9.名前無き者(3)
「ど、どうした、余計に痛みが増したのか!?」
焦ってサマエルが尋ねると、化身は首を横に振り、顔を輝かせた。
「いえ、その逆です。痛みが薄らいで……ああ、信じられない。
痛くない日が来るなんて……!」
「そうか……歴代の王達は、治癒と解放ばかり考えて、痛みを遮断することまでは気が回らなかったのだね。
ともかく、よかった」
サマエルもまた、安堵の笑みを頬に刻んだ。
「はい、痛くないだけで、とても心が安らかです。ありがとうございます」
少年は、うれしそうに頭を下げた。
「さて、次はどうするかだな……」
自分が痛めつけられることには慣れている王子も、
それでも、彼は、努めて冷静に観察し、何とか打開策を見出そうとした。
だが、両足首は右手同様、くじいているようで腫れ上がっており、枷を外すどころか、苦痛を感じさせずに触れることさえ難しそうだった。
「後は首か……」
王子が何気なく、重そうな首枷に手をかけた途端、少年は悲鳴を上げた。
「──痛っ!」
「す、済まない、大丈夫かい?」
慌てて、サマエルは手を離す。
化身は、辛そうに首を指差した。
「……刺が……」
「刺!?」
王子が首枷の内側に眼をやると、鋭い刺がたくさん植えつけてあり、喉の柔らかい肉に食い込んで血が流れていた。
「な、何て酷いことを……!」
サマエルは、彼にしては珍しく、怒りがふつふつと沸いて来るのを感じた。
一刻も早く楽にしてやりたいと気持ちは
とりあえず、痛みをとってやり、落ち着こうと頭を振ってみる。
それから、考えを巡らすものの、
(これは難題だな……)
さすがのサマエルも、ついには考えあぐねて回廊に座り込んだ。
思わず天を仰いだその時、床についた彼の手に、ちくりと痛みが走った。
「ん……?」
見ると、黒曜石の鋭い
途端に考えが閃き、サマエルは顔を上げた。
「どうだろう、私の血を飲んでみるというのは」
「えっ、血、ですか?」
「そうだ。
仮に、ベリアル王が予知したのが私なら、“紅龍”である私にしか出来ないことを、すべきではないのではないだろうか。
私の血には、“混沌”の強大な力が宿っているし、お前の
うまくいけば、治癒力が回復するかも知れない」
「本当ですか?」
化身は身を乗り出した。
「ああ。傷さえ癒えれば、
そうしたら、お前はもう、自由だ」
「自由……」
盲目の少年は、うっとりとした表情になった。
「さほど量は必要ないだろうな。いや、多いと、かえって毒となる可能性もある。
数滴で効果が出ると思うのだが、やってみるかい?」
彼の問いかけに、化身はうなずいた。
「はい。少しでも可能性があるのでしたら、お願いします」
「では……」
魔族の王子は、先ほど自分の指に傷を作った黒曜石の欠片を手に取り、親指に切りつけた。
古代、ナイフとして使われただけあって、その切れ味は鋭く、少しの痛みと引き換えに、指先はざっくりと切れ、その傷口からは、みるみる真紅の血液があふれ出て来る。
「よし、口を開けて」
その言葉に従った少年の色
……一滴、二滴。
もういいだろうと思った時、三滴目が、吸い込まれるように口の中に消えた。
サマエルは、さっと舌で血を
「さて、どうかな? 何か、変わった感じがするかい?」
化身は、小首をかしげて少し考え、それから否定した。
「……いえ、何も」
「そうか。ともかく、一旦様子を見よう。
お前達化身が普段、直接血を飲まないのも、理由があってのことだと思うし、“カオスの力”が、どう作用するのかも未知数だからね」
「はい……」
少年は同意し、王子は彼の様子をうかがったが、何も変化はない。
神経質になり過ぎたか、もう少し飲ませてみようとサマエルが思った、次の瞬間。
「──うわああっ!」
突如、“焔の眸”の化身は絶叫し、床に倒れた。
激しい
「くっ、苦し、息が出来な……! た、助けて、サマエル様!」
「どうした!?」
サマエルは慌てて、化身に取りすがった。
「く、苦しい! む、胸が、焼け……っ!」
少年は、苦悶の表情で胸を押さえ、激しく身をよじる。
「しまった、拒絶反応か!?」
「く、た、助けてっ!」
苦痛のあまり少年は、回廊を転げ回った。
「今助けるから、じっとして!」
サマエルは、暴れる化身をどうにか取り押さえ、唇を合わせて、先ほど注いだ力を吸い取った。
血の味がする、少しかさつく唇。
しばらくの間、びくびくと動いていた少年の体は、それでも徐々に静まっていった。
大丈夫と見極めがつくと、サマエルは優しく少年を抱き起こし、汗ばんだ額に口づけて、その顔を覗き込んだ。
「どうかな、気分は?」
「は、はい。もう、大丈夫です……」
苦痛を取り去るためとはいえ、夢魔の王子に押さえ込まれ、唇を奪われた少年は、耳まで真っ赤になっていた。
しかし、せっかく、サマエルが力の源である血を分けたというのに、その体は癒えるどころか、今の騒ぎで、かえって傷が広がったようで、さらに多くのヘマタイトが回廊に散乱してしまった。
「……ふうむ。
血の直接摂取は効き目が強過ぎるのか、それとも、最後の一滴が余計だったのか……。
どちらにせよ、済まなかった。お前の傷を、さらに増やしてしまったね……」
サマエルはうなだれた。
「いえ、気にしてません、痛みは消して頂けたし、それに……僕、その……」
まだ顔を紅くしたまま、少年は自分の唇に触れる。
だが、魔族の王子は聞いていなかった。
(また失敗してしまった……自分が役立たずと知っていたはずなのに、何をうぬぼれていたのだろう……。
こうなったら、やはり、死なせてやるしか、救う方法はないのか……。
だがこの化身もまた、“焔の眸”の一部……彼を死なせてしまったら、元の至宝とは、違うものになってしまうのではないか……?)
