8.夜の宝石(1)
廊下に出ると、ダイアデムは、頭の後ろで手を組み、ため息をついた。
「……やれやれ、あんなおチビちゃんに心配されてちゃ、世話ねーぜ」
サマエルはうなだれた。
「本当にそうだね。
だが、いけないのは私だ。いつもお前を苦しめてしまうばかりで……」
途端に、ダイアデムは瞳の炎を強く燃え上がらせ、サマエルを怒鳴りつけた。
「何言ってやがる、てめーが苦しめたのはオレじゃなくて、シュネだろが!
かあいそうな女の子まで巻き込んで、あんなに泣かせやがって!
──大体な! てめーらが二人揃って死んでるトコ見て、オレがどんな気分になるか、考えてみなかったのかよ!
──この、大バカ野郎が!」
宝石の化身が発した言葉は、鋭い刃も同然にサマエルの心に突き刺さったが、彼に出来るのは、詫びることだけだった。
「済まない、すべて私が悪いのだ……」
そんな王子の態度に、ダイアデムは余計に苛立った。
「マジうぜーんだよ!
大体、祭りの時だって、最初っから行くなって言やあよかったじゃねーか!
そしたら、ずっとお前の隣にいて、ノドでも鳴らしながら、お前のご機嫌取ってたさ!
好きにしていいって許可したくせに、後でなんだかんだ言われたらよぉ──オレ、頭がこんがらがっちまうぜ!」
少年は、紅い髪をかきむしった。
すると、サマエルの瞳に、暗く影が差した。
「……あの時は、お前の落胆した顔を見たくなかったのだよ。
駄目と言ったりしたら、ますます嫌われてしまいそうで、言えなかった……。
長い夜だったよ……誰と何をしたかもよく覚えていないほど、辛く、心の痛む晩だった……。
そして……約束の朝になっても、お前は帰って来てはくれず……。
ついに見放されたのだと……恐れていた通りになってしまったと思い……覚悟していたはずなのに、悲しくて苦しくて、胸が張り裂けそうになって……。
だから、お前が戻って来てくれたときは、それはもう、うれしくて……けれど私は、半ば正気を失ってしまっていたから、お前がすぐまた去ってしまいそうな気がして……だから、つい、言うつもりがなかったことまで……」
「──黙れよ、バカ!」
荒々しく彼の話をさえぎり、ダイアデムは足を踏み鳴らした。
「ほんのちょっと遅れたくれーで、何でうだうだ言うんだ、ちゃんと帰って来たじゃねーか!
大体、オレらがいつ、お前を見放したりしたんだよ!
それが出来たら……それが出来ねーから……ええい、くそったれ!」
少年は、くるりと背を向け、駆け出した。
「あ、待っ……」
追いかけようとしたサマエルは、不意にめまいを感じた。
とっさに壁に手をついたものの、支え切れずに、ずるずると床に倒れ込んでしまう。
「う……!?」
短剣を呼び出す呪文を唱えようとしたが声が出ず、彼はようやく、自分の魔力が底を尽いていることに思い至った。
(短剣で目玉をくり抜いてしまえば、彼が私を置き去りに、去っていく姿を見なくて済むと思ったのに。
どうせ、数週間もすれば生えて来るのだから……ああ、ダイアデム……)
呼び止めることも、眼を
(“焔の眸”は魔界の至宝、本来ならば今も魔界にいて皆に
なのに、選択の余地もなく、こんなところまで連れて来られ、さらには、私のような狂人と嫌々暮らなければならない……。
ダイアデムは、そんな自分の不運を日夜嘆いて、私を避けているに違いない……。
関わる者に、悲しみと苦痛、不幸をもたらす……こんな私がなぜ、生まれて来てしまったのだろう……)
悲しみのどん底で、サマエルは身を震わせた。
彼の魔力が底をついた理由……それは、ワルプルギスの翌日、力が暴発して倒れたシュネに分け与えたのを皮切りに、今まで食事も精気も補うことなく、力を使い続けていたために他ならなかった。
まずは、シュネ。
彼女の命を救うためには、一刻の猶予もなく、魔力を補給しなければならなかった。
それから、大急ぎで、シンハの治療に取り掛かった。
シュネには気絶しただけのように言ったが、実際にはかなり重傷だったのだ。
彼女に分けたばかりでなく、前日には広大な砂漠に結界を張り、河童を蘇生などしたせいで、元から魔力はさほど残ってはおらず、治療は容易ではなかったが、サマエルは、必死の思いでやり遂げた。
しかし、ほっとする間もなく、せっかく助けたシュネは自殺を図り、いくら慰めても生きることを拒絶し、苦しむばかり。
日頃から死こそが最上の安らぎと考えている彼は、それならばと、一緒に死のうとした。
これで救われるはずだった、二人共。
なのに、土壇場でシュネは死を拒み、今また“焔の眸”も去って行き……すべてから見放されたと思った瞬間、気力が尽きて、サマエルは倒れたのだ。
先ほどシュネを操った際に、わずかに残っていた魔力を使い果たした彼は、本当ならこの時点で、死んでいたはずだった。
だが、彼の中に封じられた巨大な力、“紅龍”が、宿主である彼を、簡単には
(もう眠るしかない……目覚めていれば、また誰かを不幸にしてしまう。
どうせ、ダイアデムも、再び地下で眠りについている頃だ。
ここで倒れている私を見つけたら、タィフィンが気を利かせて、私を彼の隣に運んでくれるだろう。
それに、眠るだけなら、シュネとの約束も破ったことにはならない……。
私と違って彼女は強い、必ず立ち直り、光の中を歩んで行ける、一人でも……)
眼がかすんでいき、意識が遠のく。
(百年でも千年でも、いいや永遠に、“焔の眸”の隣で眠り続けよう……。
せめて……それくらいの望みなら、こんな私にも、許されるだろうか……)
祈りを込めて、彼がまぶたを閉じたとき。
「──おい、どしたんだ? サマエル、大丈夫かよ」
澄んだ声が、突然、頭上から降って来た。
やっとの思いで、サマエルは眼を開ける。
いつの間にか、宝石の化身が引き返して来た……ようだったが、光を失った彼の瞳には何も映らない。
「っ、うう……」
答えようとしても、うめき声しか出せず、まぶた以外は、まったく動かすことが出来なかった。
「……何だよ、お前、声も出ねーくらい弱ってたのか?
