~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

9.名前無き者(3)

「ど、どうした、余計に痛みが増したのか!?」
焦ってサマエルが尋ねると、化身は首を横に振り、顔を輝かせた。
「いえ、その逆です。痛みが薄らいで……ああ、信じられない。
痛くない日が来るなんて……!」

「そうか……歴代の王達は、治癒と解放ばかり考えて、痛みを遮断することまでは気が回らなかったのだね。
ともかく、よかった」
サマエルもまた、安堵の笑みを頬に刻んだ。
「はい、痛くないだけで、とても心が安らかです。ありがとうございます」
少年は、うれしそうに頭を下げた。

「さて、次はどうするかだな……」
自分が痛めつけられることには慣れている王子も、(むご)たらしく傷つけられた肉体を直視するのは、正直辛かった。
それでも、彼は、努めて冷静に観察し、何とか打開策を見出そうとした。
だが、両足首は右手同様、くじいているようで腫れ上がっており、枷を外すどころか、苦痛を感じさせずに触れることさえ難しそうだった。

「後は首か……」
王子が何気なく、重そうな首枷に手をかけた途端、少年は悲鳴を上げた。
「──痛っ!」
「す、済まない、大丈夫かい?」
慌てて、サマエルは手を離す。

化身は、辛そうに首を指差した。
「……刺が……」
「刺!?」
王子が首枷の内側に眼をやると、鋭い刺がたくさん植えつけてあり、喉の柔らかい肉に食い込んで血が流れていた。

「な、何て酷いことを……!」
サマエルは、彼にしては珍しく、怒りがふつふつと沸いて来るのを感じた。
一刻も早く楽にしてやりたいと気持ちは(はや)るが、高ぶる感情のままに無理に枷を外そうとすれば、余計に傷つけてしまうだろう。

とりあえず、痛みをとってやり、落ち着こうと頭を振ってみる。
それから、考えを巡らすものの、八方塞(はっぽうふさがり)で打つ手がない。
(これは難題だな……)
さすがのサマエルも、ついには考えあぐねて回廊に座り込んだ。
思わず天を仰いだその時、床についた彼の手に、ちくりと痛みが走った。

「ん……?」
見ると、黒曜石の鋭い欠片(かけら)が指先に触れて、血がにじんでいる。
途端に考えが閃き、サマエルは顔を上げた。
「どうだろう、私の血を飲んでみるというのは」
「えっ、血、ですか?」

「そうだ。
仮に、ベリアル王が予知したのが私なら、“紅龍”である私にしか出来ないことを、すべきではないのではないだろうか。
私の血には、“混沌”の強大な力が宿っているし、お前の(かて)もまた血だ、試してみる価値はある。
うまくいけば、治癒力が回復するかも知れない」

「本当ですか?」
化身は身を乗り出した。
「ああ。傷さえ癒えれば、頚木(くびき)など、自分で壊してしまえるさ。
そうしたら、お前はもう、自由だ」
「自由……」
盲目の少年は、うっとりとした表情になった。

「さほど量は必要ないだろうな。いや、多いと、かえって毒となる可能性もある。
数滴で効果が出ると思うのだが、やってみるかい?」
彼の問いかけに、化身はうなずいた。
「はい。少しでも可能性があるのでしたら、お願いします」

「では……」
魔族の王子は、先ほど自分の指に傷を作った黒曜石の欠片を手に取り、親指に切りつけた。
古代、ナイフとして使われただけあって、その切れ味は鋭く、少しの痛みと引き換えに、指先はざっくりと切れ、その傷口からは、みるみる真紅の血液があふれ出て来る。
「よし、口を開けて」
その言葉に従った少年の色()せた唇に向け、サマエルは血を垂らした。

……一滴、二滴。
もういいだろうと思った時、三滴目が、吸い込まれるように口の中に消えた。
サマエルは、さっと舌で血を()め取って指の傷を消し、尋ねた。
「さて、どうかな? 何か、変わった感じがするかい?」
化身は、小首をかしげて少し考え、それから否定した。
「……いえ、何も」

「そうか。ともかく、一旦様子を見よう。
お前達化身が普段、直接血を飲まないのも、理由があってのことだと思うし、“カオスの力”が、どう作用するのかも未知数だからね」
「はい……」
少年は同意し、王子は彼の様子をうかがったが、何も変化はない。

神経質になり過ぎたか、もう少し飲ませてみようとサマエルが思った、次の瞬間。
「──うわああっ!」
突如、“焔の眸”の化身は絶叫し、床に倒れた。
激しい痙攣(けいれん)が、その身を襲う。
「くっ、苦し、息が出来な……! た、助けて、サマエル様!」

「どうした!?」
サマエルは慌てて、化身に取りすがった。
「く、苦しい! む、胸が、焼け……っ!」
少年は、苦悶の表情で胸を押さえ、激しく身をよじる。
「しまった、拒絶反応か!?」
「く、た、助けてっ!」
苦痛のあまり少年は、回廊を転げ回った。

「今助けるから、じっとして!」
サマエルは、暴れる化身をどうにか取り押さえ、唇を合わせて、先ほど注いだ力を吸い取った。
血の味がする、少しかさつく唇。
しばらくの間、びくびくと動いていた少年の体は、それでも徐々に静まっていった。

大丈夫と見極めがつくと、サマエルは優しく少年を抱き起こし、汗ばんだ額に口づけて、その顔を覗き込んだ。
「どうかな、気分は?」
「は、はい。もう、大丈夫です……」
苦痛を取り去るためとはいえ、夢魔の王子に押さえ込まれ、唇を奪われた少年は、耳まで真っ赤になっていた。

