9.名前無き者(4)
「……一人では死なせない。私もすぐ後を追うから。
そのために、この剣を出したのだよ……」
サマエルは、つぶやくように言った。
「ええっ、だ、駄目です、そんな!」
“焔の眸”の化身は叫ぶ。
「暴れないで、痛い思いをするよ……む?」
もがく少年を押さえつけたサマエルは、そのとき、驚きに眼を見張った。
何をしてもふさがらなかったこの化身の傷が、部分的に治りかかっていたのだ。
頭をひねったのも、わずかの時間だった。
彼はすぐに、それらがすべて自分の触れた場所だということに思い至った。
夢魔であるサマエルは、不用意に女性を
だが、直接肌が触れればどうしても、彼の精気は相手に影響を及ぼす。
ひょっとして、それがいい方向に作用したのではないか。
「そうか、やはり、血では強過ぎたのだな、今度こそ!」
「あっ!?」
王子は、いきなり、少年のやせた体を抱き上げた。
そして、最後の望みを賭けて再び口づけると、思いの
化身は振りほどこうとするものの、拘束された体は、抵抗するには不向きだった。
“いけません、あなたも弱っておいでなのに……”
少年が黒曜石の涙をこぼした刹那、その体が紅い輝きに包まれ、虚を突かれたサマエルは、思わず唇を離す。
「もう精気は不要です、サマエル様」
光が消えた回廊には、名無しの化身が、王子の手を離れて立ち上がっていた。
全身を覆っていた痛ましい傷はすべて消え、潰された眼も回復し、本体と同じく、紅の中に黄金色の炎が美しく
そして、少年は、長きに渡っておのれを拘束していた枷を無造作に外し、床に投げ捨てた。
刹那、枷は崩れて砂鉄の山となり、一陣の風に運ばれて、窓の外へと消えていく。
その様子は、つい先ほど、ダイアデムが黄金の装身具を捨て去ったときとそっくりだった。
「ようやく僕は解放されました。これもサマエル様のお陰です、ありがとうございました」
少年は、深く頭を下げた。
サマエルは眼を伏せ、かぶりを振った。
「いや、私は、自分の望みを叶えるためにやっただけだ……感謝する必要はないよ」
「いいえ、どんな理由からでも、あなた様が恩人だということには変わりがありません」
「そうだ、服を着た方がいいな。
──ストーラ!」
はぐらかすように、王子は呪文を唱える。
「ああ……」
回廊の壁にかけられた、巨大な装飾鏡に映る自分の姿に、化身の眼は釘付けとなった。
もつれていた黒髪はきちんと整えられ、白いシルクの襟つきシャツと、黒いベルベットのベスト、同素材の、七分丈で裾が絞られたズボンを身につけ、足には白いハイソックスと、柔らかい羊革の黒い靴を履いている。
そのどれもが、少年の貴族的な風貌を引き立てていた。
「さすがは魔界の至宝、気品のある服装が似合うね」
サマエルも眼を細めた。
それには答えず、鏡を凝視していた最後の化身は、頭を抱えた。
「ああ……どんどん記憶が
今まで、昔のことはあまり思い出せなくて……」
「辛い記憶だし、仕方がないよ」
サマエルが慰めると、少年は否定の身振りをした。
「いえ、そうではなく……僕は、昔、氷剣公爵家の三男……だったんです……」
魔族の王子は、紅い眼を見張った。
「えっ、では、お前も、元は生きていたのか?」
少年は、悲しげな顔でうなずく。
「ええ。僕も、昔はちゃんとした生き物でした……。
でも、ある日突然、
「あの男……ああ、魔界王ベリアルの弟だね? 名前は知らないが。
そいつが、なぜ、お前を?」
訊かれた化身は、伏目がちに首を横に振った。
「名前は……僕も、覚えていません。
でも、あの男は……気に入った少年を密かに捕えては、酷いことをしたあげく殺していたんです。僕も入れて、十三人」
「十三人!?」
サマエルは思わず声を上げた。
「まさか、お前の前に殺された化身達というのは……!?」
少年は、こくんとうなずく。
「ええ、全員、僕と同じように、生きていた子達でした。
でも、召使いやお
それに、“焔の眸”の盗難事件で、汎魔殿は大騒ぎでしたから……」
「なるほど。現魔界王の弟が誘拐犯だなんて、誰も思わないからね。
まったく……恥ずかしいよ、魔界王家にそんな男がいたなんて!」
魔族の王子は、端正な顔をしかめた。
少年は、辛そうに話を続ける。
「あの日、いきなり殴られて、気づいたときには、暗くて寒い地下室にいました……。
恐ろしい道具がいっぱいあり、嫌な臭いがして、死体や骨がごろごろしてて……。
縛られた手が痛いのと、何より、怖くて泣いていると、檻の中のライオンが話しかけて来て、慰めてくれたんです」
「シンハだね」
「はい。……それから、僕は……あの男に、色々……酷いことをされて……。
そして……もう死ぬんだな、って思ったとき……。
あの男は、シンハに命じました、『魔力をすべて奪い、姿を盗め』と。
シンハが嫌がったら、男はものすごく怒って、鞭を振り回したり、剣で斬りつけたり……。
僕は、シンハが可哀想になって、『どうせ、僕はもう死ぬんだから、そうして』と言ったんです……。
でも、それが、長い長い苦しみの始まりになるなんて、そのときは、思いもしませんでした……」
“焔の眸”の化身を作り出す方法には、二種類ある。
一つは、魔力の強い者が思いを込めて念を送り、新しい姿を形作らせる方法。
そして、もう一つは、“焔の眸”自身が、相手の魔力をすべて吸い取ることで、姿形、思考形態や記憶までもそっくり写し取り、複製を作り出す方法だった。
後者の場合、魔力を奪われた元の生物は、当然死んでしまう。
サマエルは、歯を食いしばり、紅い瞳に、暗い炎を燃え上がらせた。
「……酷い話だね。
もし、その男が今も生きていたら、私がこの手で、八つ裂きにしてやったのに!
