6.緑の龍(3)
「うーん、眩し……」
カーテンの隙間から漏れる明るい光が、僕を目覚めさせた。
いつも通りの
「──? わ、わっ、めまいがするぅ……」
大慌てで、僕はもう一度、枕に頭をつける。
「おはようございます、シュネ様」
そのとき、ノックと一緒にドアが開いた。
でも、部屋に入って来たのは、宙に浮いたトレイだけ。
「ご無理なさらない方がいいですよ。
はい、お食事をお持ちしました」
そして、トレイは、僕の眼の前に置かれた。
広い屋敷を掃除したり、毎日の食事を作ったりしているのは、透明なサマエル様の使い魔なんだ。
よっぽど恥ずかしがり屋なのか、いつも姿を消しているから、一年も一緒にいるのに、どんな顔をしているのか、僕は知らない。
「おはよ、タィフィン。
今起きようとしたら、気持ち悪くてさ。どうしちゃったんだろ、僕……」
僕は、枕に頭をつけたまま、ため息をついた。
「お腹がお空きなのですよ、きっと。
お食事を召し上がったら、お元気になられると思います」
そう言われて気づけば、ものすごく腹ぺこだった。
「……寝てただけなのになあ。
ま、いいや、頂きます……あ、あれ?」
スプーンを取ろうとしたら、手が震えて、持てない。
「では、わたくしが、お手伝いを。
その前に、ちょっとお体を起こしますよ」
見えない使い魔は、僕の背中に枕を入れて、少し上半身を起き上がらせてくれた。
「いかがですか?」
「うん、大丈夫」
「では、お口を開けて下さいませ」
今度はスプーンが空中に浮かび、お
情けないけど、僕は、赤ちゃんみたいに食べさせてもらうことになってしまった。
タィフィンの作るご飯は、いつも美味しい。
すぐに、お粥はなくなった。
「ごちそう様。美味しかったよ」
「そうですか、喜んで頂けてうれしいです」
食べ終えたら、また眠くなってきて、僕は大あくびをした。
「……ふぁ……ねぇ、中に眠り薬でも入れたのぉ?」
「いいえ、多分、魔力を回復するのに、睡眠が必要なのですよ。
お眠り下さい、お熱も少し、おありのようですから」
「そっか……うん……」
とても眠い。返事をしながら、僕は眠ってしまった。
次に目を覚ましたとき、ベッドのそばには、サマエル様がいた。
「具合はどうかな、シュネ。よく眠っていたので、お昼には起こさなかった。
お腹が空いているだろう? もう夕飯の時間だよ」
サマエル様はそう言って、いい匂いがする焼き立てのふっくらしたパンを、温かいスープにひたして食べさせてくれた。
「さ、また眠って、早くよくおなり」
「は……い……」
食事が終わると、彼に見守られながら、僕はまた眠りに落ちた。
昼も夜も関係なく、目覚めたと思うそばから眠ってしまう。
僕はずっと、うつらうつらして過ごした。
そうして、一週間ほど過ぎた頃、僕はやっと起き上がれるようになり、色々と考える余裕も出て来た。
僕の過去には、辛いことしかない……。
どうしようもなく悲しくて、我慢しようとしても、後から後から、涙が出てくる。
僕は、これから、どうしたらいいんだろう……。
たとえ今、僕が死んでも、父さんも母さんも戻っては来ない……。
だけど、両親を殺してしまったのに、僕だけがこのまま、のうのうと生きていてもいいんだろうか……。
そう考え始めてからは、今まで何の気なしに食べていたものが、全然喉を通らなくなってしまった。
サマエル様は、心配して、何とか僕に食事をとらせようと苦心してくれたけど、吐き気がひどくて、何も食べられない。
そして、眠れば、必ず悪夢にうなされるようになってしまった。
いや、寝てるときだけじゃない、起きているときでも、あの忌まわしい、父さんが死んだ瞬間、母さんが海に飛び込む姿が、いきなり鮮明に蘇って来る。
今日は、特にそれが酷かった。
「父さ……父さん!死なないで! 助けて……誰か……父さんが死んじゃう!
……ああ、違う……これは幻……でも、幻でも、僕は……!
──うわああああああああ──っ!」
どうしようもなく吐き気が込み上げてきて、僕は何度も吐いた。
涙があふれ、体の震えが止まらない。
僕の震えに共鳴して、部屋全体が音を立てて揺れ始めた。
そして……体から、シンハを倒した時と同じ、緑色の龍の力がまたもあふれ出した。
僕は、それを制御出来ない。
緑の龍は、すごい勢いで暴れ回り、ペンや本、枕や布団に椅子……部屋の中のあらゆるものが宙を舞い、重い机は転がって倒れ、しまいに、ベッドまでが僕を放り出すと、窓に体当たりしてガラスを割り、外に飛び出して行った。
「──く、苦しい、苦しいよぉ……!
父さん、母さん……僕も行きたいよ、楽になりたい……!
──誰か、誰か──僕を殺して……!」
お腹の中のものは全部吐いてしまったのに、吐き気が治まらない。
出て来るのは、もう胃液だけだっていうのに。
僕は、喉や胸をかきむしった。
「はあ、はあ、苦しい……!
ああ……母さん、どうしてあの時、僕を生かしておいたの……?
