~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

9.名前無き者(1)

ダイアデムは眼を伏せた。
「その言葉は、まだ、とっといた方がいいぜ、サマエル。
オレ、お前に言ってないことがあっから……」
サマエルは、わずかに眉根を寄せた。
「……そういえば、記憶の中で、ラシアスに言っていたね。
私の自殺願望を助長しそうな話……とか?」

「……それもあるけど。ちっと、踏ん切りつかなくってさ……」
「だったら……」
言いかけるサマエルを、ダイアデムは首を横に振り、退(しりぞ)けた。
「いーや、やっぱ、ハッキリさせとかなきゃダメだ」
「しかし、辛い話なのではないか?」

「けど、お前は知っちまった、オレに秘密があるってこと。
それを言わずにいたら、どーなる? “ココ”が、また変になっちまうだろ」
紅毛の少年は、王子の額を軽く指で突付いた。
「あーんなことか、こーんなことかって考え過ぎて、めっちゃ妄想入ってさ。
そーなる前に、ちゃんと言っといた方がいいに決まってんだろーが」
サマエルは、かすかにうなずく。
「……そうだね。
私は、すぐ悪い方へ考えが走っていって、抑制が利かなくなってしまうから……」

だが、ちゃんと話すと宣言した割には、ダイアデムはそわそわして落ち着きがなく、明らかに話し辛そうな様子だった。
助け舟を出すつもりで、サマエルは尋ねた。
「その話は、ベルゼブル陛下や、タナトスも知っているのかい?」
「ああ。このことは、代々の魔界王しか知らされてねーからな」
伏し目がちに少年は同意した。
「……なるほど。道理で知らなかったわけだ」
サマエルは、ほんの少し、微笑んだ。

すると、ようやく気分がほぐれたのか、少年は話し始めた。
「……実はな、“焔の眸”の化身ってのは、あと一人、いるんだけど……」
「えっ、もう一人の化身? たしかに初耳だな、それは」
「昔、シンハのすぐ後に生まれた……つーか、創られたヤツでさ。
会えば分かると思うけど、サマエル、あいつを救ってやってくれ。
ホントは、あいつのこと、誰にも見せたくねーんだ。
だけど……だけどよ、このままじゃ……」
ダイアデムは、頭を抱えた。

魔族の王子は首をかしげた。
「……誰にも見せたくない?
それに、“救う”とは、一体どういう意味なのだね?」
「あいつは……シンハ……いや、あいつ以上にひでーこと色々されてて、見た目もグロいし、きっと、死なせてくれって、お前に泣きつくと思う。
それでも、どうにかしてあいつを救って欲しいけど、それはすっごく難しいことで、今まで誰にも出来なかったし、お前でも、やっぱ無理かもしんねーんだ。
だから、どうしても、ヤツを助けらんねーときには……遠慮はいらねー。
楽にしてやってくれ……お前の手で、息の根を止めてやって欲しいんだ」
宝石の化身は、サマエルを真正面から見つめてまくし立てる。
その表情には、悲壮なものがあった。

聞いた王子の方も、青ざめた。
「い、息の根を止める!? そんな……出来ないよ、お前の分身を……!」
ダイアデムは、激しく首を左右に振った。
「いーや、それが、ヤツを解放する最後の手段かもしんねーんだ。
気にするこたねーよ、オレ達化身は、幻みたいなもんだ。
化身を何人()っちまったって、本体……“焔の眸”はどうもならねーんだから」

「そう言われても、無理だよ……」
ゆっくりと否定の身振りをするサマエルに、宝石の化身はすがりついた。
「ンなコトより、お願いだ、サマエル。
頼むから、ヤツと一緒に死のうなんてことは、考えねーでくれ。
お前が、あいつに会っても生きててくれんなら、オレ、何でも言うこと聞くから。
どんなことでもする、だから……」