ベリアル王の気持がよく分かるよ……!」
「ええ、ベリアル様も、出来心で“焔の眸”を盗んだだけなら、許してやったと仰ってました。
でも、あれが弟だなどとは、
サマエルも、当時のベリアル王同様、抑えがたい怒りを感じていた。
だが、それはもう、遥かな過去に終わってしまったことだった。
彼は心を落ち着かせ、瞳の炎を消して、少年にねぎらいの言葉をかけた。
「お前も大変だったね。
だが……頑張って生きていれば、ちゃんと良いこともあるのだな……」
言葉の最後は、自分に言い聞かせるように。
少年は、心からの笑みを浮かべ、同意した。
「そうですね。本当に、生きてて良かった……」
「それはさて置き、お前のことを教えておくれ。本当の名前は何と言うのかな?」
改めて尋ねられた化身は、困った顔をして額に手を当てた。
「……すみません、思い出せないんです。
記憶が所々、抜け落ちているような感じで……。
ずっとずっと、生きていることを……自分の存在を呪ってきましたから、そのせいかも知れません……」
「そうか、では、無理しなくていいよ。
お前が生きていた頃から、もう五十万年以上経ったのだしね。
氷剣公爵家はまだ存続しているから、いつか魔界に行く機会があったら、今の公爵、プロケルや息子のカッツに会わせてあげよう。
同族に会えば、自然と思い出すかもしれない」
サマエルは微笑んだ。
「いえ、もう思い出さなくてもいいんです」
少年は首を横に振り、そして真剣な眼差しを彼に注ぐ。
「それより、もしよかったら、僕の名付け親になって頂けませんか?
今日が、僕の新しい誕生の日ですから……」
「私が名前を?」
王子は首をかしげた。
「はい。……駄目でしょうか」
「いや、私でよければ考えるよ」
「よろしくお願いしま……」
お辞儀をしようとした化身は、ふらりと倒れかかった。
「危ない」
間一髪、サマエルは少年を支えたが、彼はぐったりと体を預けたままだった。
「大丈夫か? まだ具合が……?」
「いえ、そうではなくて……済みません、僕は……僕らは、疲れました。
少し、休んでもよろしいでしょうか……?」
かすれた声で尋ね、黒髪の少年の体は紅く輝き始める。
「あ、まだ行かないでくれ、“ゼーン”!」
無意識に、サマエルは、その名を叫んでいた。
「“ゼーン”……それが、僕の新しい名前、ですか……?」
光の中から、問いかける少年の声がする。
「……え?」
王子は一瞬困惑し、それから答えた。
「あ……ああ、そうだ。“生きる”という意味だよ」
「生きる……?」
「そうだよ、私と共に生きてくれ、ゼーン!」
王子は、願いを込めて呼びかける。
「いい名前ですね……ありがとうございます……。
でも……時間を下さい……ほんの少し……」
声の
大人の握り拳二つ分もある巨大な結晶は、おのれの意思で王子の手から浮き上がり、そのまま下へと降りていく。
そして、まるでそこだけが液体で出来てでもいるかのように、硬い大理石の床に、ゆるゆると沈んで行き始めた。
「ま、待っておくれ、“焔の眸”、私との約束は!
忘れたのかい、ダイアデム!
最後の化身を解放出来たら、私の妻になってくれると言ったろう!?」
サマエルは、なりふり構わず床に膝をつき、宝石に手を差し伸べる。
『案ずるでない、ルキフェル。我らは一時、休息を取るのみ。
彼の問いに答えたのは、シンハの声だった。
それを聞いたサマエルは、紅毛と黒髪の少年が寄り添い、猫のように体を丸めて、ぐっすりと眠り込んでいる情景を思い浮かべた。
化身と本体は無関係だと彼らは言っていたが、長年のトラウマから解放されたのだ、やはり調整が必要なのだろうと王子は思った。
「……そうか。シンハ、お前も眠るのか?」
『左様。その間に汝も休んでおくがいい。身心共、疲労
指摘されて初めて、サマエルは、自分が疲れ切っていることに気づいた。
「ああ、そうしよう。お休み、シンハ」
『心よりの謝罪と感謝を汝に、ルキフェル。良き夢を』
そして、“焔の眸”は、床の中に吸い込まれて消えた。
だが、王子の魔眼は、至宝が地下の空洞に浮かび上がり、紅く輝きながら、ゆっくりと回転しているのを見ることが出来た。
いつの間に道連れにしたのか、その下には、黄金の剣が刺さっていた。
眼も
回廊の壁にもたれて、眠り込んでしまいそうになったとき、周囲の様子が変わり、彼は自分のベッドに倒れ込んでいた。
「“焔の眸”が運んでくれたのか。
……ああ、私はついに手に入れた……これからは、何もかも上手くいく……」
これ以上ないほどの幸福感に満たされて、サマエルは一瞬で眠りに落ちた。