父さんの仇の僕を、ひと思いに殺してしまえばよかったのに!」
その時突然、稲妻のように頭の中に映像が
「そうだ、机の中にあれが……」
物が飛び交う中、四つんばいで何とか進み、ひっくり返った机にたどり着く。
荒い息をつきながら引き出しを引っ張ると、中身が床にばら撒かれる。
空中に飛び出す前に、急いで僕は、それを引っつかんだ。
そして
ナイフの冷たい光が、僕の眼に映った。
これを突き立てれば、すべて終わる……楽になれる。
僕は両手でナイフを握り締め、喉に押し当てた。
これで、やっと楽になれる。
そう思っても、やっぱり手が震え、噴き出して来た汗で滑ってしまう。
(しっかりしろよ!)
僕は自分に言い聞かせ、何度も寝巻きで手をふいてナイフを持ち直し、喉に押し当て、ぎゅっと眼をつぶる。
「──えいっ!」
力を込めた瞬間、音を立ててナイフが砕け散った。
「な、何!? ど、どうして……!?」
僕がびっくりしたせいなのか、今まであんなにすごい勢いで暴れ回っていた緑の龍も、一瞬で消えてしまった。
同時に、飛び回っていた色んな物が、全部、音を立てて下に落ちる。
「落ち着いて下さいませ、シュネ様。早まったことをなさってはいけません」
聞き覚えのある声がして、僕は周囲を見回した。
「──誰!?」
でも、部屋には誰もいず、声だけが答えた。
「わたくしでございます」
「この声は……」
「はい、タィフィンでございます」
一瞬、ぽかんとしてから、僕はようやく気づいた。
透明な使い魔が、ナイフを壊したのか。
「なんで邪魔するんだよぉ! 僕なんか、生きてたってしょうがないのに!」
僕は、見えない相手に食ってかかった。
「シュネ、やめておくれ。キミが死んだら、私は悲しい……」
そのとき、部屋の真ん中に、黒いローブ姿の人が現れた。
「もう、したくても出来ません……タィフィンが、ナイフを壊しちゃった。
だけど、僕、どうしていいのか、分かんない……。
どうして、生まれてきちゃったんだろ……。
僕は……父さんと母さんを殺すために、生まれて来たの……?」
僕は顔を覆い、すすり泣いた。
「それは違う、ご両親のことは辛かったが、単なる巡り合わせだよ。
運の悪い事故だったのだ……悲しいとは思うし、いくら泣いても構わないが、そのことで、自分を責めてはいけないな」
サマエル様は、いたわるように優しく言う。
だけど、それが、口先だけの言葉に聞こえて僕は苛つき、彼に食ってかかっていた。
「慰めなんかいらない、って言ってるでしょ!
あなたには分からないんだ、僕の辛さが!
王子様として大切に育てられ、ぬくぬくと幸福に育ったあなたなんかに、僕の苦しみが──分かるもんか!」
すると、サマエル様の声が暗く沈んだ。
「どうして、キミは、私が幸福だった……と思うのかな?」
「だって、あなたは、魔族の王子様なんでしょ!
大きなお城に住んで、ふわふわの布団に寝られて、綺麗な服を着て、いい物たくさん食べれて、召使も一杯いるから、働かなくたってよくて……!」
僕は連想ゲームみたいに、王子という名から思いつく限りの、贅沢な生活を並べ立てた。
けれど、サマエル様は、途中でそれをさえぎった。
「お待ち、シュネ。それは一体、どこの王子の話なのだね」
「どこのって、王子様って皆、こんなもんでしょ……」
「いいや、私の場合はまったく違う。王子とは名ばかりさ。
幼い頃の私より、普通の子供の方が、よほど幸せに暮らしていたと思うよ」
「え?」
僕は思わず、彼の顔を見た。
「私はね、誰にも望まれない子供だったのだよ。
母が私を生むとすぐに亡くなったせいで、幼い頃、兄によく責められ、殴られていた。
そして、父は兄ばかりを可愛がり、私など存在しないかのように、無視し続けた……。
私は幼心に思ったよ、『何のために私は生まれたのだろう、母を殺し、兄に憎まれ、父にうとまれるためか?』と……。
そして、ある日……私はついに耐え切れなくなって、キミと同じことをした……」
サマエル様は、自分の胸を剣で刺す仕草をした。
息を呑む僕には目もくれず、彼は暗い声で話し続ける。
「死に切れず苦しんでいた私のもとに、シンハが現れたのは、その時だ。
とどめを刺し、母の下へ逝かせて欲しいと懇願する私を、彼は
それからは、私が泣くと、すぐ飛んで来てくれるようにもなったのだ。
彼が親代わりになってくれなかったら、私は……あの
……どうかな? 王子だからといって、幸せだとは限らないだろう?
キミの悲しみ、苦しさ、孤独、罪の意識……すべてが私には、とてもよく分かるよ」
彼の眼は乾いていたけど、泣いているみたいな気がした……。
初めて聞いた、サマエル様の過去は、とても衝撃的で、なんていうか、王子という立場からは想像も出来ないほど悲惨で、僕は心底驚いた。
けれど、そのとき、僕はまだ、自分の境遇の方がもっとずっと酷いと思っていたから、言い返した。
「た、たしかに、あなたも大変だったし、お、お気の毒だとも思うけど、ぼ、僕と、すっかり、同じってわけじゃ、あ、ありませんよ!
だ、だって、あなたは、僕みたいに、ひ、人殺しなんか、したこと、ないでしょう!
じ、自分の両親を、殺したことなんか、ないんだから!」
でも、サマエル様の返事は、ここでも、僕の想像を遥かに超えていたんだ。
彼は首を振り、とても静かに言った。
「いいや、その点でも、私はキミと同じなのだよ。
なぜなら私もかつて、父親を殺したから、ね……」
「──えええっ!?」
僕は今度こそ、びっくり仰天した。