8.夜の宝石(2)
「も、もうやめてくれ、ダイアデム。
一晩眠れば魔力は戻るし、お前も、こんないやらしい夢魔になど、触れていたくはないのだろう……!」
サマエルは、もがき、宝石の化身の手を振りほどこうと試みる。
すると、意外なことに、ダイアデムは彼の体を押さえ込み、叫んだ。
「──いいから、も少し飲んで、ちゃんと回復しろってーの!
よく聞け、オレはな、お前の側にいるのはヤじゃねーんだぞ!」
驚いて、サマエルは少年を見上げる。
「だが、お前はいつも、私のことを、さも嫌そうに避けていたではないか……」
ダイアデムは、口をとがらせた。
「だあってよぉ。お前、何かあっと、すぐに体切り刻むだろ。
そんなの、オレ、見たくねーんだよ。
こっちが切られてるみてーで、あっちこっち痛くなって来るしさ」
サマエルは、自分を短剣で傷つけているところを、最初にダイアデムに見られてしまったときのことを思い出した。
たしかに、彼は、とてもショックを受けていた。
過去の悪夢が、甦って来る気がしたのかもしれない。
自分が避けられて来た理由を、魔族の王子はようやく悟った。
「それで、私に寄り付かなくなったのか……」
ダイアデムは肩をすくめた。
「──ったく、やっと分かったのかよ。
それがなきゃ、オレ、お前といるの、全然ヤじゃねーのにさ」
「そ、そうなのか?
私が自分を傷つけるのをやめたら、側にいてくれるのか!?」
サマエルは思わず飛び起き、宝石の化身と向き合った。
「あ……」
しかし、回復にはほど遠かったため、彼はまたも倒れ掛かる。
「おっと」
見かけによらず力がある少年は、楽々と彼を支えた。
「無理すんなって。
そうやって、眼ぇキラキラさせてるお前を見るのは悪くねーしよ、一緒にいてやってもいいぜ。
けど、お前、時々、思ってるのと言うのが真逆だろ、そいつは何とかしろよな」
これほど近く顔を合わせたのは久しぶりだったが、ダイアデムはまったく嫌そうではない。
さらには、条件付きながら、肯定的な返事をもらえたことで、サマエルの胸は喜びに
「わ、分かったよ、それに気をつけたら、私と共にいてくれるのだね?
これからも……ずっと?」
「ああ、いいぜ」
紅毛の少年は、こっくりとうなずく。
「よかった……つっ……」
心からの安堵を覚えた瞬間、肩に痛みを感じてサマエルは顔をしかめた。
「どした?」
「いや、大丈夫だから……」
「見せてみろ……あ、こりゃ血じゃねーか!」
ダイアデムは王子に飛びつき、着衣を剥ぎ取りにかかる。
「あっ、やめ、何を……」
弱々しい抵抗の甲斐もなく、血の染みついたローブとシャツを脱がされ、半裸となった夢魔の王子が、恥ずかしげに肩を抱く様子は、
「うわ、ひでーな」
ダイアデムは顔をしかめた。
自身を回復する暇も余力もなかったため、サマエルの体には、シンハにつけられた傷が、まだ歴然と残っていたのだ。
胸で脈打つ紅龍の紋章は血で汚れ、自業自得とはいえ、黄金の矢が端正な額に刻んだ傷跡も、ふさがってはいない。
さらには、先ほどダイアデムにビンタを食らわされた頬の赤みも、引いてはいなかった。
「……これ、シンハがやったんだよな。
ヤツはすっげー反省して、お前に合わす顔がない、すまないって謝ってるよ。
オレからも、ごめん……そして、ありがと、あいつを消さないでくれて。
それと、さっき、ぶっちまったのもごめんな。
だって、お前がしたことは、気の毒なシュネをさらに傷つけちまったんだし、それに、オレ置いて死のうとすんだもん、ついカッとなっちまってよ。
ホント、ごめん!」
ダイアデムは心から申し訳けなそうに、
「いいのだよ、もう。痛みにも、酷い扱いにも慣れているからね……」
サマエルは、ゆっくりと首を振った。
暴れたせいで開いた肩の傷に触れて、銀の髪が紅く染まる。
「待ってろ、今度はオレが治してやる」
ダイアデムは、王子を壁に寄りかからせ、手をかざした。
痛々しい傷が、“焔の眸”の魔力を受けて、跡形もなく消えてゆく。
「ありがとう……」
ダイアデムは、ぱちんと指を鳴らしてシャツの汚れを落とし、サマエルに着せかける。
そして、白絹のような彼の頬に優しく触れた。
「……あのよぉ、オレが言うのもなんだけど、お前、もっと自分を大事にしろよな。
こんな綺麗な肌に、血とか傷なんて似合わねーぜ、全然」
「あ、ああ……」
うなずきながらサマエルは、またも湧き上がって来る欲望を抑えつけた。
せっかく打ち解けてくれているのに、抱きしめたりすれば、今度こそ確実に逃げられてしまうだろうと思って。
(子供の頃は、シンハの温かな毛皮に顔をうずめ、心ゆくまで泣くことが出来たのに、今は、触れることさえ許されない……。
真実の心に気づかずにいて、彼を永遠に失うところだった、愚かな私……。
今さら責めるつもりはないが、もし、大人になるまで彼への想いを覚えていられたなら……そして、私が魔界王になっていたなら、現在は変わっていたのだろうか?