しかし、せっかく、サマエルが力の源である血を分けたというのに、その体は癒えるどころか、今の騒ぎで、かえって傷が広がったようで、さらに多くのヘマタイトが回廊に散乱してしまった。

「……ふうむ。
血の直接摂取は効き目が強過ぎるのか、それとも、最後の一滴が余計だったのか……。
どちらにせよ、済まなかった。お前の傷を、さらに増やしてしまったね……」
サマエルはうなだれた。
「いえ、気にしてません、痛みは消して頂けたし、それに……僕、その……」
まだ顔を紅くしたまま、少年は自分の唇に触れる。

だが、魔族の王子は聞いていなかった。
(また失敗してしまった……自分が役立たずと知っていたはずなのに、何をうぬぼれていたのだろう……。
こうなったら、やはり、死なせてやるしか、救う方法はないのか……。
だがこの化身もまた、“焔の眸”の一部……彼を死なせてしまったら、元の至宝とは、違うものになってしまうのではないか……?)
サマエルは、絶望的な眼差しで、名無しの化身を見つめた。

その視線を受ける盲目の少年は、やせこけた顔に、幸福な微笑みを浮かべていた。
「サマエル様、もう十分です。
今みたいに口づけを……いえ、高望みはしません、ただ殺して頂くだけで、死体は石に……僕の場合は、多分、ヘマタイトかオブシディアンとなって砕け散りますから。
これで、やっと、僕も土に還ることが出来ます……」
心を読まれたようで、サマエルはぎくりとした。
「な、何を言うのだ。駄目だよ、まだ諦めては……!」

「いいえ、サマエル様は、僕を救って下さいました。僕と、僕の前に殺された十二体の化身を。
あの男……ベリアル様の弟は、捕まって処刑されるまで、化身をなぶり殺しにしては新しい生け(にえ)を創り出す、という非道を繰り返していたのです。
そして、僕は、その十三体目……殺害される寸前に、ベリアル様によって助け出されたのでした……。
この体が消えてしまっても、残る化身達は、決してあなた様のご恩を忘れないでしょう、本当に本当に、ありがとうございました」
“焔の眸”の化身は胸に手を当て、深々と頭を下げる。

「──駄目だ!
そんな化身達がいたと聞いては、余計にお前を見捨てるわけにはいかない!
私はお前を死なせない、諦めないでくれ、きっときっと、お前を助ける(すべ)があるから!
お前はもう、私の一部なのだ、愛しているから、死なないでくれ……!」
必死の思いが王子を突き動かし、彼は化身の体を揺さぶった。
「あ、愛している……? こんな僕を……ですか?」
少年はうろたえ、問い返す。

「そうとも! 私は化身のうち、誰が消えるのも嫌だし、お前が消えたら、“焔の眸”は、別のものになってしまうだろう!」
化身は、否定の身振りをした。
「いいえ、それは違います、化身が何個消えたって、本体……“焔の眸”には、何の影響もありません。
サマエル様、僕らは石に宿る精霊、実体はなく、生きてもいません、すべては幻……幻影に過ぎないんですよ」

「ならば、なぜ、お前は、そこまで傷ついている!?」
サマエルは思わず、相手が見えないことも忘れて、指を突きつけた。
「幻なら、傷などつかないはずだろう!?
お前はちゃんと存在している。そして苦しんでいる……なぜか?
それは、お前に心があるからだ。
そして……心がある者は、実体があろうとなかろうと、生きていると言えるのだよ」

「……たしかに、そうかも知れません。
でも、生まれ落ちた瞬間から、何一つ、いいことはありませんでした。
あるのは、ただ、ひたすら続く、苦痛と悲しみだけ……。
なのに、なぜ、これ以上、生き長らえなければならないのですか……?」
宝石の少年は、絞り出すように問いを発した。

「そ、それは……」
自分が、常時感じているのとまったく同じ思い。
それを突きつけられたサマエルは、絶句した。
乾いた唇を舌で湿し、懸命に言葉を探す。
だが、彼自身、死を望む気持を消せないでいるのに、他人の説得など出来るわけがない。
幾度も話し出そうとしたが、結局果たせず、うなだれてしまった。

「……分かったよ。もう、終わりにしてあげよう……」
「ありがとうございます。
やはり、あなた様こそ、僕を解放してくれるお方……」
盲目の化身は、再び王子の顔面を手探りした。

「……解放? こんな終わり方が……救いだと……?」
サマエルは、自分の無力さに打ちのめされていた。
涙を流せるものなら、とっくにそうしていたに違いない。
だが、肉体的にも心理的にも、彼は泣くことが出来ないのだった。

「そんなにご自分を責めないで下さい。
さあ、早く……」
少年の言葉は、ささやくようだった。
「お前には魔法が効かない……苦しめずに死なせてやるには、斬首(ざんしゅ)が一番だろう……」
サマエルは歯を食いしばって息を整え、それから呪文を唱えた。
「──エンサングイン!」

それに応えて出現したのは、妖しい輝きを発する黄金製の巨大な剣だった。
長さは少年の背丈と同じ、幅は広げた掌ほどもある。
王子はそれを、片側の刃を上にして、固定した。
腕にはもはや力が入らず、剣を振り上げることが出来なかったのだ。

「……いくよ」
「はい、よろしくお願いします」
化身は、祈るように指を組み合わせ、首を差し出す。
その後頭部に、王子は震える手を添えた。
このまま力一杯、鋭利な刃に押し付ければ、首を落とせるだろう。

サマエルは、固く眼をつぶった。
「……お別れだ。
もっとお前のことが知りたかったよ、“名前無き者”」
「僕もです。さようなら、サマエル様……」
氷のように冷たく光る刃を喉に当てられた化身もまた、わずかに震えていた。