~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

8.夜の宝石(3)

昔からサマエルは、誰かに何か、ちょっとしたことを頼もうとしただけで、ひどく緊張してしまい、言い出せないまま諦めてしまうことがよくあった。
子供の頃、彼の要望は、ほとんどが無視されるか、あるいは手酷く拒絶され、結局は、自分でやる他なかったのだ。
幼い彼に応えてくれたのは、叔母であるイシュタルと、意外なことに兄タナトス、この二人だけだった。

今回も、散々思い迷ったものの、何とか勇気を振り絞り、彼は口を開いた。
「……そ、それでは、一つ、訊いてもいいか、な……?
自分がしたいこと……は、まだ、分からないけれど、色々考えているうちに……その、どうしても知りたいこと……が見つかったから、答えてもらえたらと思って……」

ダイアデムは、ほっとしたように表情を(ゆる)め、答えた。
「ンなコトか。何だ、言ってみろよ」
「で、では……あ、あの……ワルプルギスの夜……のこと、なのだが。
あの晩……お前が選んだ女性は、私が、かつて愛した女神……マトゥタ、によく似ていたような、気がするのだが……あれは、わざと……なのか?
──あ、いや、す、済まない、言いたくないならいいのだ、その……」
サマエルは、聞いてしまってから、また“焔の眸”が怒りを爆発させてしまうのではないかと恐れ、口ごもった。

“焔の眸”の化身は、分かりやすく言えば、多重人格のようなものだ。
ただし、記憶を共有し、それぞれに別個の肉体を持っている、というところが、単なる多重人格とは異なっていたが。

“焔の眸”は、怒りや危険を感じると、攻撃と守護を同時に(つかさど)る魔界の獅子、シンハを呼び出す。
怒りが頂点に達して変化した時には、理性を失い、本気で襲いかかって来ることもあった。
……シュネに倒されたときのように。

だが、サマエルも仕方がないことと受け止め、自分がやられていれば彼の気が済むと思っていた。
しかし、そうなってしまえば、シンハを正気に戻すことは難しかった。
“焔の眸”を傷つけると考えただけで、サマエルは、体が震えてしまう。
それくらいなら、いっそ殺されてしまった方がいいい、一石二鳥ではないかと、彼は考えていた。
特殊な条件を満たさなければ、自分を殺すことは出来ないが、それでもやはり、首を完全に食いちぎられたりすれば、死ねる可能性が高いだろうと。

(もう二度と、愛する者をこの手にかけることなど、絶対にしたくない……!
あの時、私の心の一部も一緒に死んでしまったのだ……。
訴えかける眼、わななく唇、差し伸ばされる手。
私は、その手を取ってやることが出来なかった……!
だから、彼は私に、心を開いてくれないのだろう……。
今さらどんなに悔やんでも、もう遅いのか……? 
すでに手遅れなのか……)

だが、今も心をさいなむ彼の辛い思いとは裏腹に、ダイアデムは軽く肩をすくめただけで、気軽そうに答えた。
「ああ、ラシアスのことか?
出会ったのは偶然で、一度でいいから、ものすごい美人と、心ゆくまでデートしてみたかったから、ダメもとで声かけてみたんだ。
けど、最初はびっくりしたぜ、(あけぼの)の女神マトゥタにそっくりなんだもんな。
でも、よく見たら、やっぱ全然違っててさ、プロポーションも、彼女の方が……」

すらすらと答えてもらえたので、緊張が少し解け、サマエルはさらに尋ねた。
「ど、どんな人だったか、教えてくれるかい……?」
「んー……そうだな、いいコだったぜ。
一応、男はいるんだけど。
祭りの夜に、彼女をほっといて遊び歩いてる、どーしようもねーヤツでさ。
んなヤツ振っちまいな、って言ったんだけど、諦め切れねーみたいでよ。
だったら、一晩中、オレと一緒にいて、そいつに焼きもち妬かせてやろうぜって誘ったら、おっけーさ」
おどけた口調でダイアデムは、指で丸を作ってみせた。