サマエルは、絶望的な眼差しで、名無しの化身を見つめた。
その視線を受ける盲目の少年は、やせこけた顔に、幸福な微笑みを浮かべていた。
「サマエル様、もう十分です。
今みたいに口づけを……いえ、高望みはしません、ただ殺して頂くだけで、死体は石に……僕の場合は、多分、ヘマタイトかオブシディアンとなって砕け散りますから。
これで、やっと、僕も土に還ることが出来ます……」
心を読まれたようで、サマエルはぎくりとした。
「な、何を言うのだ。駄目だよ、まだ諦めては……!」
「いいえ、サマエル様は、僕を救って下さいました。僕と、僕の前に殺された十二体の化身を。
あの男……ベリアル様の弟は、捕まって処刑されるまで、化身をなぶり殺しにしては新しい生け
そして、僕は、その十三体目……殺害される寸前に、ベリアル様によって助け出されたのでした……。
この体が消えてしまっても、残る化身達は、決してあなた様のご恩を忘れないでしょう、本当に本当に、ありがとうございました」
“焔の眸”の化身は胸に手を当て、深々と頭を下げる。
「──駄目だ!
そんな化身達がいたと聞いては、余計にお前を見捨てるわけにはいかない!
私はお前を死なせない、諦めないでくれ、きっときっと、お前を助ける
お前はもう、私の一部なのだ、愛しているから、死なないでくれ……!」
必死の思いが王子を突き動かし、彼は化身の体を揺さぶった。
「あ、愛している……? こんな僕を……ですか?」
少年はうろたえ、問い返す。
「そうとも! 私は化身のうち、誰が消えるのも嫌だし、お前が消えたら、“焔の眸”は、別のものになってしまうだろう!」
化身は、否定の身振りをした。
「いいえ、それは違います、化身が何個消えたって、本体……“焔の眸”には、何の影響もありません。
サマエル様、僕らは石に宿る精霊、実体はなく、生きてもいません、すべては幻……幻影に過ぎないんですよ」
「ならば、なぜ、お前は、そこまで傷ついている!?」
サマエルは思わず、相手が見えないことも忘れて、指を突きつけた。
「幻なら、傷などつかないはずだろう!?
お前はちゃんと存在している。そして苦しんでいる……なぜか?
それは、お前に心があるからだ。
そして……心がある者は、実体があろうとなかろうと、生きていると言えるのだよ」
「……たしかに、そうかも知れません。
でも、生まれ落ちた瞬間から、何一つ、いいことはありませんでした。
あるのは、ただ、ひたすら続く、苦痛と悲しみだけ……。
なのに、なぜ、これ以上、生き長らえなければならないのですか……?」
宝石の少年は、絞り出すように問いを発した。
「そ、それは……」
自分が、常時感じているのとまったく同じ思い。
それを突きつけられたサマエルは、絶句した。
乾いた唇を舌で湿し、懸命に言葉を探す。
だが、彼自身、死を望む気持を消せないでいるのに、他人の説得など出来るわけがない。
幾度も話し出そうとしたが、結局果たせず、うなだれてしまった。
「……分かったよ。もう、終わりにしてあげよう……」
「ありがとうございます。
やはり、あなた様こそ、僕を解放してくれるお方……」
盲目の化身は、再び王子の顔面を手探りした。
「……解放? こんな終わり方が……救いだと……?」
サマエルは、自分の無力さに打ちのめされていた。
涙を流せるものなら、とっくにそうしていたに違いない。
だが、肉体的にも心理的にも、彼は泣くことが出来ないのだった。
「そんなにご自分を責めないで下さい。
さあ、早く……」
少年の言葉は、ささやくようだった。
「お前には魔法が効かない……苦しめずに死なせてやるには、
サマエルは歯を食いしばって息を整え、それから呪文を唱えた。
「──エンサングイン!」
それに応えて出現したのは、妖しい輝きを発する黄金製の巨大な剣だった。
長さは少年の背丈と同じ、幅は広げた掌ほどもある。
王子はそれを、片側の刃を上にして、固定した。
腕にはもはや力が入らず、剣を振り上げることが出来なかったのだ。
「……いくよ」
「はい、よろしくお願いします」
化身は、祈るように指を組み合わせ、首を差し出す。
その後頭部に、王子は震える手を添えた。
このまま力一杯、鋭利な刃に押し付ければ、首を落とせるだろう。
サマエルは、固く眼をつぶった。
「……お別れだ。
もっとお前のことが知りたかったよ、“名前無き者”」
「僕もです。さようなら、サマエル様……」
氷のように冷たく光る刃を喉に当てられた化身もまた、わずかに震えていた。