9.名前無き者(2)
近づくサマエルの気配に気づいた最後の化身は、怯えたように身を縮めて
「こ、来ないで。もう、僕を呼び出すのはやめて下さい。
静かに眠らせて……いえ、もういっそのこと、殺して下さい、お願いです……」
金属製の拘束具が、がちゃりと音を立て、癒えることのない傷跡からは血がひっきりなしに滴り落ち、回廊の上で赤黒い石と化す。
「大丈夫だよ、酷いことはしないから安心しなさい。
私は、お前を助けるために来たのだからね」
サマエルは、優しく声をかけた。
名無しの化身は、少し警戒を解き、尋ねた。
「……僕を助けに? では、あなた様は、新しい魔界王陛下なのですか?」
「いや、私はサマエルと言って、現魔界王タナトスの弟だが」
すると、黒髪の少年は、眼を閉じたまま彼の方に顔を向けた。
「あなた様が、サマエル殿下……」
「私を知っているのかい?」
「はい。タナトス陛下にお聞きしました……」
「……そうか。兄に会ったのだものね」
そのとき、サマエルの心にある疑問が浮かんで来て、彼は改めて少年を見た。
代々の魔界王は全員、この哀れな化身のことを知っていたのに、なぜ、今まで放置していたのだろうと。
タナトスにしても、傷を治すか、せめて、拘束を解いてやるくらいのことはするはずだった。
兄は感情の起伏が激しく、怒りに任せて非情に振舞う一方で、優しい時もあり、心の底から冷酷というわけではないということを、彼は知っていた。
(……そういえば、ダイアデムは、今まで誰も、この化身を救うことが出来なかったと言っていたな……。
それに、この少年が生まれたのはシンハのすぐ後……ということは、拷問を受けたのは五十万年も前だ。
本当なら、傷はとっくに癒えているはず……なのに、どうして、未だにこれほど酷い状態のままなのだ?)
サマエルはつぶやく。
すると、まるでその問いが声に出されたかのごとく、少年は答えた。
「もちろん、タナトス陛下も含めた歴代の王様方は、僕のことを助けようと一生懸命、色々なさって下さいました。
ですが、これまで、どなたも成功されなかったのです……。
僕を最初にご覧になった王、ベリアル様は仰っていました。
『この傷は、お前の心に食い込んでしまっているから、消せないのだ。
されど、いつかきっと、お前の傷を癒すことの出来る者が現れよう、余には分かる』と……」
「そうだったのか。ベリアル王には予知能力があったのだろうね。
予知されたのが、私だといいのだが」
「……あ、あの……。
もしよかったら、あなた様のお顔に、触れさせて頂いてよろしいでしょうか……?」
少年は、まだ眼を開けることはせず、手探りをした。
その仕草に、サマエルははっとした。
「お前、眼が見えないのだね?」
「……はい」
化身は、わずかにうなずき、静かに続けた。
「僕が最後に見た物は、真っ赤になって煙を上げている、焼ゴテでした……」
「……!」
サマエルは絶句した。
突如、ガタガタと体が震え始め、それと同時に、この化身を助けるという固い決意と自信が、もろくも崩れ去るのを彼は感じた。
過去の偉大な王達が試みて出来なかったものが、お前ごときができるはずもないと
いつものように、それに屈しそうになった彼は、激しく首を振り、こらえた。
(……い、いけない、何もしないうちに諦めてしまっては。
それでは、今までと同じではないか。
彼を救わなければ、私の明日もないのだぞ……!)
サマエルは、自分自身を
「……そ、そう。可哀想に。だが、もう大丈夫、だよ……。
私が……お前を、必ず……助けて、あげる、からね……。
そ、そうだ、触れたいなら、ほら、私はここだよ……」
動揺を抑えられないままそう答え、回廊に膝をついた王子の顔に、傷ついた少年の手が伸び、おずおずと触れる。
「……ああ、とても力強い気を感じます……。
そして、あなた様の心の中に流れる涙も……。
あなた様なら、もしかしたら僕を……」
希望を持ったのか、化身はかすかに微笑んだ。
「以前お会いしたとき、タナトス陛下は仰っていました。
『俺には出来ないが、弟になら出来るかも知れない。いや、必ずお前を
その言葉は、兄自身に頬を張られたときと同様、
「そう、タナトスが……。では、頑張らなければいけないね」
言いながら、彼は化身の体に触れた。
「痛っ……!」
そっと触ったつもりだったのだが、少年は小さく悲鳴を上げて身を引いた。
「あ、す、済まない……!
──フィックス!」
慌ててサマエルは治癒魔法を唱える。
しかし、その呪文は効かず、痛みをこらえて唇を噛み締める化身の傷は、どれ一つとして、ふさがる気配さえ見せなかった。
「失敗……した? まさか、そんなことが……」
サマエルは眼を見開いた。
黒髪の少年は、ほんの少し首をかしげた。
「……ああ、お聞きになっていらっしゃらなかったのですね?
僕の傷は、今まで、どなたがどんな呪文をお使いになっても、治らなかったのです……」
「そ、そんな、異界でもあるまいし、魔法が効かないとは……!」
そこで、サマエルは、急ぎ、知りうる限りの呪文を矢継ぎ早に唱えたが、やはり、まったく効果は見られなかった。
「……ああ、やはり、あなた様でも駄目、なのですね」
最後の化身は、うなだれた。
「僕は、いつまで生きていなければならないのでしょう、こんな醜い姿をさらして……。
痛みも辛いですが、それ以上に、こんな
ああ、お願いです、サマエル様、僕を殺して下さい!
