前わたくしが誤って、ダイアデム様にぶつかってしまったとき、怒るどころか優しく、ケガはないかと声をかけて、お手を差し出して下さって……。
まるで、わたくしの姿がお見えになっているようでした。
お尋ねすると、やはり『悪い、見えてる』と……。
『では、お館様も、この醜い姿をご覧になっているのですね』と泣きそうになったわたくしに、ダイアデム様は、『心配しなくてもあいつには見えてない、と言うより、キミが見られたくないと思っているのを知ってるから、見ないようにしてる。
けど、オレには、ンな器用なことは出来ないから謝ってるんだ』と仰って下さいました」
「そっか、やっぱ優しいね。
……それで、もし嫌じゃなかったら、姿を見せてくれない?
顔は隠してていいから」
僕が話を蒸し返すと、彼女は言葉に詰まった。
「えっ……」
僕は慌てて、手を振り回した。
「あっ、もちろん、無理にってわけじゃないよ。
なんか、キミ、僕と同じ年頃みたいだから、友達になれないかなぁ、なんて思って……」
すると、のろのろとした答えが返って来た。
「……わたくしは……身分の低い、使い魔でございます……友人などと……」
「それは昔の話でしょ? 身分なんて、今は関係ないじゃない」
「ですが……」
彼女は、まだためらっている。
そこで、僕は、今の気持ちを説明することにした。
「あのね……何だか僕、急に淋しくなっちゃったんだ。
サマエル様にはダイアデムがいるし、ケルベロスにだって家族や仲間がいる。
でも、僕は一人ぼっち……。
ねぇ、包帯で隠してるとか、後ろ向いててもいいから、今だけそばにいて。
お願い」
手を合わせて一生懸命頼んでも、タィフィンはしばらく黙っていた。
諦めかけた頃、何の前触れもなく、灰色のローブのフードをすっぽりとかぶった小柄な姿が、目の前に現れた。
でも、気味の悪いモンスターとか、怖そうな怪物って感じじゃなく、背も僕と同じくらいで、人間や、普通の魔族と大して変わりないみたいだった。
隠してていいと言ったのに、彼女はゆっくりとフードを外す。
中から現れたのは、上品に白い髪を束ねた、しわ深い顔。
タィフィンは、染みだらけで、しわくちゃで、腰も曲がってる、おばあさんだったんだ。
「キミがタィフィン? 僕、もっと若いのかと思ってた……」
すると、彼女は悲しそうに答えた。
「わたくしの年は、一万六千五百十歳です。人間なら十七歳くらいでしょうか。
実は、わたくしは天使の呪いにより、生まれつき、この姿なのです」
「えっ、天使の呪い……?」
「はい。昔、天使にさらわれそうになった姉を父が守ったとき、その腹いせに、天使は、身重だった母に呪いをかけたのです。
父は呪いを解こうとし、サマエル様にもおすがりしたのですが、天界の魔法は、魔族のものとは系統が異なるため、駄目でした。
ですから、わたくしは……ずっとこんな醜い、老婆のまま……寿命が尽きるまで……」
彼女の黒い瞳が、涙でうるむ。
その眼から覗くタィフィンの心……それはたしかに、若い女の子だった。
「そうだったの。ごめんね、無理に頼んじゃって……」
僕はうなだれた。
彼女は首を横に振った。
「いいえ。お陰で、使い魔として選んで頂いたときも、あまりやっかみは受けませんでしたし。
こんな姿を憐れんで下さったのだと、皆、思ったのです。
でも、お館様は『選んだのは同情からではない。気立てがよくて、よく働いてくれそうだからだよ』と……。
わたくしは、涙が止まりませんでした……」
「そっか……」
タィフィンも苦労したんだな。
でも、天使って、マジに、想像してたのとは真逆な存在だって改めて思う。
僕は、彼女を慰めたくて、そっと頬に触れた。
「シュネ様……」
彼女は、涙で光る眼で僕を見上げた。
手が伝える感触は、やっぱりしわしわの、お年寄りの皮膚。
けれど、その時、突然、僕の手が淡く光り出したかと思うと、タィフィンの全身を眩しい光が覆った。