追っかけて来ねーから変だと思った……ったく、そんなになるまで無理しやがって。
せっかくのべっぴんが台無しだぜ、おでこに傷はつけるしよ。
けど、治療よか、魔力の補充が先だな」
ダイアデムは、優しく王子の頭を抱えて、自分の膝に乗せた。
「そら、飲めよ」
信じられない思いでいるサマエルの胸に、少年は掌をあてがい、濃厚な精気を送り込む。
「あ……ああ……」
心の準備もないままに、突如、全身が
雲間から日差しが射しそめるかのごとく、
今、彼が体感しているのは、眼も
絶世の美女に抱擁され、その柔肌から伝わって来る熱い体温を感じながら、甘く
以前、兄タナトスに精気を与えられたときは、度数の高い酒を力尽くで大量に流し込まれるに等しい不快感を味わったものだが、それと今回の感覚とでは、天国と地獄ほどにも開きがあった。
魔界にいた頃、叔母イシュタルから精気をもらうのは、とても気持ちがよかった。
しかし、これはそれ以上……今まで経験したこともない快感、としか呼びようがなかった。
「あ、あぁあ……」
彼は無我夢中で、魔界の至宝から与えられる
そんなサマエルの様子を楽しむように、宝石の少年は、にっと笑った。
「どうだ、なかなかイケるだろ?」
体中がとろけるような陶酔のさなか、サマエルは思考をかき集め、どうにか感想を口にした。
「あ、あ、す、ごい……こ、の世の、物とは、思えない、ほどの……」
夢魔の王子であるサマエルを
魔力の弱い者ほど、身も心も奪われ、溺れ込んだあげく、狂死してしまう者も出たほどだったのだ。
『“眸”にのめり込む者は破滅する』、そう言われる
「けどお前、メシぐれーちゃんと食えよ。
んな、死人みてーな青白い面してるよりかさ、やっぱ、頬っぺたがちょいと桜色してた方が、ぐっとくるぜ」
にやにやしながら、ダイアデムは彼の頬を指でつつく。
「ああっ……!」
その、ごく軽微な刺激にも体が反応してしまい、サマエルは思わず声を上げる。
頬にますます赤味が差し、彼は、湧き上がる情欲を押さえつけた。
このまま欲望に負けてしまえば、二人の関係を改善する機会を永遠に失ってしまうかも知れない。
せっかくシュネがくれた、話し合いの時を無駄にしないよう、彼は息を弾ませて耐える。
「──く、ダ、ダイアデム、……も、もう、やめ……これ以上……私はまた、お前を……」
「あ、そっか、インキュバスをこれ以上興奮させちゃ、やべーよな。
前に、それで、食われちまったんだっけ」
そう言いながらも、大して焦る様子もなく、宝石の化身は彼の胸から手を外す。
サマエルは、物足りなさと安堵感、両方を一度に感じて汗をぬぐった。
魔力が少し戻ったことで、彼の思考は正常に働き始めていた。
甘美な感覚の名残はまだ体の奥でくすぶってはいたものの、彼ほど力がある魔族には、“焔の眸”の麻薬性もさほど強くは作用しない。
それでも、あのままでいたら欲望を抑えられなくなり、ダイアデムを押し倒してしまったに違いなかった。
(だが、彼が私を受け入れてくれる可能性は、なきに等しい……。
たとえ、力尽くで思いを遂げたとしても、彼は屋敷から逃げ出してしまうか、あるいは地下室にこもって、二度と顔を見せてはくれないだろう……)
サマエルは、そう諦めていた。
「……んー、でもまだ、足んねーみたいだな、やっぱし」
しかし、サマエルの決意を無にするかのように、宝石の化身は再び胸に手を置き、先ほどより慎重に、ごく少量ずつ魔力を注入し始めた。
そして、空いている方の手で絨毯に広がる銀髪の一束を取り、口づける。
そんなダイアデムの仕草に気づく余裕がないサマエルは、必死の面持ちで言った。
「い、いけない、ダイアデム、危険だ。
もう、こうして話もできるし、動けもする、だから手をどけて」
「ゆっくりやりゃー、大丈夫だって」
少年はそう答え、やめようとはしない。
インド神話で、飲む者に不死を与えるとされる神秘的な飲料。
アスラ族との戦いに疲弊した神々が、アスラ族に協力させて造ったとされる。
乳海と呼ばれる海に様々な素材を投げ入れ、マンダラ山を攪拌(かくはん)棒に、ヴァースキ竜王を綱として千年間攪拌した末に、ダヌヴァンタリ神がアムリタの入った壺を携えて出現した。
神々とアスラ族は互いに独り占めにしようと争ったが、ヴィシュヌ神の機転により、アムリタは神々のものとなった。
仏典では阿密哩多と音写され、漢訳では中国の伝説の飲料、甘露(かんろ)の名で呼ばれた。
(ウィキペディアより)