魔族の王子は、必死な面持ちの少年を凝視した。
「何でも……本当に?」
「ああ、しろっていわれたら、何でもするぜ。
さっきだって、だから訊いたんだ、お前はオレに何を望むんだ? って。
オレに出来ることだったら、何でもしようって思って……」
「……そう。では、たとえば私の妻になる、というようなことでも……あ」
言った途端、サマエルは、自分でも驚いて口を押さえた。
妻という言葉は、考えるより先に、口から飛び出したように感じられた。

「お前、今、なんつった!?」
ダイアデムもまた、これ以上ないというくらい大きく、眼を見開いていた。
「……い、いや、無理、だろうね。こんな私の妻になってくれなんて……。
ああ、私は……何て馬鹿なことを言ってしまったのだろう……今のは忘れてくれ……」
サマエルはうなだれた。
「な、何だよぉ、いきなり告っといて、取り消す気か! オレをからかってんのか、お前!」
少年は、彼に指を突きつけた。

「まさか、本気だよ、私は。
でも、言うつもりなどなかった……断られるに決まっているのに。
それが分かっていながら、口に出してしまうなんて……。
……私は本当に、どうかしている……」
サマエルは、両手で顔を覆った。

ここに至って彼は、ようやく自分の真の望みに気づいたのだが、遅過ぎた。
いや、たとえさっき口にしたとしても、やはり受け入れてはもらえなかっただろう……そう彼は思った。
それでも、何も言わずにいれば、これから先、共に暮らすとしても、お互い、気まずい思いはしなくて済んだのに。
これでまたダイアデムは、自分と、眼も合わせてくれなくなってしまうに違いない。
せっかく一緒にいてくれると言ってもらえたのに、うかつなことを口走ったせいで、何もかも台無しになってしまった……。
王子は絶望的な気分に陥っていた。

しかし、彼の思惑を外に、宝石の化身は、意表をつく答えを返してきた。
「いーや、ンなこたねーぞ、あいつを何とかしてくれるんなら、考えてもいいな」
「──えっ!? ほ、本当に!?」
サマエルは勢い込んだ。
まったく望みはないと思っていたのに、ひょうたんから駒、とはまさにこの事だった。
「……ああ。どんな意味でもいい、あいつを解放してやってくれ、頼む。
そしたら、オレらは、今度こそ、お前に従う……何でもすっから」
ダイアデムは頭を下げた。

サマエルが、恋人を通り越して『妻に』と望んだのは、やはり、“焔の眸”と『家族』になりたいという思いがあったためだろう。
かつての彼にとって、家族や家庭は、呪いも同然な代物だったが、ジルとの生活を通して、それは劇的に変化した。
むしろ、今の彼にとっては、相手が、自分とずっと共にいてくれるという確証を得る上で、家族になる、というのは避けて通れないことだった。
そして、家族を形成するためには、まずはその最小単位である『夫婦』になることが先決だと、無意識に考えたのだろう。

それでも、彼は、ダイアデムの話に引っ掛かるものを感じていた。
最後の化身は救いを求めており、それが不可能なときは、殺さなくてはならなくなる……かも知れないという。
だが逆に、その化身を首尾よく『解放』出来さえすれば、“焔の眸”が妻になってくれるのだ。
こんな好機を逃すことなど、出来るわけがなかった。
それに、“焔の眸”と結ばれるのなら、やはり一度は、すべての化身に会い、話をしてみる必要があるだろう。

そこで、サマエルは答えた。
「分かったよ。何とかやってみよう……その化身を助けることが出来たら、何もかもうまくいく……妻になってももらえるのだしね」
「ホントか!? ありがと、サマエル!」
少年は、眼を輝かせた。

「では、まず、その化身のことを教えてくれないか。
名前と性別は? 人型か、それとも獣なのかい?」
サマエルの問いに対する返事は、またしても予想外のものだった。
「男で人型だけど、そいつにゃ、名前なんざ、ついてねーよ。
オレらは、そん時の気分で、『ネームレス』や『アゴニー』、『スティグマ』とか、テキトーに呼んでるけど」