もう、もう、楽にさせて下さい!」
少年は叫び、見えない眼から、はらはらと涙をこぼした。
それは、漆黒の石となって、床に散らばる。
「こんな僕など、生きる価値もありません……。
僕の涙や血も宝石ではなく、ただのくず石なんですから……!」
「いや、そんなことはないよ、“焔の眸”。
生きる価値のない者など、いないのだから。
お前が死んでしまったら、私は、心が引き裂かれる思いがするだろう……」
サマエルは心を励まし、かつてのジルの口癖を真似て、化身を慰めようとした。
まるで鏡を見ているかのような気分だったが、自分の苦しみと区別出来なかったシュネのときとは違い、今回は、不思議と冷静さを保つことができていた。
そして、ワルプルギスの夜、シンハが自分に襲いかかって来るほど苛立った理由、さらにはついさっき、ダイアデムがあれほど腹を立てたわけも、ようやく彼は完全に理解出来た気がした。
(“焔の眸”は、私が、この化身を解放出来る可能性が高いことを知っていた……しかし、私と会わせることは出来なかった。
共に死のうとしてしまうだろうから……。
それで、彼らは、大丈夫と見極めがつくまで、名無しの化身のことは黙っていようと申し合わせていたのだろう。
いや、ダイアデムの言動からすると、一生隠し通すつもりだったのかも知れない……私の命を守るために。
なのに、私は、たった半日の自由を与えるのを渋ったあげく、やむを得ない理由で約束に遅れたシンハに、訳も聞かずねちねちと苦情を述べ立てて、彼を逆上させ……。
それだけならまだしも、あろうことか、弟子と心中を企ててしまったのだ……)
“焔の眸”の化身が感じた怒りと失望を思うと、王子の心は、申し訳なさで一杯になった。
もう失敗は許されない。今度こそ、正しい道を選び取らなければ。
決意も新たに、サマエルは、回廊に散らばった少年の涙と血をいくつか、拾い上げる。
それらが、
人界を放浪している間に、彼は、人界の土壌や鉱物を詳しく調べており、魔族と人族との混血が容易だったのは、二つの種族が発生した惑星の組成が、ほぼ同じであることが要因の一つでもあったようだと、分析していた。
「……ご覧、と言ってもお前には見えないだろうが、お前の涙は
どちらも貴重な鉱石だし、美しいものは宝石として扱われることもある」
彼が言うと、少年は首を横に振った。
「気休めはやめて下さい、僕を創った男は、どっちもくず石だと言いました。
そんな石しか作れない僕も、くずだから、いらないと……」
「いいや、お前はもちろん、これらも、くずなどではないよ。
むしろ、ただの宝石より価値はあると私は思う。
なぜなら、黒曜石は、かつては石器として利用され、さらには火打石ともされたのだから。
そして、赤鉄鉱は、無論、鉄……火打ち
考えてご覧、これら二つを組み合わせると、魔法が使えない場所でも、火を作ることが出来るのだよ。
“焔の眸”が生み出すにふさわしい、素晴らしい石ではないか?」
「サ、サマエル殿下……」
少年は、またも涙を流した。
「さあ、まずは手を見せてご覧。諦めるのはまだ早い。
魔法が効かないなら、何とか人力で、
彼は、励ますように言った。
「は、はい……」
促された少年は、恐る恐る、手枷で
やせ細った左の手は、あと少しで、拘束具から抜けそうな感じだった。
「こちらは取れそうだな。
少し痛いかもしれないが、ちょっとの間、我慢しておくれ」
「は、はい……くっ」
少年は歯を食いしばる。
サマエルが色々といじっているうち、ついに、少年の左手が、錆びた枷から解放された。
「そら、抜けたぞ」
「──あ、ありがとうございます!
初めてです、手が……手が、自由に動かせるなんて……!」
化身は感激して手首を動かし、サマエルも安堵の息をついた。
「──よし、今度は右手をやってみよう」
成功に勢いを得たサマエルは再び挑戦したが、残念ながら、こちらはうまくいかなかった。
「うっ、く、うう……!」
金属の手枷が動くたびに、必死に痛みをこらえる少年の右手首は、遥かな過去にくじいたのだろう、赤黒く腫れ上がっていて、外すことは到底無理だったのだ。
「……済まない、右手は無理のようだ……。
そうだ、せめて、痛みだけでも取ってあげよう。
──サーナーティオ!」
サマエルは優しく言い、手をかざして呪文を唱えた。
「……あ!?」
少年はびくりとした。
しった【叱咤】 大声を張り上げてしかりつけること。また、しかりつけるようにして励ますこと。
黒曜石(こくようせき、obsidian)
火山岩の一種。主に黒色(茶色、半透明のものも)でガラス光沢があり、化学組成は流紋岩質。
割れ目は貝殻状を示し、破片が鋭いので古代では石器に使われ、現代でも切れ味の良さから、海外では眼球/心臓/神経等の手術でメスやかみそりとして使われることがある。
メキシコのアステカ文明などでは、
様々な色の混じった美しい石は、装飾品や宝飾品として用いられる。
せきてっこう【赤鉄鉱】(hematite(米)・haematite(英))
酸化鉄の鉱物。結晶質のものは灰黒色、塊状で産出するものは赤色。三方晶系。最も重要な鉄の鉱石。
英名ヘマタイトは、ギリシア語の「血」に由来。
装飾品として加工されたものは、ブラックダイヤモンドとも呼ばれる。
火打ち金 火打石と打撃することにより火花を発生させるための鋼鉄片。火打鎌とも。
火打石
打撃式発火方法で使用する、硬度7以上の石。
この石の鋭い面と打ち合わせると、鋼鉄の表面が削れて火花が出る。
古代より白色で透明感のある石英がよく利用され、他にも少数ではあるが、チャートや黒曜石なども使用された。
つまり、丸い石をカチカチするだけでは発火せず、火打石の尖ったところを 鉄と打ち合わせて初めて、火花が出る。