(私にも嫉妬させたい、そういうことなのか……?
私の心を確かめたくて。それとも、私を受け入れる気がないからか……?)
彼の真意がつかめず、サマエルの心は乱れたが、それを無理に押さえつけ、穏やかな表情を崩さずに言った。
「彼女だけではなく、引退したとはいえ、魔界の王位の象徴だったお前を振る女性は、魔族にはいないと思うよ」

しかし、彼の努力はアダとなった。
ダイアデムは、ぱちんと指を鳴らした。
「あっ、そっかぁ!
オレ、相手を間違えてたな。人間の女じゃなくって、魔族の女にすりゃよかったのかぁ!
なーんだ、それで今まで失敗してたんだ、ありがとな、教えてくれて。
よぉし、次からは魔族の女を選ぼうっと!
ラシアスも、すっご~くよかったけど、次は違うタイプにしてみるよ。
へへっ、今度はどんなコにしよっかなぁ……」
少年は、うっとりと宙を見上げた。

サマエルは、密かに歯を食いしばっていた。
ようやく自由の身になった“焔の眸”が、二度と束縛されたくないと思っていることを、頭では分かっているつもりだった。
一緒にいてくれると言ってくれたのはいいが、これでは、あまりにも一方的過ぎる……。
自分だけを見て欲しいという王子の思いは、完全に空回りしていた。

だが、それも当然だったかも知れない。
いくら、長年魔族と共に暮らし、さらに、原型は生身の少年であったにせよ、本体の“焔の眸”は鉱物であり、元々、生物とはかけ離れた存在なのだ。
その上、魔族は、決まった相手以外との男女関係を、さほどやましいと感じない種族である。

「あ、そーだ、サマエル。どうせなら、オレの記憶見るか?
オレがホントのこと言っても、お前って、なんか信用しねーじゃんか。
直に見りゃあ、一発だろ?」
宝石の化身の提案に、サマエルはうろたえた。
「えっ、直接……?」

無論、ワルプルギスの晩に、“焔の眸”が、実際にどんな行動をしたのか、知りたい気持ちはある。
しかし、それを直接見た場合、自分が冷静でいられるかどうか、彼は自信が持てなかった。
ダイアデムが、あの美人とキスをしていたり、もしかしたら……それ以上のこともしているとしたら。
話として聞く分には、まだ耐えられるかも知れないが、それを映像として見ることとなったら……。
いや、あの女性だけとは限らない、この様子では、他の女性にも声をかけているのではないか、それも一人や二人でなく……。
そして、おそらく、彼はその女性達と……。
サマエルの心は千々(ちぢ)に乱れる。

同時に、彼は、自分が、これほど独占欲と嫉妬心が強かったことにも、戸惑っていた。
秘めていた願望が叶い、ついに、“焔の眸”を手元に置くことが出来るようになった彼は、もう二度と手放したくないという思いで一杯になり、そんな自分の気持ちを、少々持て余し気味だったのだ。

「何だよぉ、見なくていいのかぁ?」
そんな彼の心の葛藤を知らないダイアデムは、可愛らしく小首をかしげ、訊いて来る。
断るつもりだった、『見たくない、話だけしてくれ、それを信じるから』と。
だが、サマエルの口からは、正反対の言葉が出ていた。
「見せてくれ、ダイアデム」
「おっけー」
宝石の化身は、楽しげに、再び指で丸を作った。

「マジ、超、すごかったんだぜぇ、ラシアスってー!
なんっつうか、もー、たまんねーって感じでよ!
オレの下手くそなしゃべりよか、直に見て感じた方が、絶対、彼女のよさが分かるってもんだぜ!」
「……そ、そうなのか」
「ああ、保証してやるよ。そしたらお前も、彼女に()れちまうかもなー!」
ダイアデムは、にっと笑った。