「えっ、『名無し』に『苦痛』、それに『烙印(らくいん)』……?」
彼が面食らった顔をすると、ダイアデムは肩をすくめた。
(もてあそ)んで壊すためだけに創った人形に、わざわざ名前つけるヤツもいねーだろ。
少なくとも、あいつを創り出した野郎は、そうだった。
……虫けらをバラバラにしたり、カエルを踏み潰すのを楽しむガキみてーな……いや、それ以下のくそ野郎さ。
じゃ、頼んだぞ、サマエル。必ず……生きてまた会おうぜ。そしたら……」

ばっと立ち上がった宝石の少年は、勢いよく後に下がった。
それから、体につけていた純金製の装身具をすべて、床に投げ捨てた。
刹那、それらは砂と化し、風に運ばれて窓の外へと消え、同時に少年の体が輝き始める。

「あっ、待ってくれ、まだ話はすんでいない!」
サマエルの呼びかけに、光の中から続きが届く。
「お前のこと、好きだ。だから死ぬな、サマエル。
生きてたら、ヨメになってやるからよ」
「ダイアデム……!」

慌ててサマエルが立ち上がったときには、輝きはすでに消えて、回廊には、うずくまる一人の少年の姿があった。
身につけているのはボロボロの腰布一つのみ、年は、おそらくダイアデムよりも少し年かさで、人間で言えば、十五歳くらいだろう。
やせこけた体、尖った耳。肩まである黒い髪はもつれ、眼を閉じ、精気のない顔つきをしているが、かなりの美少年である。
そして、錆びた手(かせ)と足枷、さらには首枷が彼の自由を奪っていた。

それを眼にしたサマエルは思わず、鋭く息を呑み、顔を背けそうになるのを懸命にこらえた。
なぜなら、その化身の首から下すべてには、ついさっきまでサマエルの体にあったものとは比べ物にならないほど(むご)たらしい傷跡が、縦横無尽(じゅうおうむじん)に走っていたのだから。
鞭の跡、刃物の切り傷、火傷、殴られた跡……素肌が見えないほどだった。
少年の肌が浅黒いと分かるのは、端正な顔だけが損壊を免れていたからだが、そのことがかえって、体中に刻まれた凄惨な拷問の痕跡の痛ましさを助長しているように思われた。

サマエルは、眼からうろこが落ちたような気持ちになっていた。
ダイアデムが、自傷行為をする自分の側にいるのを嫌がった最大の理由……それは、この少年の傷と苦痛を、思い起こしてしまうからに違いなかった。
“焔の眸”の化身は、否応なく、こんな酷いことをされたのだ。
なのに、自分で自分を傷つける者がいる……なぜそんなことをするのか、ダイアデムには理解出来なかったのだろう。

だが、それで自分のことが嫌になったのなら、シュネの言う通り、“焔の眸”は、とっくに屋敷を出ていたはずだった。
それをせず、時折地下で眠ってしまうことがあっても、屋敷に居続けたのは……つい今し方ダイアデムが言ってくれたように、本当に自分のことを好きでいてくれて、いつか気づいて自傷行為をやめるまで、少し離れたところで見守り続けるつもりだった……のではないだろうか。

(本当に、私は愚かだ。彼の(こころざし)を無にしないようにしなければ。
絶対に、この少年を助けてみせる……!)
魔族の王子は固く心に決め、“焔の眸”の化身に歩み寄った。

agony(アゴニー)
  1(通例, 長く続く肉体・精神の)苦痛, 苦悶(くもん)
  2(心・感情の)激しい騒ぎ, 激情
  3 (しばしば-nies)死にぎわの苦しみ, 断末魔
  4 (the ~, A-)《神》(Gethsemaneの園におけるキリストの)苦しみ, 憂苦.
スティグマ 【stigma】
 ギリシャ語で、奴隷や犯罪者の身体に刻印された焼き印や烙印。
 個人に非常な不名誉や屈辱を引き起こすもの。アメリカの社会学者ゴフマンが用いた。
 (stigmata=複数形)聖痕(せいこん):十字架にかけられたキリストの傷に似た傷跡.