故郷を遠く離れたこんな山奥で、息を潜めて隠れ棲む必要もなく。
皆の祝福を受けて座す、輝く魔界の玉座の隣には、微笑みを浮かべた彼が、いつもいてくれる、そんな風に……?)
思い悩む魔界の王子の顔を、こちらもまた複雑な表情で見つめていたダイアデムは、やがて口を開いた。
「なあ、サマエル。
お前、ホントはオレらが憎いんだろ? 追い出したいんだろ?
い、言えよ、命令すればいい、ここから出てけって……!」
その声は、抑えようもなく震えていた。
サマエルは、首を振り、即座に否定した。
「いいや。お前には、いつまでも一緒にいてもらいたいと本気で思っている。
この先、何があろうと、出て行けなどと言う気はまったくないよ。
さっき、一緒にいると言ってもらえたときは、天にも昇る心地だった……」
ダイアデムは、ほっと息を吐いた。
「バカだよ、お前。オレはナマモノじゃねーってのに」
「馬鹿で構わないさ……」
サマエルは、かすかに微笑んだ。
「……と、とにかく、オレは、ちゃんと言いたいこと言ったぞ。
今度はお前の番だ、お前、どうしたい? オレに、どうして欲しいんだ?」
話し合って欲しいと言うシュネの要望に応えようとしたのだろう、ダイアデムは、彼に尋ねて来た。
「……え? だ、だから、私は、お前にずっと一緒にいて欲しいだけで……」
サマエルは、どこか怯えたように答える。
「──違ぇよ! それだけじゃ、また行き違いでモメちまうだろ。
お前、して欲しいこと、して欲しくねーこと、ハッキリ言わねーから、オレ、それで、苛々してんじゃねーか!
お前が、オレに望むものって、一体なんなんだ?」
宝石の化身は、どこか思い詰めた表情で、彼と自分を交互に指差した。
「私の……望み?」
サマエルは首をかしげ、ダイアデムの眼を見返した。
(無論、彼に側にいてもらうことだが……それはもう叶っている。
ならば、その後は……?
彼はまだ、何か言いたげだが……まずは、自分がどうしたいのかだ。
それを明確にしてから、彼の気持ちを聞けばいい)
そこで、サマエルは、自分に問いかけてみたが、心は
(……どうしたというのだ、私は。
いつもなら、どんな困難な状況下でも、すぐに何か考えつくのに……)
彼は困惑し、“自分が要望したいこと”を懸命に探すものの、心に広がる白い霧の中には、何も見えて来ない。
焦るほどに、頭の中は真っ白になっていく。
とうとう、サマエルは首を横に振り、力なく言った。
「……分からない。私は……一体何を望んでいるのだろう……」
ダイアデムは眼を丸くした。
「おいおい、お前、自分がしたいこと、分かんねーって言うのか?」
「済まない……だが本当に、何も浮かばないのだよ。
考えれば考えるほど、たった今まで澄んでいた水が、かき回されて濁っていくようで、ますます見えなくなって……。
やはり、私は狂っているのだな……自分のことも分からないとは……」
サマエルは、両手で顔を覆った。
たとえば、誰かが怪我や病気で倒れた時、あるいは陰謀を阻止しなければならない等、緊急事態に対処する場合には、彼ほど的確に状況を判断し、行動出来る人物は他にいないと言ってもいいだろう。
魔界の参謀という呼称も
他方、自分に関しては、彼は、まったく
幼い頃から存在を否定され、願望は決して叶えられることはなく、願う分だけ苦しくなる……ならば、初めから何も望まない方がいいと思ってしまうのも当然だった。
その傾向に、ベルゼブルがさらに拍車をかけた。
第二王子が幼い頃から、前魔界王は“魔界のために命を捧げるように”と、繰り返し言って聞かせて来た。
従って、最近までサマエルの目的は“死”……父親かどうかも分からない男と魔界のために、みずから命を散らすこと、それが最終目標だった。
しかし、今、その必要はなくなり、彼は目的を失った。
どう生きていったらいいのか、サマエルは
「お、おい、泣くなよ」
ダイアデムは焦り、顔を覗き込んで来る。
彼は静かに顔を上げた。
「泣いてはいないよ……涙など出ないのだから。
ダイアデム、せっかく一緒にいると言ってくれたが、こんな狂人に付き合う必要はない、やはり魔界に……」
すると、少年は、荒っぽく彼の言葉をさえぎった。
「うるせー、オレはもう、お前んトコにいるって決めたんだ、タナトスのトコなんかにゃ、還らねーぞ!
それにお前だって、さっき、何があっても、オレを追い出さねーって言っただろーが!」
「そ、それはそうだが……」
「じゃあ、オレはここにいるぞ、それでいいだろ、文句あっか!」
「……い、いや、ないよ。でも、……」
「だから、何だよ、言いたいことがあったらはっきり言え、それが“話し合い”ってもんだろーが。
あ、先に言っとくけど、さっきみたいなうだうだ話は、これ以上聞きたくねーからな!」
ダイアデムは、腕組みをした。
「……分かったよ……」
サマエルは、気になっていたことを聞く機会が出来たと思った。
しかし、いざ尋ねようとした途端に、どうせ答えてはもらえまい……それどころか、
ぼうよう【茫洋・芒洋】広々として限りのないさま。広くて見当のつかないさま。