屈託のない笑顔を見たサマエルは、この場を逃げ出したくなった。
その一方で、どうしても好奇心を抑えることが出来ない。
「わ、分かったよ、だから、早く見せて……」
「ああ、そうだな、ほれ」
ダイアデムは顔を突き出す。
サマエルは彼の額に、震える指先で触れた。

「──うるさい!」
「きゃあ!」
ぱしっという音と同時に、女性が砂漠に倒れ込んだ。
「せっかくの祭りだぞ、これ以上、俺に付きまとうな!」
女性を殴り倒し、罵声(ばせい)を浴びせた男は、振り向きもせず去っていく。

「大丈夫か、どーしたんだ!?」
急いで、ダイアデムは、倒れた女性に駆け寄った。
「あ、……“焔の眸”様」
上半身だけ起こした女性は、彼に気づいて、涙を溜めた眼を見開いた。

「ダイアデムでいい。何なんだよ、あの男。行って、ぶっ飛ばしてやろーか」
彼は、走り去る男の後ろ姿を睨みつけた。
「……いえ、やめて下さい、わたしがいけないんです。
嫌われてるのが分かっているのに、どうしても諦め切れなくって……」
女性は、殴られた頬を押さえた。
その顔を改めて見たダイアデムは、鋭く息を呑んだ。

優しげな()を描く細い眉の下、長いまつげに半ば隠されて、淋しさを(たた)えた若草(ペリドット)色の瞳、整った鼻筋、その下にある形のいい唇は、唐紅(からくれない)(つや)めく。
砂を()う、細かく波打つ青玉(サファイア)色の髪、瞳と同色の上品なロングドレスの乱れた裾、豊満な胸の谷間は色っぽく、滑らかな肌は、少し褐色を帯びている。
素晴らしい美人だった。
だが、彼が驚いたのは、そのせいだけではなかった。

(マ──マトゥタ!? 何でここに……いーや、ンなわけねーよな。
でも、マジ、似てるぜ。世の中にゃ、そっくりさんが三人いるって言うけど)
無論、彼は、女神マトゥタとは直に会ってはいないが、以前、サマエルの記憶を見たことがあったのだ。

「あ、じっとしてろ」
我に返った彼は、手をかざし、美女の頬を治療した。
「すみません……」
「けど、あんたなら、他にも引く手、数多(あまた)だろ。あんな乱暴なヤツ、振っちまえよ」
彼がそう言っても、相手は否定の身振りをする。
(しっかし、美人だな……そうだ、せっかく知り合ったんだし)
まじまじと美女を見詰めていたダイアデムは、思い切って、誘ってみることにした。

「あー、あのさ。
オレ、前に聞いたんだけど、男ってのは、追っかけると逃げたがるモンなんだってよ。
だから、一晩中オレと一緒にいたって言って、さっきのバカに焼きもち妬かせてやらねーか?
そしたら、きっとヤツだって、あんたの良さを見直すさ」
「うまくいくでしょうか、そんなに……」
女性は、潤んだ瞳で彼を見上げる。

(──お、脈あり? よし、もう一押しだ)
「ああ、大丈夫だって。オレに任せな!
ほら、涙をふいて行こうぜ! 美人は笑ってた方がいいんだからよ」
ダイアデムは、自信たっぷりに胸をたたき、手を差し出した。
「……はい」
すると、ようやく美女は涙をぬぐい、彼の手をとって立ち上がった。

(──よっし、美女、ゲットだ!)
宝石の化身は、心の中で万歳をした。
(さてと、どこに連れ込もっかな)
考えていたとき、少し離れた場所から歓声が聞こえた。
「……ん? 何だ?」
彼は耳を澄ました。

そこで、急に映像が途切れ、サマエルは眼を(しばた)いた。
ダイアデムが口を開く。
「……とまあ、こんな風に彼女と会ったのが、シュネが、河童ともめてたトコの近くだったのさ。
そこは省いて、次、行くぞ」
「あ、ああ」
王子はうなずいた。